『日本文学の歴史8』近世篇2
元禄文化は、江戸時代前期、元禄年間(1688年 - 1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化であり、その時期の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による、産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた。
とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心に、すぐれた作品を数多くうみだし、そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現されたが、その担い手は武士階級出身の者も多かったのも事実ではあるけれど、同じ上方でも京より大坂に重心がうつるとともに、江戸・東国文化の重要性が高まる。
貴族的な雅を追求する芸術も一方には存在したが、民衆の情緒を作品化したものが多く、浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門といった、世間(社会)の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。
また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられ、さらに、人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に大成した。
従来、元禄文化は「町人文化」であることが強調されすぎて、そこに武士の大きなはたらきがあることは比較的軽視されてきた感があるけれど、芭蕉、近松、白石、契沖らは武家出身であり、武士社会のあるべき規範からは脱落した存在だが、西鶴・仁齊も町人社会の生まれであるが、あるべき町人の人生からは逸脱者であったといえる。
言い換えれば、身分制社会ではありながら、それは絶対的なものではなく、その一方で「"役”に基づく平等」とも称すべき、職業を通じて社会に役立ち、一定の機能を果たしている点では諸人は対等であるという人間観が成立しており、それゆえ、文学者や芸能者、学者として生きることがどの階層にもひらかれていたー職業文化人。
《井原西鶴》
代表作は『好色一代男』(1682)の他に『好色五人女』(1686)『日本永代蔵』(1688)『世間胸算用』(1692)などであるが、1687年に発行された『男色大鑑』(なんしょくおおかがみ)があるんよ。
『男色大鑑』では、武家社会と町人社会という二つの社会において、習俗として公認されていた男色が総合的に描かれているんよー「すべて若道の有難き門に入る事おそし」
『世間胸算用』は、町人物の代表作の一つだが、まさにこれこそ落語だと思ったけれど、その先駆けのような笑話集が『醒睡笑』(せいすいしょう:1623)が、庶民の間に広く流行していたというんだけど、世之助よりは西鶴らしいんだけどなぁ。
《浮世草子》
第1期が西鶴だとしたら、第2期は、西沢一風や江島其磧・都の錦、そして第3期は、1711年(正徳元年)から1735年(享保20年)までで、八文字屋自笑と江島其磧の抗争と和解が起こり、第4期は其磧没後の1736年(元文元年)から八文字屋が板木を売却する1766年(明和3年)までで、多田南嶺などが活躍し、第5期は1767年(明和4年)以降から1788年(天明3年)までで、上田秋成(和訳太郎名義)の『諸道聴耳世間猿』『世間妾形気』だ。
《初期の歌舞伎と浄瑠璃》
歌舞伎は、日本の演劇で、伝統芸能の一つだが、1603年(慶長8年)に京都で出雲阿国が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)「チンドン屋と起源は同じ」が始まりで、江戸時代に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱を理由とした規制により変化していった。 そもそもが、戦国時代の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語が「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」なのだ。
浄瑠璃は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽であるが、詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持ち、浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物と呼ぶ。
《近松門左衛門》
現在、近松の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作があり、歌舞伎の作では約40作が認められている。
世話物とは、町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとり、『平家女護島』 - 享保4年(1719年)・『心中天網島』 - 享保5年(1720年)・『女殺油地獄』 - 享保6年(1721年)、そして『心中宵庚申』 - 享保7年(1722年)である。
同時期に紀海音(『八百屋お七』1715頃)も近松と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。
海音は、「人情」に背を向けてもっぱら「義理」を扱い、そのために作品が温かみにかける道徳劇になっているーというのが定評だが、少なくとも『八百屋お七』は人々の涙を誘わずには丘に女性に描かれている。
海音のお七は、恋人を失った(出奔)お七は、「逢いたい見たい行きたいと、形も乱れ気も乱れ」、絶望のあまり我が家に放火して、気の進まぬ縁談の破棄と恋人との再会を一気に成就しようとするのである。