『日本文学の歴史2』古代・中世編2

平仮名は、漢字の草書体から派生し、躍動感と優美さを具えていて、作品の内容とともに外見の美しさを重んじた宮廷女性には、歌を書くにも散文を書くにもうってつけの文字だった。

個々の平仮名に「変体仮名」と呼ばれる奥の字形が存在するのは、主として書道の上から考えられたことだと思われる。

 

いっぽう片仮名は正規の漢字の一部分を撮ったもので、平仮名の元字と同じ漢字からとられていることもあり、優雅な所には向かないが、読みやすいことから公文署や宗教的文書によく用いられた。

奈良時代には、男性も女性も「万葉仮名」を使っていたが、表意文字としての漢字と、表音文字としての漢字を混用するかきかたである。

 

しかし平安時代に入ると、万葉仮名による日本語表記は、男性と少数の女性が使用した漢文か、仮名の多用による、日本語表記にとってかわられる。

趣味の良さを認められるには、当時使用されていた文字の中の少なくとも一つに熟達していなければならず、手習いは宮廷生活の日課の一つとなった。

万葉集から古今集へ

万葉集は代々代々引き継がれ、783年に大伴家持(718-785)によって完成したが、大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり、家持も連座したため、『万葉集』という歌集の編纂事業は、平城天皇即位後の恩赦により、延暦25年(806年・大同元年)以降にようやく世に出たと思われる。

『古今和歌集』は仮名序と真名序の二つの序文を持っており、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂されたのだ(905年)が、その百年以上もの間、真名(万葉仮名)はどのように変遷していったのかと考えれば、聖武天皇(701-756)以降にも優れた歌人はいたであろうが、桓武天皇(737-806)による平安京(794年)への遷都が、倭歌(万葉仮名)から和歌(やまと歌)の文化へ変えていったように思う。

 

古今集》 

現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も入れられており、奏覧ののちも内容に手が加えられたと見られ、実際の完成は延喜12年(912年)ごろとの説もある。

 

藤原俊成はその著書『古来風躰抄』に、「歌の本躰には、ただ古今集を仰ぎ信ずべき事なり」と述べており、これは『古今和歌集』が歌を詠む際の基準とすべきものであるということである。

ただし江戸時代になるとその歌風は賀茂真淵などにより、『万葉集』の「ますらをぶり」と対比して「たをやめぶり」すなわち女性的であると言われるようになる。

 

平安時代後期和歌集・勅撰集

平安時代後期は、白河上皇が院 政を始めた応徳3年(1086)から、 源頼朝が鎌倉幕府を開いた建久3 年(1192)までの約 150 年間で、 古代から中世への変革の時代で ある。

即ち、1 古今和歌集(913-14年)・2 後撰和歌集(957-959年)・3 拾遺和歌集(1005-07年)の後続という事になる。

 

4 後拾遺和歌集(1086年)・5 金葉和歌集(1126年)・6 詞花和歌集(1151年頃)・7 千載和歌集(1188年)・8新古今和歌集(1205年)という事になる。

ところで勅撰和歌集は、平安時代から室町時代にかけて、21回作られており、資料として次に記しておく。

 

9 新勅撰和歌集(1235年)・10 続後撰和歌集(1251年)・11 続古今和歌集(1265年)・12 続拾遺和歌集(1278年)・13 新後撰和歌集(1303年)・14 玉葉和歌集(1312年)・15 続千載和歌集(1320年)・16 続後拾遺和歌集(1326年)・17 風雅和歌集(1349年)・18 新千載和歌集(1359年)・19 新拾遺和歌集(1364年)・20 新後拾遺和歌集(1384年)・21 新続古今和歌集(1439年)

 

平安時代後期の漢文集

『土佐日記』(934年)に『唐詩、声あげていひけり」という一節があり、少なくともこのころには朗詠が行われていたことがわかるが、もっともよく知られている詩文集は『和漢朗詠集』(1013年)であり、藤原公任が娘の結婚祝いに持たせた。

「朗詠」とは、詩歌を一定の曲に乗せて吟ずることを言い、中国で、宴席の座興として詩人が即興詩を歌ったことから起こり、日本にもすでに八世紀には伝わっていたが、広く行われるようになったのは、それから三世紀後のことである。 

平安時代の日記文学

平安朝宮廷人の日記は、有職故実をお重んじる宮廷にあっては、書いた当人はもとより、子孫にも前例の記録として重要で、宮廷の日常生活を微に入り細にわたって何巻にも記している漢文日記があるが、それで文学的名声を勝ち得ようという野心は毛頭ないのである。

一方、仮名文で日記を書いた女性たちは、個人的に意味のあることだけを、詩的な美しさで表現し、同じ日記と呼ばれながら、両社はずいぶんと違うが、それは男性作者の無味乾燥な漢文は、「ダイアリー」に似て、宮廷女性の日記は、むしろ「自伝」に似ている。

その女流日記を並べると、まず『蜻蛉(かげろう)日記』は、(954年 - 974年)の出来事が書かれており、作者は藤原道綱母(936年? -995年)である。

次いで恋多き、『和泉式部(978-?)日記』(1003年4月〜1004年1月)は、数か月間の出来事であるが、女流日記文学の代表的作品である。

絵巻にもなった『紫式部日記』(1008年-1010年)は、藤原道長の要請で宮中に上がった紫式部(970?-1019?)が、宮中の様子を中心に書いた日記と手紙からなる。

母の異母姉が『蜻蛉日記』の作者である、『更級(さらしな)日記』(1020年-1059年)の作者は、菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女・菅原孝標(1008-1059)女で、平安時代中頃に書かれた回想録である。

上巻は、堀河天皇の看護を、下巻は鳥羽天皇についてを描いている『讃岐典侍(さぬきのすけ)日記』(1109年)は、平安時代後期に讃岐典侍藤原長子(1079-?)によって書かれた日記文学である。