万葉集Ⅰ(1-53)⑤吉野・伊勢
01 0036 幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌
01 0036 八隅知之(やすみしし)吾大王之(わごおほきみの)所聞食(きこしをす)天下尓(あめのしたには)國者思毛(くにはしも)澤二雖有(さはにあれども)山川之(やまかはの)清河内跡(きよきかふちと)御心乎(みこころを)吉野乃國之(よしののくにの)花散相(はなぢらふ)秋津乃野邊尓(あきづののへに)宮柱(みやばしら)太敷座波(ふとしきませば)百磯城乃(ももしきの)大宮人者(おほみやひとは)船並弖(ふななめて)旦川渡’あさかはわたる)船競(ふなぎほひ)夕河渡(ゆふかはわたる)此川乃(このかはの)絶事奈久(たゆることなく)此山乃(このやまの)弥高思良珠(いやたかしらす)水激(みづはしる)瀧之宮子波(たぎのみやこは)見礼跡不飽可問(みれどあかずも)
01 0037 反歌
01 0037 雖見飽奴(すみあきぬ)吉野乃河之(よしののかはの)常滑乃(とこなめの)絶事奈久(たゆることなく)復還見牟 (またかへりみむ)
01 0038 安見知之(やすみしし)吾大王(わがおほきみの)神長柄(かむながら)神佐備世須登(かむさびせしと)芳野川(よしのがは)多藝津河内尓(たぎつかふちに)高殿乎(たかどのを)高知座而(たかしりまして)上立(のぼりたち)國見乎為勢婆(くにみをなせば)疊有(たたなはる)青垣山(あをかきやまの)〃神乃(やまかみの)奉御調等(まつるみつきと)春部者(はるへにも)花挿頭持(はなかざしもち)秋立者(あきたつも)黄葉頭刺理(もみちかざせり)一云 黄葉加射之(もみちばかざし)逝副(ゆきそひし)川之神母(かはのかみにも)大御食尓(おほみけに)仕奉等(つかへまつると)上瀬尓(かみつせに)鵜川乎立(うかはをたちて)下瀬尓(しもつせに)小網刺渡(さでさしわたす)山川母(やまかはも)依弖奉流(よりてつかふる)神乃御代鴨 (かみのみよかも)
01 0039 反歌
01 0039 山川毛(やまかはも)因而奉流(よりてつかふる)神長柄(かむながら)多藝津河内尓(たぎつかふちに)船出為加母 (ふなでなすかも)
01 0039 右日本紀曰 【三年己丑正月天皇幸吉野宮・八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮・五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮・四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌】
漢詩にも多くの例をみることができるが『懐風藻』には藤原不比等の五首のうち二首が吉野の歌である。
藤原 不比等(659-720)は、持統天皇に仕え、大宝律令や日本書紀の編纂に関わり、元明天皇の擁立に貢献した。
天武朝の後期に入ると、不比等は従兄弟の中臣大嶋とともに草壁皇子に仕えたとみられているが、『日本書紀』に不比等の名前が出るのは持統天皇3年(689年)2月26日(己酉)に判事に任命されたのが初出で、持統天皇所生である草壁皇子に仕えていた縁と法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。
文武天皇元年(697年)には持統天皇の譲位により即位した、草壁皇子の息子・軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、更に大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場する。
また、阿閇皇女(元明天皇)付き女官で持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている橘三千代の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇の即位直後には娘の藤原宮子が天皇の夫人となる。
①五言。遊吉野。藤原史(詩番31)
飛文山水地。飛文は山水の地にあり、
命爵薜蘿中。爵を命ず薜蘿の中。
漆姫控鶴挙。漆姫鶴を控(ひ)きて挙がり、
柘媛接莫通。柘媛接して通ずること莫し。
煙光巌上翠。煙光巌の上に翠して、
日影波前紅。日影(にちえい)波の前に紅なり。
飜知玄圃近。飜りて玄圃の近きを知り、
対翫入松風。対いて松に入る風を翫ぶ。
【飛文】ひぶん:すぐれた文章。
しゃく【爵】: (「爵」はスズメの意) スズメをかたどった、青銅や木製の三本足の酒器。
へい‐ら【薜蘿】:柾(まさき)の葛(かずら)と、蔦葛(つたかずら)。ふじかずら。
