四 蕉風への移行

芭蕉の先駆者のうちでもっとも才能に恵まれていたものは、おそらく小西来山(1654-1716)で、感受性・土k受精に優れてはいたが、、生活の糧を得るため俳諧の点者として、生活しなければならないのが重荷だったようである。

1660年六歳にして談林風俳諧を学び、たちまちに腕をあげて、十七歳の時には既に宗匠として認められるようになっており、大坂談林の一人として活躍したが、やがて句風は徐々に芭蕉に右によく似た感覚のものへと変化していった。

 

時には詞書がその句の造られた背景や年代を語ってくれる時もあるが、「大坂も大坂、まん中に住みて」と断りのついた次の句は、洒脱な気分にあふれているーお奉行の名さえおぼえずとし暮ぬー典型的な大坂の市井人の生活である。

これとは全く異なる句風の作に、「浄春童子 早春世を去りしに」と詞書があるが、これは1712年、来山五十八歳の作であることがはっきりしているー春の夢気の違わぬがうらめしいーというのも、その春に来山が息子の夭折に遭っただけに、特別な意味を込めて使われている。

 

来山はまた、幾度か古歌の引用を試みており、本歌をってみたり、単に古典の知識を披露するからではなく、先行の歌人の体験に自分のそれを重ね合わせて表現に深みを加えている意味で、来山は、俳諧においてはごくまれにしか行われなかった手法の実践者ということができる。

来山の俳諧は、彼がその頃流行していた前句付けと雑排の点者だったこともあって、彼の生前にはその良さをあまり知られずじまいだったが、その秀句から見る限り、来山は、やはり俳諧作歌中の第一流の一人と言うべきであろう。

芭蕉の先駆者の中で、その作が来山の水準に迫るあと一人は上島鬼貫(おにつら)だが、彼の生地である摂津伊丹は、松井宗旦によって談林の一派が創められた土地で、鬼貫は幼いときにその洗礼を受け、十二歳では松江重頼に、さらに十五歳では宗匠の宗因に俳諧を学んだ。

1681年は、西鶴の『大矢数』、言水(ごんすい)の『東日記』などが出て、俳諧史上の一転機になった年だが、鬼貫は、この年に、俳諧は「まこと」の表出なりという信念を抱くようになり、1685年にはついに「まことの外に俳諧なし」と断ずるまでになった。

 

鬼貫は、幼子の目で自然を見なければならぬと言い、表面的な教養は、他人を欺く悪しきものとして批判し、あらゆる先入主を排し、真に自己の素直な感受性に戻って花や月に幼児のごとき天真爛漫で対さなければならないとした。

鬼貫は、被造物の一つ一つがそれ自身の本性を持ち、詩人の使命はそれを理解し、その一つ一つを見分けることにあると信じ、「鶯はうぐひす、蛙は蛙と聞ゆるこそ己己が歌なるべけれ、鶯に蛙の声なく、かはづに鴬の囀り泣きこそ真には侍れ」とも書いている。

 

たしかに「まこと」だけでは十分でないが、その「まこと」がなければ、俳諧は単なる知的遊戯に終始し、一瞬のユーモアや直感の表現以上のものにはありえなかったことだろうが、鬼貫が主張した「まこと」は、来山はじめ同門の何人かによって吸収され、そして彼らは、鬼貫より以上に「まこと」を偉大な俳諧の一つの要素とすることに成功したのだった。

この意味での「まこと」は、言水・来山、そして鬼貫といった移行期俳諧の主人公たちの作品を、感動的なものへと押し上げ、彼らに先行する作者たちは、俳諧の極意は言葉を巧みにひねくり回すことだと信じていたのに対して、移行期の人々は、「まこと」の感情を十七文字の中に盛ったということが言える。