25 室町時代の日記とその他の散文

伊勢太神宮参詣記』は、坂十仏という医師が1342年の伊勢参詣のことを記した日記であるが、層である十仏が、神道の神社に参拝したこと自体は特に驚くに当たらない。

教義的には対立する点があるものの、当時、神道と仏教を同時に信仰することはごく当たり前のことで、神道最大の聖地である伊勢神宮の傍にも、698年の昔から仏教寺院が建立されている。

 

また、一人の人間が寺の住職と神社の神職を兼、両方の儀式を司るようなことも、各地でしばし菜見られた。

日本の神祇は仏や菩薩が、日本の衆生を救うために現われた姿だとも信じられていて、現世中心の神道にこの世の救けを求め、来世を説く仏教に死後の救済を頼んだ。

 

十仏は度会家行(伊勢外宮の禰宜)の説く神道教義に異議を唱えるどころか、ほとほと感服してしまったらしく、むさぼるように受け入れる十仏には、何かを必死に求めている人の雰囲気さえ合って、、そのまま神道に改宗してしまうのではないかと思われるほどである。

しかし、十仏の世界観は、根本的なところで仏教的であり続けたので、神道に求めたのは、結局、この世で味わった悲しみを慰めてもらうことだったようで、この日記で最も胸を打つ一節は、伊勢への道中で見た国土の荒廃ぶりの記述である。(20230529)

名所旧跡への旅は、そこを訪れることだけで歌人の想いを追体験し、心情を分かち合っている気分になり、過去の歌人の中でも、とくに西行は、後世の人々を強く引き付けたようで、芭蕉の言葉を借りれば、「跡をしたひ・・・実をうかがいたい」と思わせる存在だった。

先人の「跡をしたう」というこの習慣を、川端康成は「先人の足跡に従って、名所古跡にお百度を履むだけで、無名の山川を濫りに歩かぬのが、日本の芸の修行の道だし、精神の道しるべだった」と説明している。

 

 

室町時代の日記で最も胸を打つのは、当然ながら、不吉な人々の書いた日記であり、不幸の原因は様々で、、たとえな二条良基のように、、戦乱の中ですべてを失った人もいるし、さらに宗祇のように、間っ洛個人的な理由から不幸だった人もいる。

これらの碑地人の日記は、公卿の漢文日記と異なり、、日々の記録として、書かれたものではなく、経験したことが作者の文学的感性でゆっくりろ過され、後に残った真の関心ことだけが書かれている。

 

小島のくちずさみ』は、1353年、二条良基が都から美濃国小島(おじま)へ旅をした時の記録であるが、たびの動機が歌枕見物になかったことは明らかで、小島には、足利義詮が後光厳天皇の行宮を置き、足利尊氏の軍勢が救援に駆け付けるのを待っていたが、良基はそこに呼ばれた。

一般に、日本の歌人は、自然をめでると言われ、確かにその通りなのだが、その自然とは、概してどこかの庭園であったり、都近くの詩的な風景だったりするが、この小嶋への旅で良基は、人間の手の入らない自然がいったいどのようなものかを思い知らされる。

 

良基の氣を滅入らせたのは、、おもくるしい天気だけではなく、狭い場所に押し込められ、、敵襲の危険にさらされながらの生活で、宮廷人の装いが一変し、全員が「戎衣」を着込み、歌人というより兵士の姿になって、ひたすら足利尊氏の到着を待っていた。

良基がこの日記を書いたのは、帰洛して通常の生活にもどってからも、山中での苦労を忘れまいとの想いからで、その日記の題に天皇の親書を賜ったと語っているが、嬉しがるのは少し早すぎたようである。

 

応仁の乱の記録を残した日記作者の中でもっとも有名なのは良基の孫、一条兼良で、日本史上最も愚かしいこの戦争についていくつもの日記を書いていて、1473年の『藤河の記』もその一つである。

兼良の日記の魅力は、主としてそこに含まれている歌にあり、過去の宮廷歌人は、めったに都の外に出ることはなかったが、兼良が旅で見聞きしたことは、宮廷歌人の世界とは異質の出来事であったのである。(20230605)

15世紀後半の傑出下した文学者と言えばまず宗祇を挙げなければならないが、宗祇ほど旅に明け暮れた連歌師は居ないだろうけど、日記に残されているのは二度の旅だけであり、その一つが『白河紀行』である。

