九 平安時代の日記文学 

平安時代の文学的散文は、紀貫之が『古今集』に書いた仮名序に始まり、三十年後の935年に『土佐日記』も書いている。

これは日本の散文発達史における記念碑的な作品であると同時に、「文学的日記」と言う重要なジャンルの最初の作品例である。

 

『土佐日記』にはじまる仮名文日記群では、平安朝の宮廷女性の作品がよく知られているが、この女性たちはめったに外出することもなく、宮廷政治にも無知同然で、長い一日を宮廷の部屋の薄暗がりの中で過ごした。

心のうちに浮かんでくる思いや感情を書き綴ったこれらの作品は、当然、公的と言うより私的な性格を持っている。

 

宮廷女性の日記は、対象となる出来事から何年もたって書かれることがあり、むしろ「自伝」に似ている。

しかし大きな違いは、日記の作者は、たとえ何年も昔の出来事を書いていても、決して現在と比較したり、将来への発展を予測してみせたりはせず、遠く隔たった出来事と執筆時の認識を文字にすることはなかった。

中国に渡った日本の僧侶のうち、最も詳細な滞在記を今日に残しているのは、天台宗の僧円仁(794-864)で、838年の出発から847年の帰国までをつづったその漢文日記を、『入唐求法巡礼行記』という。

円仁は遣唐使節団の一員として中国に向かったが、船には羅針盤もなく、進路は風まかせで、旅は大変危険で、三度目の航海でようやく唐に着いた。

 

エドウィン・ライシャワーは円仁の日記を研究し、その全文を英語に翻訳しているが、円仁について、「際立った独創性や創造性はなかったが、非凡な能力の持ち主であったに違いない」という。

円仁の日記には、中国で泊まった宿、新年の祝い、寺の生活などがイキイキと描かれてはいるが、それを読んでも、円仁と言う人間に触れたという満足感はあまり味わえない。

 

日本からの旅行者なら、中国の大都市を見た時に感嘆の一言くらいあってもしかるべきだと思うのに、円仁にはそれもない。

仏法を求めることが円仁の最大にして唯一の目的であり、それ以外のことは語るに値しないかのようであった。

【追伸】

中国に役人への手紙

「到る処、家飢えゆるが為に情は忍び難し。言葉別なるに縁りて専ら乞うこと能わず。伏して望む、仁恩もて香積の余供を捨てて異蕃の貧僧に賜らんことを」(20210329)

貫之は934年に任務を終え、土佐から都へ戻る道中の様子を『土佐日記』に書いたのだが、和歌擁護論として詠める、安倍仲麻呂についての一節がある。

例の「あをうなばらふりさけみれば」で、もろこしとこの国とは言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ人の心も同じことにやあらむ。

 

 『土佐日記』以後の日記文学は、円仁の旅行記や宮廷人の漢文日記とは全きう異なる発達をとげ、きわめて私的な生活を持つに至り、次に世紀に本物の女性たちが書いた日記ほどの素直さや真実性はないが、これを読んだ読者は、貫之と言う人間を多少なりとも身近に感じられるようになるに違いない。

蜻蛉日記』の最も顕著な特徴は、信じられないほどのその率直さであり、これほど自分自身をむき出しにし、醜い光のなかにさらした作者はかつていなかった。

 

いっぽう自社へ詣でる途中の風景描写の美しさは、当時のどんな文学作品にも引けを取らない側面を見て、読者は作者が歌人としても名高かったことを思い出すであろう。

『土佐日記』から数多くの旅日記が生まれたように、『蜻蛉日記』の真実性と洗練された表現からは、『源氏物語』が生まれた。

【追伸:『蜻蛉日記』の概要】

夫である藤原兼家との結婚生活や、兼家のもうひとりの妻である時姫(藤原道長の母)との競争、夫に次々とできる妻妾について書き、また唐崎祓・石山詣・長谷詣などの旅先での出来事、上流貴族との交際、さらに母の死による孤独、息子藤原道綱の成長や結婚、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取った養女の結婚話とその破談についての記事がある。(20210405) 

平安時代の日記と物語には、世を捨てて僧になるというテーマが繰り返し現れ、その願いを口にする人々のほとんどは、たとえば光源氏のように、世俗的なつながりー特に自分を頼りにしている人々の存在ーのために、願いを実行することができない。

