猫のふところ

残念なことに、『猫の井戸端』が行方不明になり、その記憶をたどって、ここに移しを記すけれど、当然ながら大まかな筋である。

とはいっても、偉大な先人の謎を引き継ぎ、追い求めたものであり、想像力を働かせてはみても、何の独創性もないけれど、「謎」に導かれて、先賢の懐に飛び込んでみただけである。

【漢字の伝来】

日本では、4世紀から7世紀、鉄器時代にはいり、古墳が作られるようになるが、そのころ中国や朝鮮との交流から渡来人が文字や漢字を日本に持ち帰った。

『日本書紀』によると、応神天皇のとき百済からの渡来人である阿直岐の推挙で王仁が日本に来て、当時、朝鮮の思想で支配的であった孔子の『論語』10巻や『千字文』1巻を日本に伝えたが、王仁らによって伝えられた、と考えられている。

大和朝廷の文筆の担当は渡来人を中心に行われ、史の姓をもらい地位が高かった渡来人である東漢氏・西文氏の子孫により世襲によって文筆が担当されたが、しだいに日本人も漢字を習熟し、5世紀には漢字の使用が普及していった。

出土した木簡という資料の研究から、漢字は仏教の伝来と共に朝鮮半島を経由して伝わったと考えられています。

漢字の使用例は5世紀の稲荷山古墳出土の鉄剣や、江田船山古墳出土の太刀などに見られ、いずれも漢文で書かれています。 『歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに』(小名木善行)

 

628年に書かれた『隋書』の「倭国伝」に、「(倭国に)文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりとす。

仏法を敬い、百済に仏典を求めて始めて文字を得た」と書かれていることから、「日本には仏教渡来以前には文字がなかった」などと言われていますが、そこで、この『隋書・倭国伝』の原文を見てみます。

【無文字  唯、刻木、結繩  敬佛法  於百済求得佛經  始有文字】と書かれており、 読み下すと、「(倭国に)文字は無い。  唯(ただ)、刻木(こくぼく)と結繩(けつじょう)のみ。  仏法を敬(うや)まい  百済於(よ)り仏経を求め得て  始めて文字有り」 となります。

ここでいう「刻木(こくぼく)」というのは、漢字の始祖とされたチャイナの三皇時代の倉頡(そうきつ)が考案した「書契(しょけい)」のことで、書契とは「木に文字を刻む」という意味の言葉です。

 

「結繩(けつじょう)」は、縄目を結んだ記号のことで、ひらたくいえば「縄文文字」ということになります。

倭国では仏教伝来以前には「刻木文字、結繩文字」が使われていたと記しているわけで、 この「刻木文字」は、古いものですと紀元前14世紀(いまから3400年前)の遺跡である河南省安陽市の遺跡「殷墟(いんきょ)」から発掘されていますー 別名が「甲骨文字」です。