白河に旅に出た1468年は、応仁の乱が始まって二年目にあたり、都より地方の方が安全であったけれど、宗祇が求めていたのは、この時代の旅人がすべてそうだったように、宗祇も歌枕を見たいと思っていた。

 

例えば白河への旅の目的の一つは、途中、筑波山(つくばやま)へ登ることであり、宗祇も連歌師として、ヤマトタケルが筑波について尋ねた『古事記』の歌を、連歌芸術の最初のあらわれとして尊んでいた。

もう一つの旅日記『筑紫道記』の、宗祇にとって最大の歓びは、通りがかる場所の一つ一つが心の「ふるごと」をよみがえらせてくれることで、この作品で宗祇は歌枕という手ごろな小道具に頼らずに、文学的な日記を書こうとしている。

 

例えば『筑紫道記』には、「やまとことのはの路も、その家の人、または大家などにあらずばかひなかるべし」とあり、連歌の名人とは認められても、日本の神々に喜ばれる唯一の詩歌である和歌の名人(貫之・俊成・定家)になりたかったのかもしれない。

宗祇最後の旅に供をして臨終をみとったのは、弟子の宗長であるが、宗祇最後の旅に出るところから始まる『宗祇終焉記』は、生きて再び都に戻ることを望まず、かつての西行や唐の杜甫のように旅に死ぬことを心に決めていたようである。

 

宗長の特色が最もよく出ている作品は、『宗長手記』(1522-1527)であるが、着想そのものが滑稽を目指していて、余情の深さより言葉の洒落や掛詞のような表現に依存した、卑俗な笑いを誘う句である。

宗長(1448-1532)ほどの年齢の人間が、戦争で混乱した国内を何故頻繁に旅してまわらなければならなかったのは、人間と風景への関心を生涯もち続けたからというのが最も簡単な説明だろうが、死が待ち遠しいと言いながら、実際には最後まで流喜びを表明し続けた。(20230612)

室町時代の主要な宗教説話集に、十四世紀後半に編まれた『神道集』があり、題名から神道の神々を扱った説話集と思うかもしれないが、全編を貫いているのは本地垂迹説という、中世的な神仏習合の思想である。

日本で菩薩の髪を与えられた最初の神は八幡神で、781年のことだが、931年には春日社の神が「われは早く菩薩になりに足り。然(さる)を公家(朝廷)未だ菩薩の号を得しめざるなり」託宣を下し、どんな菩薩の号かと問われて「慈悲万行菩薩」と答えている。

 

神仏習合の思想にもとづく最初の重要な説話集は、鎌倉末期に興福寺の僧覺円(1277-1340)が編んだ『春日権現験記』だが、興福寺と言えば八世紀の建立当初から春日社とのかかわりが深い大寺として知られる。 朝廷の貴族を中心とした説話集(承平-貞応年間のうちの937年〜1222年まで)と、興福寺の僧を中心とした説話集(元慶-嘉元年間のうちの880年〜1304年まで)の二部構成になっており、中世日本の信仰を知る優れた宗教文学作品になっている。

 

室町時代の恋愛物語でもっとも有名な作品は、、おそらく『忍音物語』であろうが、話はハッピーエンドだが、作品全体の長子はもの悲しく、習っ消した公経(主人公)は、心の平安とそれなりの幸せを得たのであろうが、読者に映る公経は、愛する女性から引き離された男であり、同情の対象である。

忍音(しのびね)の君(ヒロイン)にしても、自分は中宮になり、わが子が次の帝になるが、それで喜んだとはどこにも書かれておらず、この物語で最も注目すべきは、夢や空想が全く入り込んでいないことで、誰にも信じられる日常の中で語られており、作者はなんの作為もなく、平凡な一連の出来事を書き連ねているかのようである。

 

室町時代を更の下がったころに書かれた御伽草子『時雨』は、『忍音物語』と話の筋がよく似ているが、語りには違いも見られ、二作品の間にかなりの時間が経過していることを思わせ、物語からお伽草子への変化をこれほど鮮やかに見せる例も珍しい。

十一世紀に完成した王朝物語は、ようやく十六世紀になって退いたが、その間、日本の社会が多くの変化に見舞われたにもかかわらず、あくまで平安時代にあこがれ、平安人に同化しようとした貴族には根強く支持され続けていたのだ。(202320619)