第二章 情勢の変転

第一節 高山ダリオ

 

五畿内における最も有力な領主は、大和国の松永久秀であったが、彼の有力な家臣の一人に、高山飛騨守図書という武士が居り、摂津の国高山の、古い由緒ある武家の出で、その家族のことは『太平記』に出ていて、先祖は宇多天皇の皇子敦實(あつさね)親王だという。

ここでいう高山というのは、現大阪府豊能郡豊能町高山と同一であり、高山城は今も城山と呼ばれている山頂にあり、父の遺産は少なく活動欲に燃える彼には十分ではなく、そこで松永久秀に仕えるようになった。

 

高山飛騨守は極めて豪勇の人であり、並外れた体力の持ち主で、武器の扱いに優れ、乗馬にも秀でた有能な武将だけでなく、人と交わる時には明朗快活で、真の侍としては当然のことだが、教養があり苦しむ同胞に対しては思いやり深く、慈善を好み、誠実で正直であり、すべての武士的な徳操を兼ね備えていた。

パアデレ・ヴィレラが、堺の信徒たちを訪れようとしていたころ、布教に反対する者たちは、パアデレに何か徹底的な打撃をあたえようと、好機を待ち構えており、比叡山の仏僧たちは、パアデレ・ヴィレラを都から追放するようにと、松永久秀に懇願したけれど、パアデレは布教の許可証を持っていたので合法的な手段で都から追放することができなかった。

 

日本の神々に熱心であった高山飛騨守は、「ヴィレラとロレンソをこの奈良に来させて、殿の御前でキリスト教の教えとやらを説くように、お命じになったらよろしいかろうと考えます」と主君に勧めた。

信徒たちは言ったー「起こりうるすべての危害は、パアデレ様おひとりに向けられたものでございます。私たちのことは大丈夫でございますから、パアデル様はご自身の安全のことをお考え下さい」

結城山城守が、どうやってパアデレを奈良におびき寄せるかとはかりごとを巡らせていたころ、キリスト教徒であるディオゴという男が、松永久秀のもとにある訴訟事件をもちこみ、たまたま結城が担当することになった。

そこで結城山城守は、「松永弾正さまは、宣教師たちを、京の都や周辺 ・ 五畿内から追放し、教会も没収するつもりであるが、そのことを知っているか? 」と尋ねると、デイオゴは、「 デウスさまの おゆるしがなければ、どんなことも起こりません」と答えた。

 

結城 「 デウスとは 何ぞや? 」と問うと、 「 デウスさまとは、わたしたちキリスト教徒が拝む、天と地の 御主(おんあるじ)で、今の世のみならず、後(のち)の世においても、最高の位を持つお方、人類の救い主、万物の御(おん)作者、 見えるもの ・ 見えざるもの、すべての造物者(つくりぬし)である」

 山城守は、まだ信徒になって日も浅いものの答えが見事であったので、1563年5月28日、ディオゴに、堺のパアデレ・ヴィレラに手紙を届けさせたが、にわかに信じがたく、先にイルマン・ロレンツとディオゴとその従者と共に奈良に行かせ、一方の山城守は清原技賢(しげたか)と高山飛騨守を呼び、それから数日間、三人は次から次へとイルマンに質問を浴びせかけた。

 

フロイスは〈この三人が初めて、世界の創造・人類の贖罪・霊魂の不滅について喜ぶべき智識に接し、彼らがそれまで信じていたことと全く違ったことを聞き、これに対していくつもの質問をし、いくつもの満足する返答を得た時、デウスは最初に高山飛騨守に恩寵の光を分かち給い、彼はキリスト教徒となり、ついでほかの二人もその家族とともに改宗するに至った〉と記す。

この状況の変化を話すために、結城山城守が、単身松永久秀を訪ね、久秀自身が判断できるように、ロレンツを呼ぶように頼み、その講義を、長い時間話を注意深く聞いたのちに、居合わせた人々が、あるいは久秀自身がキリシタンになるのではないかと思うほどに、賛意を示したが、それは単なる偽装に過ぎず、彼の本心は、依然同様、キリストの教えを憎悪していたのだ。

イルマン・ロレンツは、パアデレ・ヴィレラ宛ての結城山城守の手紙を預かっており、じぶんと清原に洗礼を授けるために、奈良へ来てほしい、十日経ったら、家臣を迎えにいかすからという、依頼の手紙であったが、結局四十日たってヴィレラはようやく奈良に迎え入れられ、しばらくは山城守、清原技賢(しげたか)とだけで宗教上のことについて話し合い、その後、一軒の家に住まいを移し、そこで大勢の聴衆に公に教えを説き、話を聴いた人々は老いに感動したが、山城守と技賢のほかにはほとんどだれも洗礼を望む勇気はなかった。

ヴィレラが奈良に滞在していた当初には、高山飛騨守はまだこの地に来ていなかったが、結城と清原が洗礼を授かった後になってたまたまその地に来合せ、事の次第を聞いたのだが、フロイスの日本史によれば、〈彼は松永久秀の使命を帯び、他国へ急ぎの旅路にあったにもかかわらず、すでに出立したように見せかけて、二日二晩奈良市内の某所に隠れ、昼夜を分かたずたえずゼウスのことについて傾聴し、彼はことのほか満足し、その場で尊い洗礼を受け、ダリオという霊名を得た〉とある。

 

