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万葉集Ⅰ(1-53)④吉野時代

01 0034 幸于紀伊國時(690年)川嶋皇子御作歌 或云山上憶良作

01 0034 白浪乃(しらなみの)濱松之枝乃(はままつがえの)手向草(たむけぐさ)幾代左右二賀(いくよまでにか)年乃経去良武(としのへぬらむ)一云 年者経尓計武(としはへにけむ)

 

川島皇子(657-691)は、天智天皇の第二皇子だが、妃が天武天皇の皇女(泊瀬部皇女)なので天皇に重んじられ、天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、鵜野讃良皇后(後の持統天皇)も列席する中、草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子・志貴皇子と共に天皇の詔に随い逆らうことなき旨と一同結束とを誓う儀「吉野の盟約」に参加した。

天武天皇10年(681年)詔を奉じて忍壁皇子らと共に「帝紀及び上古諸事」の編纂を命じられ、国史編纂の大事業を主宰、記定には筆頭の編纂者として参与した。

天武天皇14年(685年)冠位四十八階が施行されると、忍壁皇子とともに浄大参に叙せられており、天智・天武の諸皇子の中では草壁皇子(浄広壱)・大津皇子(浄大弐)・高市皇子(浄広弐)に次ぐ序列であった。

同年9月に天武天皇が崩御すると、10月に第3子たる大津皇子が謀反を理由に捕えられ自害させられるが、この際に川島皇子が親友であった大津皇子の翻意および謀反計画を皇太后(持統)に密告したと伝えられている。   

『万葉集』にはこの一首だけだが、これは明らかに有間皇子への手向けであり、別に『懐風藻』にも漢詩が一首残されている。

 

           山斎(山荘)

塵外年光満(塵外年光に満ち) 林間物候明(林間物候明らかなり)

風月澄遊席(風月遊席に澄み) 松桂期交情(松桂交情を期す)

 

じん‐がい〔ヂングワイ〕【塵外】:俗世間のわずらわしさを離れた所。塵界の外。

物候:気候風物。

 

おそらく、草壁王子邸での春宴だと思うのだが、同じよう招かれた大津皇子の漢詩も残されている。

 

              春苑宴(春苑の宴)

開衿臨霊沼(衿を開きて霊沼に臨み) 遊目歩金苑(目を遊ばせて金苑を歩む)

澄徹苔水深(澄徹して苔水深く)   唵曖霞峯遠(唵曖として霞峯遠し)

驚波共絃響(驚波は絃と共に響き)  哢鳥与風聞(哢鳥は風と与に聞く)

羣公倒載歸(羣公倒載して歸り)   彭澤宴誰論(彭澤の宴誰か論ぜん)

 

霊沼:宮中の池を指す

ちょう‐てつ【澄徹】:すんですきとおること。

唵曖(あんあい):靄のかかった状態

霞峯(かほう):霞や雲がかかっている峰

【驚波】きようは:荒波

哢鳥(ろうちょう):楽しむように啼く鳥

羣公(ぐんこう):宴会に参加している人々

倒載歸:酔って立ち上がれない状態で帰る

彭澤(ほうたく):湖面の標高21mで中国最大の淡水湖である。(陶淵明の彭沢) 

01 0035 越勢能山時阿閇皇女御作歌 (690年)

01 0035 此也是能(これやこの)倭尓四手者(やまとにしては)我戀流(あがこふる)木路尓有云(きぢにありとふ)名二負勢能山(なにおせのやま)

 

『負』の字には少なくとも、負(ブ)・ 負(フウ)・ 負(フ)・ 負ける(まける)・ 負かす(まかす)・ 負む(たのむ)・ 負く(そむく)・ 負う(おう)の8種の読み方が存在する。 『勢』の字には少なくとも、勢(セイ)・ 勢(セ)・ 勢い(いきおい)の3種の読み方が存在する。

負う(おう)∔勢(セ)=(おセ) (おせ)は、「成長した者をいう」とあるが、男背(おせ)は、去年亡くなった草壁皇子のことのように思う。

阿閇皇女(あへのひめみこ)は、天智天皇第四皇女子で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)だが、持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。

また大友皇子(弘文天皇)は異母兄にあたり、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子(662-689)の正妃であり、文武天皇と元正天皇・吉備内親王(長屋王の妃)の母であるのだ。 

持統天皇は690年の5月と8月に吉野を訪れ、9月には紀伊の白浜温泉に行幸しており、その頃の二首ということになろうか?

