八 井原西鶴
西鶴の最初の小説作品『好色一代男』は、1682年於陰暦十月に出版されたが、当時の西鶴(1642-93)は、すでに職業俳諧師として一家を成していたが、突然、小説を世に問い、近世文学の新しい一ジャンルを創始するとともに徳川期文学の潮流までも変えてしまったのである。
『一代男』には、色好みの世之介が七歳にして下女に恋を仕掛け、六十歳で色道を極めつくし女護が島に渡るまでの色道遍歴が描写され、全編は七歳から六十歳まで一年一章の割で五十四章に分かれている。
全編八巻のうち、巻六まで来ると、叙述の形式は一変し、物語の中心は世之介jから離れて、彼が出会った遊女の列伝のような形をとり、世之介が再び舞台の中心に戻るのは、終章に彼が日本に決別し、女護が島へ船出するくだりだけである。
純粋に文学的な立場から見ると、この作品は失敗作であるが、別の意味においては、『好色一代男』は赫々(かっかく)たる成功作で、世之介という、新しい時代の露層を代表し、当時の人々に極めて自然に受け入れられる一個の象徴的人物を創造することに成功しているからである。
『好色一代男』の中で最も注目すべきその文体で、結論がそっくり保留されているところで、この省略の技法は談林派の俳人としての西鶴の素養に負うものが大きいと思われ、仮名草子の典型的な作品の書き出しを比較対照して見ると、西鶴の驚くべき文章力は自ずと明瞭になり、のちの作品よりも『好色一代男』において遺憾なく発揮され、それがこの作品の名を高から占める。
そもそも小説を書くに至った動機が何であったかについては、西鶴は、そこに何一つ言及していないがこれまでの研究者の多くは、『好色一代男』を、中世的な灰色の道徳をなげうち、仮名草子の空疎な教訓性を超克した、新しい生気あふれる次代への賛歌と解釈し、「収入のため、あるいはそれに加えて自分の慰みにという意図もあって」書いたのだろうと推論している人もいる。
『好色五人女』は、西鶴の大傑作であるが、五人の女主人公たちは、狂乱・自殺・磔・火あぶり、しかしその五作目は、寛文年間に薩摩で起きたとされる心中事件なのだが、本作ではハッピーエンドに改められているのだ。
そのタイトルが、姿姫路清十郎物語(お夏清十郎)・情を入れし樽屋物かたり(樽屋おせん)・中段に見る暦屋物語(おさん茂右衛門)・恋草からげし八百屋物語(八百屋お七)、そして恋の山源五兵衛物語(おまん源五兵衛)である。
例えば「おさん」は、手代茂右衛門と、ささいなきっかけから思わぬ形で関係を持ってしまうが、出奔(しゅっぽん)した二人は関係を重ね、琵琶湖で偽装心中をしてまで逃避行を続け、丹波・丹後に身を寄せるが、最終的には捕縛され、磔に処せられる。
「お七」にしても、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思って放火し、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められるが、その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛されるのだが、その胸中は何も語ろうとしない。
『好色五人女』の成功のもう一つの理由は、登場する女主人公たちが、江戸期文学に多い遊女ではなく、商家の女たちであった点で、普通課程の中にあって、家族制度が要求する義務に従順に従っているだけとされていた女性たちが、実はその皮膚の下に遊女と同じ情熱を抱いていることを、西鶴はこの作によって示したのであった。
西鶴のいわゆるリアリズムは、十九世紀西欧文学のリアリズムとは全く異なるもので、『好色五人女』に西鶴が登場させている女主人公たちは、どちらかと言えば平面的で、性格に深みがないが、彼女たちの平面性は、「一代男」の世之介のそれとは、いささか事情を異にしており、「五人女」の主人公やその恋人たちは、実在の人間をモデルに持っているのである。