ヴィレラの信望はますます高まり、1557年大内義長との戦に勝ち、山口の新領主になった毛利元就に、過酷な扱いを受けている山口のキリスト教徒たちのために、将軍に自分の意見を言えるまでになっていた。

将軍はその件について元就に書を寄せて、もっとキリスト教徒たちを優遇するようにと申し送り、当時のヴィレラは、何か困難が起きた時のために、将軍家の好意を確保しておこうと、数名の将軍家の高官をたびたび宴に招いた。

 

1565年には、招待を受けた五、六名の中には、将軍の舅にあたる公卿近衛美作守種家の姿さえ見受けられ、この結果として五畿内から何人かのキリスト教の武士が生まれ、首都京都の周辺に教会が設けられた。

中でも重要なのは、高山飛騨守の改宗と、澤城並びに五畿内の他の城における彼の使徒的活動であるが、この本ではパアデレ・ヴィレラなどよく出てくるが、キリシタン時代のカトリック司祭のことで、ポルトガル語のパードレpadreで、「バテレン」と称した。 

第二節 洛外の教会

父(忠正)が洗礼を受けた際たまたま奈良に居合わせ、他の七人の武士と共に、自信も洗礼を受けた結城左衛門尉(1503-1559)は、三好長慶の家臣で、彼は長慶の居城であるイモリ上に帰るとすぐに、、友人たちの自分の幸せについて語り、彼らをキリストの教えに導こうとした。

左衛門尉は、飯盛城の河岸、砂之地内に、五畿内最初の正式の教会をたて、仏僧たちは、新しい改宗者を何とかして背教させようと、何かにつけてうるさく悩ませはじめたが、結果としては仏僧を威嚇し、嫌がらせを終わらせるために戦闘の準備をさせただけだった。

 

高山ダリオは、、かつてはその信念からキリスト教徒を憎んでいたが、改宗後は、熱心に福音を広め、以前はキリスト教は祖国に対する危険を宿すものと、本気で信じていたのであったが、今ではその十字架の数こそは、人間がこの世において見出し得る、最も大きな幸福であると確信していた。

ダリオは、自分の家族と家臣たちを、キリストの信仰に導きたいと考え、イルマン・ロレンツを澤城に来てもらい、幾日か説教をしたのちイルマンは、百五十人に洗礼を授けたが、その中にはマリアという霊名を与えられたダリオの妻や、息子たち、娘たちおよび城内のもっとも身分の高い武士たちもいた。

 

イルマンが一言もほのめかさなかったにもかかわらず、ダリオは自ら考えて城の囲いのうちに教会をたて、イルマン・ロレンツが去って後もこの教会の保護に細かく心を砕いており、ダリオはこの教会に集まった信徒たちに、祈りを覚えさせ、又それを書き記させた。

この時洗礼を受けたダリオの親族に関する詳細な記録を、ルイス・フロイスはその後14年たった1576年になってようやく記しているが、これは都で筆を執り、九州豊後に転勤になった後、同地で書き終えたからである。

ダリオの三人の息子のうち、長男は洗礼によってジュスト(ユスト)という霊名を与えられ田右近であり、イエズス会士の書簡の中では、彼は通常〈ジュスト・ウコンドノ〉と呼ばれているが、日本の歴史の中では高山右近の名で知られている。

ダリオの他の二人の息子に関しては、イエズス会士の書簡の中に何回か見られるが、、ひとりは太郎衛門と言い、かなりたびたび資料に出てくるが、もう一人の息子については、1571年戦死したと記されているに過ぎない。

 

ダリオがキリシタンになったころ、ダリオの年老いた母は摂津の郷里高山に住んでおり、ダリオはキリスト教の教えから与えられる慰めと平安を得られないままで、、母がこの世を去るのを密に忍びなかった。

ダリオの老いた母は、前からやがて自分を葬ってもらうために小さな寺院が建てられていたが、これはキリスト教の聖堂に変えられ、聖ジュリアーノに捧げられたのだが、パアデレ・ヴィレラが高山を訪れた時には、ここでミサを捧げた。

 

ダリオは、自分がキリストの教えの中に見出した幸せを、家族や家臣だけでなく、友人にも分かち与えようと努め、澤から五レゲア離れたところに十市城(奈良県天理市)と呼ばれる城があり城主のイシバシ何某は、将軍足利義輝の従兄弟で、織田信長との戦いに敗れ、松永久秀のもとで与えられた城である。

〈イシバシ殿は極めて真摯な人であって、日本の諸宗教に関する所を読み精通していたので、心に浮かんできたいくつもの質問をし、十分に教わって後、彼も、妻・子どもも、家臣たちも洗礼を授かり、そして、真のキリシタンとして生活し死に至るまで信仰を守り続けた〉と、フロイスは記している。

 

摂津の国餘野(大阪府豊能郡)の城主黒田何某は、高山ダリオの遠縁にあたり、親交があり、熱心なダリオは、彼をもまtキリシタンの信仰に導こうと思い、〈自分はこの教えの他には、いかなる法においても霊魂の救いはないという確信を得た。黒田殿もデウスのことを聴き、キリスト教徒になるように>と切々に訴えた。

ダリオと息子右近が、日本の教会に対して、いかなる他の者よりも多くのことを、成し遂げることができたのは、彼らが自分の持つすべての愛と、あらゆる犠牲をも捧げる覚悟であったが、十字架の教えを証とする、心からの献身であり、その信仰は、迫害の時には一層輝きを増し、その真価が証明されることとなった、日本の武士道のもっとも高貴な典型とみなされるのであった。