 

しかし、なぜこの紀路の歌が、吉野の前に挿入されたのであろうと思うのだが、ここで川島皇子(657-691)の人物評を見てみると、「温厚でゆったりした人柄で、度量も広かったが、大津皇子の謀反事件での対応に対しては、朝廷からは忠誠を賞され、友人からは薄情さを批判され、議者らは天智天皇の皇子との微妙な立場も踏まえ、厚情か薄情かは明らかにしなかった」とされている。

さらに『懐風藻』の編者は、「私好を忘れて公に奉ずるというものは、忠臣として素晴らしいことであり、訓に背いて迄親しく友に交わるものは、徳に背くことだと言わざるを得ない。ただ、十分に友を諫(いさ)め教えることを尽くさないで、親友を塗炭の苦しみに陥れるのは、わたしも亦これを疑う

 

この歌の翌年に川島は亡くなったのだけれど、おそらく、前年に亡くなった草壁皇子(662-689)についても気に病んでいたのではないだろうか?

というのも、草壁は大津の自死を機に病んでいたと思われるからだが、つまり川島の歌は、有間へ捧げたものかもしれないが、大津・草壁への献歌でもあったように思う。

そして阿閇皇女(草壁の妃)の歌は、『万葉集』にも、ある種の歴史観をこめていたのかもしれない。

因みに持統の吉野行幸は、31回だという。

持統3年(689):2回

辛未、天皇幸吉野宮。甲戌、天皇至自吉野宮】「春一月十八日、天皇は吉野宮へお出でになり、二十一日、吉野から帰られた」

この四月、皇太子草壁皇子尊が薨去された。

甲申、天皇幸吉野宮】「八月四日、天皇は吉野宮よしののみやにお出でになった」

4年:5回、

この年の一月に持統が即位する。

甲子、天皇幸吉野宮】「二月十七日、天皇は吉野宮にお出でになった」

五月丙子朔戊寅、天皇幸吉野宮】「五月三日、天皇は吉野宮へお出でになった」

この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。

八月乙巳朔戊申、天皇幸吉野宮】「八月四日、天皇は吉野宫にお出でになった」

冬十月甲辰朔戊申、天皇幸吉野宮】「冬十月五日、天皇は吉野宮にお出でになった」

甲寅、天皇幸吉野宮。丙辰、天皇至自吉野宮】「十二月十二日、天皇は吉野宮にお出でになった。十四日、吉野宮よりお帰りになった」

5年:4回

戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮】「一月十六日、天皇は吉野宮へお出でになり、二十三日、吉野よりお帰りになった」

丙辰、天皇幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野宮】「四月十六日、天皇は吉野宮にお出でになり、二十二日、お帰りになった」

秋七月庚午朔壬申、天皇幸吉野宮。辛巳、天皇至自吉野】「秋七月三日、天皇は吉野宮にお出でになった。十二日、天皇は吉野から帰られた」

是日、天皇幸吉野宮。丁巳、天皇至自吉野】「この日(十月十三日)、天皇は吉野宫にお出でになり、二十日、お帰りになった」

この十二月、藤原京の造営が始まる。

 6年(692年):3回

二月十九日に、中納言直大弐(従四位上に相当)の三輪高市麻呂(657-706)は、上表して諫言し、天皇が伊勢国に行幸して農事を妨げることを中止するよう求めた。

さらに、三月三日、職を賭して重ねて諫めたとある。

丙子、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮】「五月十二日、吉野宮にお出でになり、十六日、お帰りになった」

壬寅、幸吉野宮。辛酉、車駕還宮】「七月九日、吉野宮にお出でになった。二十八日、天皇は宮に帰られた」

癸酉、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮】「十月十二日、吉野宮よしののみやにお出でになり、十九日に帰られた」

 

09 1770 大神大夫任長門守(高市麻呂)時(702年1月)集三輪河邊宴歌(三輪川の辺に集宴しての歌)二首

09 1770 三諸乃(みもろだい)神能於婆勢流(かみのおばせる)泊瀬河(はつせがは)水尾之不断者(みをのたたずば)吾忘礼米也(われわすれめや)

 

み-もろ 【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神の御座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など。特に、「三輪山(みわやま)」にいうこともある。

『乃』の字には少なくとも、乃(ノ)・ 乃(ナイ)・ 乃(ダイ)・ 乃(アイ)・ 乃(の)・ 乃(なんじ)・ 乃ち(すなわち)の7種の読み方が存在する。

だい 【代】:その人に代わって仕事をする人。代理。

み-を 【水脈・澪】:川や海の中の、帯状に深くなっている部分。水が流れ、舟の通る水路となる。

め-や:…だろうか、いや…ではない。

 

09 1771 於久礼居而(おくれゐて)吾波也将戀(あれはやこひむ)春霞(はるかすみ)多奈妣久山乎(たなびくやまを)君之越去者(きみのこゆるも)

 

『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。

『越』の字には少なくとも、越(ガチ)・ 越(カツ)・ 越(オツ)・ 越(オチ)・ 越(エツ)・ 越(こし)・ 越す(こす)・ 越える(こえる)の8種の読み方が存在する。

『去』の字には少なくとも、去(コ)・ 去(ク)・ 去(キョ)・ 去く(ゆく)・ 去く(のぞく)・ 去る(さる)の6種の読み方が存在する。

『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。

越(こし)+去く(ゆく)+ 者(もの)=(こゆルも)

