七 平安時代後期の和歌集
第一部『古今集』以後
『古今集』(905)から『新古今集』(1205)まの間に編まれた勅撰和歌集
『後撰和歌集』(ごせんわかしゅう)は、村上天皇(926-967)の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集で、日常生活の中で折に触れて詠んだ歌も多く、詠むきっかけになった出来事が詞書で説明されている。
花山院(968-1008)編纂の三番目の勅撰集が『拾遺和歌集』で、伊勢をはじめとする『拾遺集』歌人のほとんどは、『後撰集』の歌人と異なり「職業」歌人だった。
過去崇拝から方向転換し、当代和歌を評価する四番目の勅撰集が『後拾遺集』で、収められた歌は、一部は『後撰集』の頃までさかのぼるが、ほとんどは、『拾遺集』が成立した1005年以後80年間に詠まれた歌である。
『後拾遺集』は保守的な歌集であると言われるが、和泉式部・赤染衛門・相模らの歌の激しさは、この歌集に独特の彩を添えている。
和泉式部らしさが最もよく現れて言うのは、恋愛家庭のさまざまな段階で詠んだ歌で、不幸を嘆く歌が多く、その嘆きは、、時として人生のはかなさに向かう。
和泉式部の人生は、男に捨てられて苦しむことの連続で、なかでも最大の苦痛を味わったのは、恋人の敦道(あつみち)親王が亡くなった時である
赤染衛門は和泉式部よりずっと分別のある女性であるが、それだけに、歌には式部の激しさはないが、著名な歌人平兼盛の娘に生まれ、学者大江匡衡(まさひら)の妻となった。
『後拾遺集』の重要女流歌人の三人目は相模で、式部や衛門よりは一世代後の歌人で、最初は大江公資(きんより)の妻となったが、不貞にも悪びれず歌を詠んでいる。(20210301)
【追伸】
『後拾遺集』の代表的な男性歌人は能因法師で、この人物については和歌6人党の面々に劣らないほど、様々な言い伝えが残されている。
第二部平安時代後期の勅撰集
『後拾遺集』(1086年)が編纂されてから、5番目の勅撰集『金葉和歌集』(1124年)
が編まれるまでに、ほぼ40年が経過している。
撰者:源 俊頼(1055-1129)の秀歌のおおくは叙景歌であり、『金葉集』はよく和歌発達市場の転換期に位置していると言われ、これを境に、『古今集』歌人の観念的自然が、実際に観察される自然にとってかわられた。
6番目の勅撰和歌集『詞華集』には、415首の歌が収められており、主要な歌人は、曾禰好忠(17首)・和泉式部(16首)・大江匡房(14首)と言ったところで、これを一覧するだけでも歌集の特徴がわかる。
二条天皇が新しい勅撰和歌集の編纂を藤原顕輔の子:清輔に命じたが、『続詞華和歌集』と呼ばれるこの歌集は、『詞華集』よりはるかに上回る規模になったが、天皇は亡くなり私撰集に留まることになった。
平家が都落ちする4か月前、後白河法皇から藤原俊成に勅撰和歌集の院宣が下り、それが『千載集』と呼ばれるものである。
この『千載集』は、『後拾遺集』後の1世紀で最も重要な勅撰集であり、俊成の子:藤原定家の手になる『新古今集』の前触れと位置づっけることができる。
【追伸)
『古今集』と『新古今集』と言う、和歌の2代勅撰集の違いは、両者を隔てる3百年と言う時間で説明できる。(20210308)