27 五山文学

漢文を学んだ禅僧の書き遺したものは、ほとんどが宗教的・哲学的な内容のぶんしょうではあるが、禅僧たちは同時に漢詩を作り、、芸術的な散文を書き、こうした漢詩文を一般に五山文学と呼んでいる。

中国では、寺がよく山中に建てられたことから、「山」とは「寺」を意味し、日本でもそれに倣い、寺をー実際は都の平地である場合でもー山と呼ぶようになり、例えば京都の五大寺を「京都五山」と呼ばれ、また「鎌倉五山」も定められ、ここが学問の中心として機能した。

 

雪村友梅(1290-1347)の生涯も波乱に満ち、鎌倉で一山一に学び、京都の建仁寺で修行したのち、十八歳で元に渡り、名刹を廻り、評判の瞑想を訪ね、仏教とともに漢詩と書道を学んでいたが、1313年、再度の日本信仰を目論む元当局によりスパイも疑いで逮捕される。

雪村も危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れ、死一等を免ぜられて長安に流され、3年後には四川の成都に改めて流謫され、その地で10年を過ごす。

 

この間、さまざまな経書・史書などを学び、一度暗記したページはちぎって河へ捨てたといい、 大赦により許された後、長安に戻りそこで3年を過ごし、この頃より帰国の念が募ったが、請われて長安南山翠微寺の住職となり、元の朝廷から「宝覚真空禅師」の号を特賜された。

 帰国した雪村は、二寺を開き、いくつかの寺に歷住して,最後は建仁寺の住持となり、その作品を収めた詩集を『岷峨集』と言い、日本に帰ってからも主として中国に題材をとった詩を読み続けた。(20230821)

義堂周信(1325-88)は、1331年わずか七歳で法華経や儒教個展を詠み始めたと言い、翌年には家の蔵に臨済宗の法典『臨済録』みつけ、これを読んで両親を驚かせたが、十四歳で縁者の急死にあって剃髪し、1339年には比叡山に登って天台層となるも、次第に膳に惹かれ、二年後夢想礎石の門に入る。

義堂は非常な多作家で、生涯にゐ一千七百参十九編の漢字を詠んでおり、うち一千三篇が七言絶句で、これが圧倒的に多く、、漢文も、序・銘・説などを合わせて四百七十六篇をのこしていて、このように自信は活発な文筆活動を行った義堂だが、禅僧が座禅でなく思索に時間を費やすことには基本的に反対だった。

 

義堂の漢詩文は『空華集』全二十巻に収められているが、「空華」とは実態のないものへの執着を、眼病の人が虚空に華を見ることにたとえた言葉であり、楞厳経の「亦如瞖人見空中華、瞖病若除華於空滅(眼病の人が空中に翳りを見るようなもので、病がなくなれば翳りも消える)」という一節からとられている。

五山最高の詩人と言われる絶海中津(ちゅうし:1336-1405)には、義堂と異なり、仏教観や人生問題を題材とした詩はあまりなく、作品のほとんどは、旅発つ友人に贈る送別の詩や、他人の詩への王投資であり、義堂とは比べ物にならない寡作の人で、生涯に漢詩百六十五編と漢文三十八編しか残さなかった。

 

1368年絶海は、友人の汝驎良佐ら数人の僧と中国に渡り、仏教と漢詩を学ぶことにあったが、中国では元朝が滅び、明朝が成立するという激動の年にあたっていたが、秩序は既に回復していて、旅に特別な困難はなかっまようである。

1376年、絶海と汝霖は、明の太宗洪武帝の招きで首都南京

に赴き、太祖から法要について様々な問いかけがあり、絶海は見事に受け答えしたと言われ、そのあと、日本の風景画を何枚か見せ、熊野について一編の詩を求めた。

 

絶海が帰国してみると、日本は戦乱のさなかにあり、臨済宗の内部にも厳しい対立が生じ、その後の絶海は、時に京都を離れ、山の庵に困ったりしているけれど、すぐに各地の有力武将から声がかかり、新しく建てた寺の住持になることを頼まれたりして、隠棲を長く続けることはできなかった。

1388年に義堂が没した後は、絶海が義満の主要な相談相手となり、1391年に山名氏清が明徳の乱を起こすと、義満は絶海の法衣を着て戦いに臨み、その霊験によって敵を滅ぼしたとされ、1399年於応永の乱では、絶海が義満の使者として大内義弘の折衝に当たった。(この和平工作は不調に終わり、同年義弘は敗死している)。(20230828)

中国に留学しなかった禅僧を中心に、日常生活を詠む漢詩が盛んにおこなわれてことも,五山文学の極めて興味深い特色のひとつであるが、万里集九(1428-?)は還俗した禅僧で、表白する文人の一典型である。

万里の後半生は、応仁の乱で大きく変化し、この欄をきっかけに還俗し、結婚して子どもをもうけ、、また俗世の権力者である武将との関係も深まり、とくに江戸城を築いtた太田道灌(1432-86)とは親しく交わったらしい。

 

一休宗純(1394-1481)は、厳密に言えば五山詩人ではないが、当時の漢詩人の中ではもっとも有名であるが、後小松天皇の子として生まれ、六歳の時小僧として安国寺に送られ、京都五山制度の中では二流の寺である。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となり、「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。

 

漢詩を表現媒体に選んだあらゆる日本人の中で、現代人が最も身近に感じられるのは、おそらく、悟りの破戒僧一休である。

五山詩人の作品は、結局、外国語で書かれた詩であって、ここ百年ほどの間に、日本人にとって次第に理解が難しいものになってきており、主流にはなれない。