第一章 都における教会の基礎
第一節 フランシスコ・ザビエル
1547年12月、東洋の使徒と呼ばれたフランシスコ・ザビエル(1506-1552)は、モルッカ諸島(インドネシア)への宣教の旅から戻ったところだったが、フランシスコの友人たちは、すでにゴア(インド西海岸)へ旅立っていた。
ザビエルは、中国北方のある人々のことを聞いていて、彼らは豚の肉を食べず、様々な珍しい祭りをすると言う、彼らのことを知りたがり、それだけでなく、中国一般に関することでも、もっと詳しい知識を得たいものだと思っていた。
そんなある日のこと、ザビエルがノートルダム聖母教会(マラッカ)で、婚姻の秘跡をさずけていたときであったが、古くからの友人である、ジョルジ・アルヴァレス船長が彼を訪ねてきて、黄色い肌、細い眼の、背の低い男を伴っていた。
変わった服装をしている彼は、ヤジローと言い、日本の鹿児島という地方出身の武士で、ふとしたことから人を殺し、弟と従者一人を連れて、船長のポルトガル船に逃げ込んだのだというが、彼は良心の呵責にひどく苦しめられていた。
「マラッカ(マレーシア)へ行きなさい。その地でフランシスコ・ザビエルという聖なる神父様に、あなたの苦しみを打ち明けなさい。必ず慰めと助けが与えられるでしょう」と、マラッカへ連れてやってきたのが二年前だという。
ザビエルにとってヤジローとの出会いは大きな驚きであったが、実際に日本に行ったことのあるアルヴァレス船長の話は、さらに好奇心をそそるもので、(わたしが知っているどの国民よりも、理性的に優れているという日本の人々に、キリストを知らせたい)と思った。
ヤジローがキリストの教えを学ぼうとする熱心な態度、洗礼を受けたいという熱い望み、ポルトガル語の学習に見せた著しい進歩を見てきたザビエルは、ヤジローの言ったことは真実であろうと思ったー「まず、その新しい教えを説く人の行いをじっくり観察して、その言葉と一致しているかどうかを確かめるでしょう。そして確かだということが判れば、国王から貴族、商人、納付迄すべての人々がキリスト教徒になるでしょう」
アルヴァレス船長も、ザビエルのために、「日本は理性によって左右され、まめに立ち働き、勇敢で、騎士らしく、政府に従い、その他多くの徳にとんだ国民である」と印象を書き記したが、ヤジロー達三人も、ゴアのパウロ学院でキリスト教をより深く学び、1548年聖霊降臨の日曜日には、ゴアの司教ドン・ホアン・デ・アルブケルケから洗礼を受け、ヤジローはパウロ・デ・サンタフェ、その弟はジョアン、従者はアントンという洗礼名が授けられた。
翌年の春、ザビエルは三人の日本人を連れて、日本への大旅行の途に就き、彼の計画では、まず国王を訪ね、日本全国に布教する全権を願い、同時に中国でも布教するために、国王からちゅごくの統治者のもとへの、旅行免許をねがうつもりであったが、その後、日本の僧侶や学者たちの前でキリストの教えを説き、彼らを改宗させ、それから一般の国民をキリスト教に導こうと考えていた。
本来なら定期の商船は年を越さねばならなかったが、様々な手を尽くしたザビエルは、日本人が海賊と呼んでいる、ある中国人のジャンクに身を託すことにし、1549年6月24日、マラッカを発ったが、航路は波が高く、船酔いに苦しめられ、おまけに中国人たちはとても迷信深かったので、それとも戦わなくてはならず、そんな苦難に満ちた旅もやっと終わり、同年八月十五日に、ザビエルたちは、鹿児島の港に到着したのであった。
薩摩の首都鹿児島はヤジローのふるさとだったので、彼らはとても温かく迎えられ、鹿児島の人々は、役人も含めとても人懐っこく、ヤジローの過去の過ちなど、すでに人々の脳裏から消えていた。
六週間待って、ザビエルはやっと、領主島津貴久に謁見を許され、この好機を逃さず、貴久に都に上る便船を用立ててくれるように願ったが、貴久は「今は季節も遅く旅は危険であろうから、半年もたってから旅立つのがよろしかろう」と答えた。
冬の月日を、ザビエルは日本語の習得にあて、教義全体に関する講話をヤジローに翻訳させ、それは後日ザビエルが説教するときの下地として、非常に役立ったのであるが、ヤジローも自分の家族や友人に布教し、その甲斐もあって彼の母・妻・娘・親族、友人など約百名が洗礼を受けた。
1550年8月、仲間とともに平戸へ赴き、領主 松浦隆信(まつうら たかのぶ)に謁見し、宣教の許可を得、そしてこの地にも、短期間に約百人のキリスト教徒の一団ができたが、ザビエルの心は変わらず、平戸にはしばらく滞在しただけで、再び旅路につき、博多から下関を経て、力ある領主大内義隆の城がある山口の街に入った。
