五 『万葉集』から「古今集」へ
平安時代の文学は、扱いにくい『万葉仮名』にとってかわった、2種類の仮名文字の発明なしには考えられない。
漢字を表音文字で置き換えていく過程には、少なくとも1世紀と言う時間がかかり、多くの人間がかかわったはずである。
奈良時代には、男性も女性も『万葉仮名』を使っていたけれど、これは表意文字としての漢字と、表音文字としての漢字を混用する書き方なのだ。
平安時代最初の和歌集は『新撰万葉集』(上巻893年・下巻913年)と言い、その名前から、この時代にも『万葉集が忘れ去られていなかったことがわかる。
『新撰万葉集』は、和歌も漢詩も宮廷風であるが、漢詩は和歌に基づいてつくられ、漢詩の方が内容は豊かである。
894年、宇多天皇は大江千里に命じて歌を奉らせたのが「句題和歌」で、漢詩の1句をとり、それを和歌に作り直したことを意味している。(20210208)
平安時代(王朝文化:794年 -1185年)は、日本の歴史の時代区分の一つであるが、794年に桓武天皇が平安京に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったのである。
そんな時代なのだが、勅撰和歌集は①古今和歌集(905)以下7集あり、②後撰和歌集(958)③拾遺和歌集(1005)④後拾遺和歌集(1086)⑤金葉和歌集(1124)⑥詞花和歌集(1152)⑦千載和歌集(1188)である。
『古今和歌集』は仮名で書かれた仮名序と真名序(漢字)の二つの序文を持つが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に撰ばれなかった古い時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂したという。
撰者は紀友則(845?-907)、紀貫之(866?-945?)、凡河内躬恒(おおこうちみつね:859?-925?)、壬生忠岑(860?-920?)の4人であるが、仮名序の署名が貫之であること、また巻第十六に「紀友則が身まかりにける時によめる」という詞書で貫之と躬恒の歌が載せられていることから、編纂の中心は貫之と思われる。
「延喜六年二月乃至同七年正月の間に、貫之は仮名序を執筆したやうであるが、真名序は紀淑望が依頼を受けて執筆したもので、漢詩文に関する先行文献を参照してはゐるが、既に成つてゐた精選本仮名序をも参照し、殊に六歌仙評、撰集事情を述べた条などには、その痕跡が著しい」として、仮名序が真名序に先行すると主張している。
①紀貫之:入集102首。巻第六巻軸。撰者の一人。②凡河内躬恒: 入集60首。巻第二第三第五巻軸。撰者の一人。③紀友則:入集46首。巻第八第十二巻軸。撰者の一人。④壬生忠岑: 入集36首。撰者の一人。⑤素性:入集36首。巻第九巻軸。遍昭の子。撰者以外での最多入集。⑥在原業平入集30首。巻第十三第十五巻頭。六歌仙の一人。
⑦伊勢:入集22首。巻第一第十三第十八巻軸。宇多天皇の中宮温子に仕える。⑧藤原興風:入集17首。巻第四巻第十巻頭、並びに古今集1100首の掉尾を飾る巻第二十巻軸。⑨小野小町:入集17首。巻第十二巻頭。六歌仙の一人。⑩遍昭:入集18首。巻第四巻軸。六歌仙の一人。⑪清原深養父:入集17首。⑫在原元方:入集14首。古今集の劈頭を飾る巻第一巻頭。業平孫、棟梁子。『枕草子』では古今集を暗唱することが当時の貴族にとって教養とみなされたことが記されており、収められた和歌のほかにも、仮名序は後世に大きな影響を与えた歌論として文学的に重要である。
9世紀の和歌としては、現存する六歌仙(僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主)の歌のなかに、より重要な作品がある。
業平と小野小町は歌人として有名なだけでなく、平安期の典型的な美男美女としても知られ、後世の文学作品(特に能)にはその役どころで頻繁に登場する。
業平の歌は『古今集』に三十首収められているほか、『伊勢物語』に含まれている歌のなかにも、後の宮廷歌集では業平とされている者が数多くある。
紀貫之は業平の歌を評して、「その心余りて、詞たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と手厳しいのだ。
小野小町は、おそらく漢詩全盛時代の820年から830年の間に生まれ、その作家活動のピークは9世紀半ばだったと考えられる。
『古今集』の歌の調子は、圧倒的な感情より知性が優っているが、小野小町の作品は、着飾った表現にもかかわらず、いつも感情に忠実であるように見える。(20210215)
よみ人(びと)しらずは、日本の古代から中世にかけての和歌集において、作者(よみ人)が不明、あるいは匿名であることを示す表現。
この表現が用いられるのは、作者が本当に不詳の場合や、 作者が読者である宮廷人には理解されない、あるいはその価値がないと看做された低い身分(下級役人、民衆)である場合。
皇族に縁のある身分や、出自の人物や失脚した人物など、名を載せることが政治的に憚られる場合や、勅を発した天皇・上皇自身が、名前を伏して入撰させたものや、 家集時点で名前が伏されたもの。
しかも、万葉集では名前の記載があるが、撰歌当時名前が不明だったものや、 特定の歌人が多くなりすぎた場合など、編者の編集の都合による場合 などが挙げられる。
『万葉集』は全4500首あまりあり、作者不詳の和歌も2,100首以上、それらが、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる。
また、『古今和歌集』に収められている1100首の和歌のうち、約4割が作者不明の「よみ人しらず」となっているが、作者不明と言われると、名歌ではないような気もするけど、「よみ人しらず」に込められた正しい意味合いは、「長い年月、多くの人々に歌い継がれるうちに、作者が誰だか分からなくなってしまった」ということもあるらしい。