10 初期の歌舞伎と浄瑠璃

徳川期を代表する演劇は、歌舞伎と人形浄瑠璃であるが、両者ともに、16世紀の末以来、すでに民衆の間にもてはやされ始めていたが、徳川期に入って急遽に一般大衆に愛好されるようになったものである。

能・狂言は、この時期において既に古典芸能となり、お上の保護を受けるようになったかわり、新しい発展への活力を失ったが、かわって歌舞伎が、新奇を求めてやまぬ町人階級に歓迎され、浄瑠璃もまた、上は宮廷から下は最下層の庶民大衆に至るまで愛されるようになった。

 

歌舞伎は「かぶく」から出ているが、やがてこの語は、勝手気ままにふるまう、といった意味内容を持つようになり、かぶき精神が、おそらくほかのどんな時期にもまして横溢していたのは、16世紀の最後の30年間であろう。

その先頭を切ったのがほかならぬ豊臣秀吉だが、微賤から身を起こして日本の支配者にまでなったそのこと自体、戦国動乱の時代においてさえ異例のことであったが、彼はその他にも自ら進んで、古来破られることのなかったさまざまな伝統を次々に打破していった。

 

昔の衣装を着けるのが好きだったという点では、秀吉もまた多くの成り上がり者の例にもれなかったが、彼はそれに加えて自ら藤原の姓を称し、平安朝の宮廷を思わせる関白の位を襲い、中世以来の厳格な作法を守らねばならぬ茶の湯を懸命に習ったのはいいが、それを行ったのは茶の湯の心からは程遠い黄金づくりの茶室であった。

当時の文献や屏風を見ると、秀吉のころの京都では、実に多種多様な演芸が行われていたことがわかり、手品・辻芸・犬や猫の曲芸・見世物、そうしたものが、賀茂河原にかけられた小屋で演じられている。

歌舞伎の源流をたどっていくと、出雲大社の巫女と称した出雲阿国とその一座による踊り、物まねに行き着くが、そのころの遊芸人は、寺社修理勧進を名目に諸国を巡演するのが常で、勧進を称することによって関所を自由に通過することができたわけである。

京都での阿国の初演は、1603年陰暦の3月25日、北野天満宮で、屏風などから当時の模様を見ると、観衆の中にはポルトガル風の軽衫(カルサン)や、ひだ襟をつけた伊達男、ビロードや更紗の着物で流行の先端を切っているらしい女、羽織に鉄砲玉の模様を染めさせた武士などがいる。

 

阿国はまた、観衆の意表を突く扮装で登場し、あざやかな深紅色に染めた男物の着物をまとい、金糸で刺しゅうした羽織を重ね、帯は紫、腰に差した刀の柄には金細工が光っているが、それだけでもまだ充分でないかのように彼女の胸には金色の十字架が光っていた。

こうして若い伊達男に扮した阿国は、茶屋通いを演じて見せ、又阿国の別の芝居には、名古屋山三郎(さんさぶろう:1572?-1603)が登場し、名家の出の武士であったが、持ち前のかぶき心から女たちの一座に加わるようになったのである。

 

幕府は、芝居小屋と遊郭をいずれも「悪所」と規定していたが、その二つのうちでは、、どちらかと言えば芝居の方が気に置かれていて、一方では今日の映画俳優などをはるかにしのぐほど民衆によって偶像化されているかと思うと、半面では、「河原者」として蔑視されるという矛盾から、徳川期の役者たちは抜け出すことができなかった。

とはいえ、女歌舞伎は「若衆」による歌舞にとって代わられたりしたが、1652年、和歌集歌舞伎の熱心な保護者であった将軍家光が薨去するに及んで、若衆もまた禁止されたのも、遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになった。 

歌舞伎から女と若衆が締め出されたことは、期せずしてこの演劇を芸術の域にまでひきあげることになり、1652年以前の歌舞伎は、日本演劇史上では注目に値するものであったかもしれないが文学とは何ら関係もなかった。

はじめのうちは、原始的な演劇に過ぎなかったにしても、個々の俳優の才能を魅せることの方が主目的であったので、歌舞伎のこの伝統は、今日に至るもなお温存され、演劇の文学性は、観客が個々の役者にそそぐ熱い視線のために犠牲にされている。

 

この時代の狂言作家については、何も記録がないが、たとえ作者がいたとして、ごくおおざっぱな筋書きを描くだけで、あとは役者が自由に、即興でつじつまを合わせたであろうし、材料の多くは、いわゆる「島原狂言」から借用したらしい。

しかし、島原狂言は、なぜか間もなく幕府の禁じるところとなり、1636年の島原の乱への連想から、好ましくない政治的な含みを恐れたのか、遊客が傾城を買いにゆき、茶屋の亭主と会話し、太夫の踊りを見るというのが標準的な筋書きで、幕府の忌諱に触れたとは考えられない。

 

傾城買いのほかに、過去の英雄のゐ逸話に取材した筋書きの者も登場したが1644年には早くも、「狂言中現在の人名を仮用不成胸申渡さる」、つまり、現存する人の実名を使ってはならないというお触れが出ている。