『好色一代女』は、嵯峨の「好色庵」に隠れ住む一代女が、自分のもとを訪れた二人の若者にその身一代のいたずらを語り出す首章で始まり、以下その体験した職業に即した好色生活の数々が展開され、念仏三昧に明け暮れている現在であると結ぶ懺悔譚の形式を取る。
西鶴は、彼女たちの悲惨な生活に対して何の解決策も提示もしていないし、女主人公の悲運の責めを彼女以外のだれに負わせようというのでもないが、だからと言って西鶴は必ずしも受動的な傍観者というわけではないのである。
『本朝二十不幸』収載の物語も、これほどえげつないのはまれで、時には西鶴のユーモアが感じられる挿話もなくはないが、全体に屋は櫓不愉快な印象が勝ち、この作品が今日に至るまでついに読者から愛されることがなかったのもむべなるかなと思わせる。
序文に〈孝にすすむる一助〉とあるが,むしろ不孝や悪に徹底するふてぶてしい人間像が鮮やかに描出されていて,異色の作品となっており、志賀直哉がその図太い作家精神に驚いたことは有名である。
『男色大鑑』に彼がつけた短い序の結論は、「すべて若道の有難き門に入ることおそし」とあり、男女両道のどちらを択ぶかとなると、たとえどれほど美しく気立てのやさしい女性でも、若衆に比べると、それが鼻低のパッとしない男であっても、やはり女よりは上であるという。
西鶴のこのような男色賛美がどの程度まで本音だったかはわからないが、初期の作品ではあれほどまでに男女の愛欲を描いた西鶴が、あるいは、ここに至って初めて真の好みを披露し始めたのだろうか?
なお男色における弟分である「若衆」は、18、9歳で元服して前髪を剃り落とすまでで、それ以後に月代頭(さかやきあたま:野郎頭)になってからは兄分である「念者」になるのが、武家社会・町人社会を通じての一般的なルールであった。
衆道を実践する武士たちは、男らしく女色を却(しりぞ)け、念者(兄分)のためには一命を賭して顧みない理想的な人間像を与えられ、お互いに相手への誠実、献身を奪い合いながら、そのために恋する二人が共に切腹して果てる話が、次から次に登場する。
『男色』の巻二「形見は二尺三寸」では、さる大名の寵童(ちようどう)中井勝弥は十八歳、殿の寵が他に移り、自害を思って反古を整理中、母の遺書を見出し、父の敵が吉村安斎と名を変え、筑後柳川の辺りにいることを知り、殿に敵討ちを願い出て許され出発する。
その途中、京で物乞いに落ちぶれている片岡源介に出会うが、実は勝弥を慕う源介は身をやつして、陰ながら勝弥の敵討ちを助けようとしており、柳川で勝弥は、めでたく敵を討つが、源介の助力が多大であったことを知り、殿に報告し、源介に三百石を加増、そのうえ勝弥を与えた。
『武道伝来記』(1687)を書き終えた西鶴は、あるいは自分が敵討ちを美化しすぎたことに気が付いたのではなかろうかー武家物の第三作『武家義理物語』(1688)の序では、彼の態度は、前作のそれからかなり変化を遂げている。
人間、身分は変わっても心の本質は同じで、大事ある時のために主に雇われている武士たるもの、義理を考えての出処進退が、なによりものぞましいところである・・・と、前作の敵討ち美化に変わって義理の重要性が説かれている。
『武家義理物語』の序の中で西鶴は、すべての人間はある点では同一なりと書いており、夏には厚く、冬には寒いと感じるのは人の常であるが喜びも悲しみも同じで、基本的な点においては、士農工商いずれも択ぶところがない。
人はそれぞれの寿命を与えられてはいるが、義理のためにそれを縮めることもあり、それが武士の家に生まれたものの約束であれば、魂においては階級の差はないのだが、義理に殉じる時をわきまえ、喜んで死に着くことほど見上げた行為はない。
『武道伝来記』に書かれた性急な敵討ちの後で『武家義理物語』の中に展開される分別への賛美は、軽く気持ちのいい驚きを誘うが、はじめのうち敵討ちの厳格な規範に目を奪われていた西鶴も、やがて時代が変わってしまったこと、戦場に属すべき行為がもはや泰平の世に通用しなくなったことに気づくようになったのだろうか?
