『日本文学の歴史7』近世篇1
徳川期の文学の特色は、何にもまして、それが(武家階級をも含めて)民衆のものだったという点であり、新しい文学の勃興が、政治的な意味での新しい時代の幕開きとはっきり平行を示すなどという偶然は、世界の歴史の中でもめったに起こらない。
家康が全国制覇の足固めをしているまさにその時期に、何か一つ、最も重要な特長をあげるとすれば、それは印刷術の導入であり、印刷という技術を抜きにしては、以後の民衆の文学は、存在しえなかったに違いない。
仏教と関係のない印刷物の皮切りは、1591年にでた、今日の用紙便覧にあたる『節用集』で、室町時代の中期に編集されたこの本は、商都・境において商人の手によって上梓された実用書の嚆矢だったが、ほぼ同じころ、天草で布教していたイエズス会の神父たちが、ローマ字を使って印刷を始めていた。
市販を主目的としたらしい本が刊行され始めるのは1609年からで、この年には、中国の詩文の代表作を収めた『古文真宝』が上梓されており、刊本への需要がようやく高まり、京・大坂あるいは江戸などの大都会で、利にさとい連中が印刷に目をつけ始め、民衆を対象としたビジネスへと移行するのだが、せっかく開発された活版印刷を見限り板木(はんぎ)による印刷に逆行!
文学の主流が武士の手から町人に移るのは、時代がずっと下って18世紀になってからであるが、演劇だけは例外で、歌舞伎と浄瑠璃の誕生によって、町人の嗜好は十六世紀の終盤から、早くもこの分野においてだけは、その傾向を見せていたのである。
近世文学のもう一つの大きな特長は、三つのはっきりした山をもっており、元禄(1688-1703)・天明(1781-88)・文化文政(1804-29)で、この三時期には想像力に富んだ作家を始め各ジャンルの芸術家が集団をなして輩出し、相互に刺激し合って壮観を呈している。
《俳諧の連歌の登場》
松江重頼は、京都の裕福な撰糸商人で、少年の頃より連歌を里村昌琢(1574-1636)に学び、西山宗因(1605-1682)とは同門である。
1629年(寛永6年)頃から、松永貞徳(1571-1654)や野々口親重(立圃:1595-1669)と俳諧選集の編集を始めるが、意見の相違から、1633年(寛永10年)に重頼単独で全17巻で5冊からなる『犬子集』(えのこしゅう)を刊行した。
代表句(重頼)
花は芳野伽藍一(ひとつ)を木の間哉
順礼の棒計行(ぼうばかりゆく)夏野かな[2]
《松永貞徳と初期の俳諧》
貞徳の父・永種の母は冷泉為孝の娘・妙忍、貞徳の母は藤原惺窩の姉(冷泉為純の娘)であることから、貞徳は下冷泉家と深い関係にあったことがわかるが、連歌師・里村紹巴から連歌を、九条稙通や細川幽斎から和歌、歌学を学ぶほかに、五十数人に師事したという。
20歳頃に豊臣秀吉の右筆となり、木下勝俊(長嘯子)を友とし、慶長2年(1597年)に花咲翁の称を朝廷から賜り、あわせて俳諧宗匠の免許を許され、「花の本」の号を賜り、 元和元年(1615年)私塾を開いて俳諧の指導に当たった。
俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張し、貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。
《談林俳諧》
談林派は、(1673-81)を中心に、主として京都・大坂・江戸の三都で流行した誹諧の流派だが、西山宗因を師と仰ぐ田代松意などが自らを「俳諧談林」と呼称したことから、後に「談林俳諧」と呼ばれるようになった。
和歌の伝統や言葉の縁に立脚する点で、貞門派と談林派は共通しているが、談林派は、道理の攪乱や発想の意外性を重視する点に特徴があり、貞門派は和歌を絶対視するのに対して、談林派は自由で笑いの要素が強い俳諧を標榜した。
《蕉風への移行》
小西 来山(1654 - 1716)は、7歳で前川由平の門に入り、18歳で俳諧の点者になるも、禅を南岳悦山に学んで法体となる。
来山はまとまった俳書を残していないが、「常の詞」による俳諧を説き、素直で平淡な句作りや日常の中に美を求める姿勢を特徴とし、時に卑俗で理屈臭い句が多いとされる。
上島 鬼貫(1661 - 1738)は、25歳で医学を志し大坂に出るも、蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つようになる。
作風に芭蕉の影響を少なからず受けたが、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称され、また、忌日の「鬼貫忌」を、河東碧梧桐は秋の季語とした。
《松尾芭蕉》
芭蕉は、和歌の余興の言捨(いいす)ての滑稽から始まり、滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風として確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
西行と言い、宗祇・雪舟・利休と言い、いずれも芸に優れた人々は共通のものによって貫かれており、芭蕉は、その人となりは謙虚だったが、自己の芸術に関する限りは絶大な自信を持っていたのであった。
《蕉門の門人》
蕉門十哲(しょうもんじってつ)は、宝井其角・服部嵐雪・向井去来・内藤丈草・森川許六・杉山杉風・各務支考・立花北枝・志太野坡・越智越人などが一般的である。
俳諧には不易(永遠に変わらぬ本質的な感動)と流行(ときどき新味を求めて移り変わるもの)とがあるが、不易の中に流行を取り入れていくことが不易の本質であり、また、そのようにして流行が永遠性を獲得したものが不易であるから、不易と流行は同一であると考えるのが俳諧の根幹である、とする考え方。
《仮名草子》
浅井 了意(あさい りょうい、?- 1691)は、浄土真宗の僧侶であったが、弟の事件により、真宗から追放され漢族となり、壮年期は大坂に住み、京都などにも移住し、江戸にも往来したと考えられている。
儒学・仏道・神道の三教に通じ、当時から博覧強記ぶりは有名で、『鸚鵡籠中日記』にも「彼博識の了意」と記述があり、後に出家して大谷派に戻り、京都の菊本町の正願寺の二世住職となり、1675年(延宝3年)4月11日に本性寺の設立を許された。
なお、藤本箕山は京都の町人で、俳諧をたしなみ古筆の鑑定者でもある文化人でしたが、諸国の遊里の風俗・習慣を記している。