初期の歌舞伎については、今日きわめて断片的な資料しか残っていないが、そのどれをとっても文学的な価値のある作品を想像させるものはなく、元禄期に至って初めて、歌舞伎は文学的な立場からの研究に値するものへと成長を遂げる。

浄瑠璃は、もともと「浄瑠璃物語」の主人公、浄瑠璃姫から来た語で、1485年二早くもそのよう例が見られ、源義経と浄瑠璃姫とのはかない恋物語は、よほど人々の創造に訴えるものがあったらしく、1531年にはすでに琵琶法師によって語られていたという記録があるが、それ以来十七世紀の中葉に至るまで様々な細部を変えながら連綿として語り継がれてきた。

物語の細部はともかく、本筋は、本筋は頼朝の追手を逃れる義経が矢矧の村で、そこに住むという浄瑠璃姫のうわさを聞くことに始まり、彼は屋敷を探し当て、庭越しに姫を垣間見、琴を弾いている姫を一目見て恋に陥り、笛のネガないのに気づいた義経は嚢中から我が笛を取り出し合奏、笛の美しさを聞いた姫は、、腰元をやって義経を屋敷に招き入れる。

 

物語には確かに演劇性がないわけではないが、そのころ語り物の本流を成していた『平家物語』の、合戦の描写が多い筋書きに対して一つの変奏曲としての役割を果たしていただろうことも想像される。

人形浄瑠璃が初めて成立したのは十六世紀の末葉で、それはこの演劇を構成する三要素、すなわち脚本と三味線と人形の三者が結合した時期でもあり、三味線が琉球を通じて日本にもたらされたのは1570年ごろで、すぐに大流行を迎え特に女性によって演奏されるようになった。

 

人形を用いた演劇表現は、平安朝末期にすでに記録されてはいるが、間もなく埋もれ、再び目に触れるのは十五世紀に入ってからで、人形を用いて能狂言を演じたという記録が見られ、人形はまた、神社仏閣などで宗教色の濃い演劇を上演する際に使われるようにもなっていた。

すでに説教節に使われていた人形は、仏教を面白く聞かせるのを主目的にしたもので、重苦しい語り物なのだが、1590年代になって、三味線や浄瑠璃と結合するようになった経緯は明らかではないにしても、この三要素の合流と協力は、忽ちにして人形浄瑠璃の人気を確立した。

浄瑠璃における脚本の重要性は、歌舞伎の場合とは違って、つとに認識されていたものと思われ、人形は生身の役者とは異なり、美貌や個性によって観衆を引き付けることはできないが、ポール・クローデルが、かつて指摘したように、浄瑠璃の言葉は人形を得て人形の中に体現され、具現される。

浄瑠璃の語り手である太夫は、登場人物のセリフばかりでなく、物語の情景や展開を説明するト書きをも朗唱し、人物の気持ちや行動の意味にまで立ち入り、物語の雰囲気を高めるための歌謡や詩をかたったりもするのだが、能の地謡座が主に第一人称で役の心を語るのとは異なり、浄瑠璃の語り手は自由に第三人称を用いて説明や叙景を行う。

 

元禄以前に存在した町人演劇の二つの主流、すなわち歌舞伎と人形浄瑠璃は、性格を全く異にするのであったが、歌舞伎は歌と台詞からなりたち、脚本よりは役者の当意即妙の科白に負うところが多く、一方の浄瑠璃は、その意図においては文学的であったが、圧倒的な重点は、セリフよりも情景の描写のほうに置かれていた。

作者を問わず、元禄期の歌舞伎のほとんどは、大名などのお家騒動に取材した「御家物」ジャンルに属するものであったが、弟が正統の世継ぎである兄を倒して御家を乗っ取ろうと悪だくみを働かせる乃が基本的な筋であり、弟は悪い母(兄にとっては継母)や、彼を建てることによって私欲を量ろうとする叔父や悪家老に後押しをされ、そこから反目や葛藤が始まる。

 

江戸と上方の気風の差も、歌舞伎の分類にあたっては、よく区別として用いられ、江戸では荒事が主流を占め、上方は、それと対照的に和事で、大衆の耳目を集めた実際の事件に多く取材し、人情の機微を突いたリアリスティックなものを好み、巷間のj心中事件が初めて芝居に仕組まれたのは1683年、大坂だが、過去の英雄に主人公を求めず、日常の社会生活をリアルに描写したこの種の作品は、世話物として知られるようになり、江戸の芝居はこれに対して時代物と呼ばれるようになった。

浄瑠璃も元禄期に入って、文学形式の発展期を、特に宇治加賀掾(1635-1711)は、能から用語や題材を借用し、浄瑠璃を能に比肩しうる演劇まで高めようとし、彼は演劇評論を集めた『段物集』の中で、「浄瑠璃に師匠なし、ただ謡を親と心得べし」とまで書き、書中、初心者に対して加賀掾が与えている注意事項は、余りに多くの点を指摘しすぎているため、かえって焦点が定まらないきらいがあるが、それが浄瑠璃を能と同じ高見までもっていこうという彼の熱意の表れだったのは疑う余地がない。