二 松永貞徳と初期の俳諧
俳諧の歴史を語ろうとする人は、松永貞徳(1571-1653)を避けて通るわけにはいかないが、現代人の目から見れば、単なる歴史上の人物であるにすぎず、最もこのような現象が起きた裏には、俳諧そのものの性格も作用っしていると思われ、作者の思い月やk鳥羽の遊びに主として依存していた俳諧は、現代人に対して、基本的に詩としての迫力を欠いているということができるからである。
貞徳は織田信長の時代に生まれ、若い時には祐筆として秀吉に仕え、家康に仕えた儒学者林羅山とは親交があり、キリシタンたちとも交流を持っていたが、彼の兄は過激な日蓮宗の一派を奉じたために遠島になり、音嘔吐はポルトガルの商人と交易をしたあげく「南海」弟子に、彼自身は無名から出て、徳川時代最初の大作家として名声を確立し、非常に保守的な体質の持ち主であったが、当時のもっとも新しい文学運動としての俳諧の機種になることもできた人であった。
貞徳の生い立ちは、決して啓蒙家としての将来を約束するようなものでなく、彼は一介の連歌師、松永永種(1538?-1600?)の子として京に生まれたが、家柄は非常によく、彼の父型の祖父は、京坂の中間に位置する要衝、高槻の領主であり、十二世紀にまで家系ををたどると、源頼朝に従ってっ戦った記録もある。
父永通種は、貞徳の早熟な文才に着目し、その頃宮廷で最も優れた歌道の継承者とされていた前関白、九条稙通(たねみち:1507-94)の下で和歌を習わせ、稙通も、少年貞徳の聡明さを知って驚いたらしく、彼は、わずか十一歳のこの弟子に歌の道を教授しただけでなく、『源氏物語』の奥義までも伝授したのであった。
更に父は、仲たがいをしている紹巴の下へ連歌の修行に差し向けたのも、ひとつには和歌の道が閉ざされたという理由があったからであろうが、紹巴は幸い、通常の謝礼を払えないはずの貞徳を、喜んで弟子のうちに加えてくれたが、永種が異例の決断をした背後には、やはり紹巴の方が連歌については自分より上という認識があったからであろう。
1594年に稙通が没してからの貞徳は、細川幽歳について和歌の道に励んだが、1603年になって一人の重要な友人林羅山(1583-1657)ができ、当時、京の有力な禅房であった建仁寺で、程主の学を治めていたが、同じ儒学を学ぶ若い友人や医師たちを中心とした聴衆のために『論語集注』の公開講座を開くことを企てた。(20240108)
羅山・貞徳による革命的な公開講座に対して、貴族たちは、案の定激しい反応を示し、貞徳に『徒然草』を講義した中院通勝は、秘伝が「いやしき群衆」に公開されてのを非常に憤り、貞徳も、批判をはねつけるどころか、かえってひどく恥じ入ってしまった。
ところが、このような遠慮とは無関係に、講席を開いてからというもの、貞徳の啓蒙家としての生涯は、彼の意志を離れて、もはや確立してしまったのだが、もともと『論語集注』を講義し様とした儒者、林羅山の提案によって実現したものだった。
貞徳が1619年、自らの居宅に塾を開いたのも、おそらく羅山の影響によるものだろうが、京都三条衣棚の自邸に置かれた私塾での教育は、彼が弟子たちに与えた和歌・連歌・俳諧についての講義内容とはかなり異なった内容のものであったらしい。
年少子弟の教育に彼は終生情熱を抱いていたが、時がたつにつれてより大きい関心の的となり始めたのは詩歌指南の方で、彼は依然として二条流の歌を作歌、添削することが最大の使命だと考えていた。
もし貞徳の弟子たちが積極的な働きを見せなかったら、師の貞徳は、終生ついには位階を単なる気まぐれの読み捨てとして省みなかったと思われるが、弟子の松江重頼(1602-80)が『犬子(えのこ)集』を出してもよいという師の許可を取り付けた。
この撰集が各地で評判になり、貞徳はこうして自分の本来の意図に反して、貞門俳諧の祖と仰がれるようになるのだが、それでもなお、俳諧が人間感情の深奥に迫るものでありうることに、貞徳は思い至らなかったのである。
貞徳自身が、まず人々の人気が和歌から離れて連歌に移り、やがてその連歌も難しくなってみる人も少なくなったから、俳諧がはやるようになったまでだと説明しており、文学は、彼にとっては、人間を悪の道に踏み込ませないための方便に過ぎなかった。
とはいえ、晩年にはその考えも改まったようだが、日本のあらゆる詩形式の中でもっとも多くの人々に愛されている俳句をいやいやながらに確立した人物として、作品はともかく、松永貞徳の名は、日本文学の歴史の中から消えることがないであろう。(20240115)