こ・ゆ 【越ゆ・超ゆ】:越える。通り過ぎる。

【右二首古集中出】とあるが、大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御している持統を歌ったものであり、漢詩にしても、お仕えしている天皇よりも、お亡くなりになった上皇への随行が強いもののような気がする。

あの諫言にしても、信頼関係があってのことで、持統もそれに応えるように、【調庸(ちょう‐よう)】(みつぎものと労役)を免除しているのだ。

 

          従駕応詔(従駕し、詔に応ず)

臥病已白鬢(病に臥して已に白鬢) 意謂入黄塵(意に謂うことは黄塵に入らん)

不期遂恩詔(期せずして恩詔を遂げ)従駕上林春(駕に従う上林の春)

松巖鳴泉落(松巖鳴泉落ち)    竹浦笑花新(竹浦笑花新たし)

臣是先進輩(臣は是れ先進の輩)  濫陪後車賓(濫りに陪す後車の賓)

 

じゅう‐が【従駕】: 天子の行幸に随行すること。

意謂:こころに思うこと

こう‐じん クヮウヂン【黄塵】:わずらわしい世間の俗事だが、黄泉を暗示

じょうりん‐えん〔ジヤウリンヱン〕【上林苑】:中国、長安の西方にあった大庭園。

 

7年:5回

乙未、幸吉野宮。壬寅、天皇至自吉野宮】「三月六日、吉野宮にお出でになった。十三日、天皇は吉野宮より帰られた」

五月己丑朔、幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮】「五月一日、吉野宮にお出でになり、七日、お帰りになった」

秋七月戊子朔甲午、幸吉野宮。秋七月戊子朔甲午、幸吉野宮】「七月七日、吉野宮にお出でになった。この日(十四日)、天皇は吉野より帰られた」

甲戌、幸吉野宮。戊寅、車駕還宮】「十七日、吉野宮にお出でになり、二十一日、宮に帰られた」

十一月丙戌朔庚寅、幸吉野宮。乙未、車駕還宮】「十一月五日、吉野宮にお出でになった。十日、宮にお帰りになった」

8年:3回

戊申、幸吉野宮】「一月二十四日、吉野宮よしののみやにお出でになった」

庚申、幸吉野宮。丁亥、天皇至自吉野宮】「四月七日、吉野宮にお出でになった。十四日、天皇は吉野宮から帰られた」

乙酉、幸吉野宮】「九月四日、吉野宮にお出でになった」

この十二月六日、藤原宮に遷都された。

9年:5回

閏二月己卯朔丙戌、幸吉野宮。癸巳、車駕還宮】「閏二月八日、吉野宮にお出でになり、十五日にお帰りになった」

己未、幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野】「三月十二日、吉野宮にお出でになり、十五日にお帰りになった」

甲午、幸吉野宮。壬寅、至自吉野】「六月十八日、吉野宮にお出でになり二十六日にお帰りになった」

八月丙子朔己亥、幸吉野。乙巳、至自吉野】「八月二十四日、吉野にお出でになり、三十日にお帰りになった」

十二月甲戌朔戊寅、幸吉野宮。丙戌、至自吉野】「十二月五日、吉野宮にお出でになり、十三日にお帰りになった」

10年:3回

二月癸酉朔乙亥、幸吉野宮。乙酉、至自吉野】「二月三日、吉野宮にお出でになり、十三日にお帰りになった」

己亥、幸吉野宮。乙巳、至自吉野】「四月二十八日、吉野宮にお出でになった。四日、吉野から帰られた」

六月辛未朔戊子、幸吉野宮。丙申、至自吉野】「六月十八日、吉野宮よしののみやにお出でになり、二十六日にお帰りになった」

この7月に、高市皇子が薨去!

11年:1回

壬申、幸吉野宮。己卯、遣使者祀廣瀬與龍田。是日、至自吉野】「四月七日、吉野宮にお出でになった。十四日、使者を遣わし広瀬と竜田を祭らせ、この日、吉野から帰られた」とある。

そしてこの年の八月、天皇は宮中での策(みはかり)を決定されて、皇太子(文武天皇)に天皇の位をお譲りになった。 

 

持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行ったが、翌年には崩御し、その一連の吉野行きについてはよくわからない。

ただ、当時すでに、兵庫の有馬温泉や、和歌山の白浜温泉などは知られており、持統天皇は690年の5月と8月に吉野を訪れたり、9月には紀伊の白浜温泉に行幸している。

当時の温泉は潔斎(けっさい)し、身を清める場でもあったが、持統天皇が繰り返した吉野行幸については、「吉野宮で温泉の湯に浸りながら、禊の神事を重ねて心身をリフレッシュし続けたことが想定される」(小笠原好彦『検証 奈良の古代遺跡――古墳・王宮の謎をさぐる』)と書かれているが、そこには神祇と、もう一つ課せられた、『万葉集』の仕事があったのかもしれない。