西鶴の武家物には、他のジャンルの作品にあるような機知や切れ味が認められないが、語り口の巧みさや用語の選択などは、さすがに西鶴の筆であることを思わせ、武家物は西鶴の真骨頂が発揮されていないという理由で、一般にあまり注目を集めていないのだが、そこには、西鶴がいかに強い関心を武士の美徳に対して抱いていたかがはっきりと例示されている。
『日本永代蔵』(1688)の西鶴は、さすがに武家物におけるよりものびのびとふるまって、独特のユーモアが随所にみられるし、人物も行き来しており、それぞれの登場人物は、全編を三十に分けた挿話の中で、それぞれ、たかだか二、三ページの舞台を与えられているにすぎないが、武家物に出てくる武士たちが、多くの場合、具体性に欠けているのとは逆に、彼らは活写され、読む者の記憶にも残る存在に仕立てられている。
「永代蔵」に登場する英雄、例えば藤市という男は、「躓くところで、燧石を拾い手て、袂に入れける」と、文字通り転んでもただでは起きないしたたか者だが、もちろん、単純に働きづめに働くだけでは致富は望みえず、鼻に抜ける商才だけが条件でもなく、運もなければだめだというのだが、彼の興味の中心は、商人道を正しく実践し、貧から身を起こして財を築いた人々に向けられている。
勤勉と節約のおかげでさいわい財を積むことができれば、無茶をしない程度にそれを使うのは構わないが、どんなときにも金銀は、「二親のほかに命の親なり」ということを忘れないで、死ぬときには財産をわが子に遺す。
『日本永代蔵』は、町人生活を活写したものとして極めて興味深く、武家物の場合とは違って、挿話の一つ一つは、たとえかなりの程度で義各課されているときでさえ、やはり真実の響がし、人生の様々な有為転変が書き込まれている。
『日本永代蔵』が書かれたのは、たまたま不況の時期で、商人の道を守ることだけが必ずしも蓄財につながらなかった時代だが、それにもかかわらず全体の調子は楽天的で、不景気に加えて1683年の幕府による衣装法度は京都の絹物業者に深刻な打撃を与え、綱吉の変化極まりない財政政策は全国の町人階級を不安に陥れていた。
『日本永代蔵』全体から受ける印象は、、反映する町人階級のそれであり、武家や農民から離れてほとんど独立の世界を持ち、油断によって財を蕩尽しない限りはほしいままに繁栄の果実を口にすることのできる町人たちには自負があり、才覚さえあれば、この世は無限にひらけ、西鶴はきっと、自分の名の縁からも「才覚」に強くひかれたのに違いない。
『世間胸算用』(1692)は、大晦日に勘定が払えない連中のやり取り算段を描いた、挿話でつないでおり、仮借ない掛取り、追いつめられる借り手、払わず逃げる貧乏人ー暗い物語になりそうなところだが、西鶴は全体を陽気な調子でまとめている。
「胸算用」のもっとも大きな特徴は、大晦日の債権者と債務者の駆け引きという、書こうとさえ思えば当時の社会の最暗部を描きうる素材を択びながらも、借り手はもとより、抜け目のない借金取り立て人に対しても、ほのかな愛情を描いている点であろう。
この挿話は、天下泰平の世に新年の朝日がうらうらと昇る「長久の江戸棚」で完結するが、西鶴には時代を批判しようなどという意図は持ち合わせがなく、ただ人々の身すぎ世すぎの汲めども尽きぬ面白さを、そのままに書こうと思っていたにすぎない。
ある作品の中では、肉欲の充足を飽くことなく追及する男女を書き、またある作品の中では、敵討ちに情熱を燃やす人を書いてきた西鶴は、『日本永代蔵』では財を成した商人を書き、『世間胸算用』においてはかつかつに世を生きている連中を描写することで足れりとしたのだった。
西鶴は数え年52歳で死んだが、いかに当時の読者に人気があったかは、彼の作品のいくつかが重版され、海賊版が出ているだけでなく、特にその遺作が「西鶴」を多く題に冠していることからもうかがえるが、後代に遺した西鶴の影響は、計り知れないものがある。
それまで四百年以上にわたり無名の作家たちによって細々と書き続けられてきた散文文学を、芸術として再確立した、と言っても決して誇張ではなく、西鶴以降の時代には、西鶴から学ぼうとする作家のいない時代は一つとしてない。