多武峯少将物語』は、必ずしも日記としては扱われてこなかったが、虚構の要素はないと言われており、『高光日記』(962年頃)とも呼ばれ、藤原高光(939-994)が世を捨てて僧になることを決意したとき、家族がどれほど嘆き悲しんだかをつづった作品である。

 

物語ではほとんど語られることのない、平安朝の宮廷生活の一側面を垣間見せてくれることも読者の興味をひくが、この日記は、男が救いへの道を選んだ時の、後に残されたものの孤独を描いていて、心に余韻を残さざるを得ない。

次に、和泉式部の作品かどうかはともかく、これを日記と呼ぶより恋物語と呼ぶ方がいいかもしれなが、短い散文を書き連ね、そこに百四十首を超える歌をちりばめていて、文学的にどちらも質が高いのだ。

 

『和泉式部日記』は恋物語であり、1年間にも満たない、1003年の初夏、敦道親王が使いに橘の花を届けさせた時から、次の年の春、親王の妃が不貞に怒り、家を出て姉のもとへ身を寄せるまでである。

和泉式部と敦道親王は、長い間二人の恋愛生活を秘密にしておこうとしたが、最後には、他人の口を止める方法がないことを悟り、式部を妻と同じ屋根の下に住まわせるという大胆な行動に出たのだ。(20210412)

紫式部日記』をひもとくとき、読者の期待は、ほかのどの日本人の日記を読むときより大きく、『源氏物語』という世界文学の傑作を核に至ったのか、読者は大きな関心を抱くのである。

日記は三つの部分に大別でき、一つは、藤原道長の娘である中宮彰子のの最初の子敦成(あつひら)親王の誕生前後のあり様、二つ目は宮廷生活の様子、三つめはとりとめもないエピソードの数々と続く。

 

こうした不満はあるものの、平安文化華やかなりしころの宮廷生活がどのようなものであったかを知るうえで、絶好の情報源であることは間違いない。

日記には、孤独が堪えがたいと記されており、考えを分かち合える人を誰も持たないことの孤独であり、創作のためにはそれを犠牲にしなければならない芸術家の孤独でもあったであろう。

 

紫式部の孤独は、一つには「洞察力」のせいでもあり、およそ15人の宮廷女性の寸描があるが、もちろん批判ばかりしていたのではなく、何人かの女性は手放しでほめているし、嫌っている女性についてさえ、概してほめるところを見つけている。

日記で最後に『源氏物語』が話題になるが、ここの書き方からは、紫式部が作品の価値に内心大きな自信を持っていたことが窺われる。(20210419)

『更級日記』(1020-1059)は、日記らしくないという点では『紫式部日記』(1008-1010)以上であり、どの記事にも日付がなく、内容も限られた数年ではなく、作者のほぼ一生に渡っていて自伝に近い。

最も日記らしくない点は、虚構や夢が優先し、作者の心の中では、物語の登場人物は架空の人物どころか、作者の最も近しい友人であり、見習うべき模範であった。

 

日本では、母と息子の関係が非常に重要であり、『源氏物語』でも亡き母桐壺更衣やそれに代わる藤壺女御への光源氏の愛は、重要なテーマになっており、『成尋阿闍梨母集』(1067-1073)の日記は、日本社会に遍在するこの母子関係の、初期の極端な表現とみることができよう。

『讃岐典侍日記』(1109年完成?)の作者は、堀川天皇の詩を悼みながら、この天皇の記憶を文章に留めておくのが自分の義務だと考え、堀河治世の事実の記録だけでは満足できず、天皇の人柄を後世に伝えたヵったのは、藤原頼長の漢文日記『台記』(1136-1155)でもよくわかる。

 

『御堂関白日記』(現存:998-1021)は、ぶっきらぼうの漢文で書かれ、文学的に見るものはないが、道長はその日一日の出来事を正確に記録にすることにしか関心がなかった。

平安時代のもっとも重要な漢文日記は『中右記』(1087-1138)で、堀河・鳥羽・崇徳の三帝に仕えた藤原宗忠(1062-1141)の膨大な日記だが、最も胸を打たれるのは、堀河天皇についての記事であり、『讃岐典侍日記』と書き方も内容も全く異なっているが、どちらにも、忘れえない人への郷愁が満ちている。(20210426)-