ザビエルは1550年の降誕祭n一週間前に、憧れの目的地である都へ向かって、山口を出発したが、長い旅路の不自由さは筆舌に尽くしがたかったけれど、翌年の一月に到着したのち、あらゆる努力をしたにもかかわらず、王に拝謁はかなわなかった。
不成功に終わったこの旅は、ザビエルに二つのことを教えたが、その一つは、日本における実権は、日本人が天皇と呼ぶ国王にも将軍にもなく、地方の領主にあること、中でも山口の領主は最も有力な領主の一人であること。
第二に、民衆や役人の、鼻の先であしらうような、軽蔑的な態度から彼が学んだことは、日本では威厳を備え、盛装していかなければ、それなりの好印象を与えることができない、ということであった。
そこでザビエルは、今度はインド総督の使節として、数々の贈り物を携えて、もう一度山口へ行くと、今度は驚くべき効果があり、義隆は、多額の金銀を与えようとしたが、ザビエルは、洗礼を望むものを教会に入れることを許可してもらうこと以外には、何も望まなかった。
山口でキリシタン宗門が盛んになってきたころ、ザビエルは、豊後領主大友義鎮(よししげ:宗麟)から熱心な招待をうけ、これに応じればならないと考えたのも、ザビエルを尊敬していた友人、ドゥアルテ・ダ・ガーマの船が、ちょうど豊後に入港していて、ガーマは「この聖なるパアデレ(司祭職)」についてしばしば話したので、宗麟はザビエルと近づきたいと願うようになったのである。
ザビエルが顕れた得、ポルトガル人は従者までもが最良の服を身につけて彼を迎え、華やかに飾り立てた一本マストの帆船で、彼を首都府内(大分)へ案内したのも、住民や領主に、キリスト教宣教師の威厳を示すためであったが、宗麟は、格別な好意をもってパアデレを歓待し、彼はそれまでも、常にポルトガル人の大の友人であり、保護者であったのだが、この時以来、宣教師の寛大な保護者になったのである。
ザビエルがまだ豊後に滞在しているとき、山口では暴動がおこり、領主と祖pの息子たちは犠牲となり、その知らせと共に謀反人たちは使者をよこし、宗麟の弟を主君に迎えたいと申し入れてきた。
宗麟の弟はその申し入れを受け入れ、自ら大内義長と名乗り、教会にはできる限り尽力すると約束し、二人の力のある領主の保護のもとに日本の教会は輝かしい将来へ向かっていくだろうとという、喜ばしい希望に慰められて、二年の活動を終えたザビエルは、インドへの帰途に就いた。
ザビエルは、山口で一人の若者を迎えていたが、彼こそはのちの京都での布教における、非常に重要な人物で、彼はほとんど盲目で、醜悪な容貌であったが、非常に弁舌に優れた琵琶法師で、とうっじの日本では、盲人は放浪音楽師か物語芸人として、日々の糧を稼ぐのであったが、彼もその例にもれなかった。
ザビエルが日本を去ってほどなく、彼は修道士としてイエズス会に入り、イルマン(補佐役)・ロレンツという名を与えられ、日本の教会、特に都における布教に偉大な功績を遺し、ザビエルを堺と都で泊めた宿主は、洗礼を授かるまでには至らなかったが、ザビエルは非常に深い感銘を遺していったので、その家族はのちに教会に入り、この両市における布教に力を尽くした。
第二節 パアデレ・ヴィレラ(1525-1572)とイルマン・ロレンソ(1526-1592)
1559年9月になって、パアデレ・ガスパル・ヴィレラは、イルマン・ロレンツを伴って、五畿内に向かって出発することができた。
新しい教えを広めようという彼らの苦労は、筆舌に絶するものであったが、貧しさ・迫害・教えへの妨害、そして脅迫などパアデレたちは、あらゆる苦難と闘わなくてはならなかった。
それでもパアデル・ヴィレラはあきらめなかったが、ある堺の信者の医者が紹介してくれた、義侠心にとんだ仏僧の援助を得て、将軍足利義輝に謁見することになり、将軍から〈保護令〉をもらい受けそれを戸口に張り付けた。
パアデレが説く法は、恐ろしい悪魔の方であるから、街から追い出してほしいと将軍にせぱったが、義輝は先に発した保護令を撤回することを拒み、「むしろ、正々堂々と宗論を戦わせて、ヴィレラを打ち負かした方がよかろう」と答えた。
そこで仏僧たちは、誤記内で最も有力な大和の国の領主である松永久秀を頼り、彼にわいろを贈って、自分たちの目的を成功させよとしたが、久秀は公に追放することができなかったけれど、「将軍はすでに追放令に署名したから都を去るように勧告せよ」という書を送った。
1562年の秋になってパアデル・ヴィレラは、やっと都に戻ることができたが彼の話を聞きに来る人の数は減る一方だったので、1563年の復活祭まで、すでにキリスト教徒になった人々をいっそう深く指導することに専念した。