漆姫(しっき):神仙の女神
柘媛(つみひめ):神仙の女神
煙光(えんこう):靄
げん‐ぽ【玄圃】:中国の伝説で、崑崙 (こんろん) 山の上にあるという仙人の住む所。
②五言。遊吉野。藤原史(詩番32)
夏身夏色古。夏身は夏色に古るび
秌津秋氣新。秌津は秋氣を新たにす
昔者同汾后。昔者汾后に同じく
今之見吉賓。今之吉賓を見る
霊仙駕鶴去。霊仙鶴を駕して去り
星客乗査逡。星客査に乗りて逡る
渚性臨流水。渚性流水に臨み
素心開静仁。素心静仁に開く
夏身(なつみ):吉野町菜摘は、吉野の離宮:宮滝の上流、万葉の昔から山紫水明の地。
秌津:秋津「《古くは「あきづ」》トンボの別名」
汾后(ふんこう):天下のことを忘れたという 「汾水の遊び」の故事
査:楂[音]サ[訓]いかだ
『万葉集』にもその【なつみ】の歌があり、官吏大和長岡(やまとの-ながおか)(689-769)と同一人として載せておく。
09 1736 式部大倭(しきぶの-やまと)芳野作歌一首
09 1736 山高見(やまだかみ)白木綿花尓(しらゆふばなに)落多藝津(おちたぎつ)夏身之川門(なつみのかはと)雖見不飽香聞(みれどあかずも)
09 1737 兵部川原歌一首
09 1737 大瀧乎(おほたぎを)過而夏箕尓(すぎてなつみに)傍為而(ちかくして)浄川瀬(きよきかはせを)見何明沙(みるがさやけさ)
吉野と言えば、修験道の発祥の地とされているけれど、飛鳥時代以前、都が営まれた奈良盆地は、盆地性気候であるが故に降雨が少なく、大河もない、農耕民族にとっては厳しい環境の土地柄でした。
ところが、その盆地の南側に東西に横たわる龍門山塊と呼ばれる低い山並みを越えると、そこには大河(吉野川)が滔々と流れ、さらにその南には、水の源たる大峯の山々が重畳と広がっています。
この風景、つまり吉野を見た古代の人々は、なんとも水の豊かな土地であることよと感じ入り、吉野を神さぶる地と考えたとあるが、持統がそのような修験をすることはないのだ。
01 0040 幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌
01 0040 嗚呼見乃浦尓(あまのほに)船乗為良武(ふなのりすらむ)嫺嬬等之(かじとりし) 珠裳乃須十二(たまものすそに)四寳三都良武香(しほみつらむか)
01 0041 釼著(けんをつけ)手節乃埼二(たふしのさきに)今日毛可母(けふもかも)大宮人之(おほみやひとの)玉藻苅良武 (たまもかるらむ)
01 0042 潮左為二(しほさゐじ)五十等兒乃嶋邊(いらこのしまへ)榜船荷(こぐふねに)妹乗良六鹿(いものるらむか)荒嶋廻乎(すさぶしまかな)
01 0043 當麻真人麻呂妻作歌
01 0043 吾勢枯波(わがせこは)何所行良武(いづくゆくらむ)己津物(いざしるも)隠乃山乎(なばりのやまを)今日香越等六(けふにこゆらむ)
01 0044 石上大臣従駕作歌
01 0044 吾妹子乎(わぎもこを)去来見乃山乎(いざみのやまを)高三香裳(たかみかも)日本能不所見(やまとよふとみ)國遠見可聞(くにとくにとみるべき)
01 0044 右日本紀曰
【朱鳥六年壬辰(辛卯の誤)春、(當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣)】 「二月十一日、諸官に詔(みことのり)して、”三月三日に伊勢に行こうと思う。これに備えて、必要ないろいろの衣服を準備するように”と言われた」
【三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官 】「三月三日、浄広肆広瀬王(じょうこうしひろせのおおきみ)、直広参当麻真人智徳(じきこうさんたぎまのまひとちとこ)、直広肆紀朝臣弓張(じきこうしきのあそんゆみはり)らを、行幸中の留守官に任ぜられた」
【於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰 農作之前車駕未可以動】 「二月十九日、中納言直大貳(ちゅうなごんじきだいに)である三輪朝臣高市麻呂(みわのあそんたけちまろ)が、上奏して直言し、”天皇の伊勢行幸が、農時の妨げになる”ことを諫め申した」
【辛未天皇不従諌 遂幸伊勢 】「三月六日、天皇は諫めに従われず、ついに伊勢に行幸された」
二十日、天皇の車駕(しゃが)は浄御原宮(きよみはらのみや)に帰られたのだが、その間の調役を免除し、賜りものなどを施している。
【五月乙丑朔庚午御阿胡行宮 】「五月六日、阿胡行宮(あごのかりみや:志摩国英虞郡)にお出でになった」
このとき、海産物の魚介を奉った紀伊国牟婁郡(きのくにのむろこのこおり)の阿古志海部河瀬麻呂(あこしのあまのかわせまろら)、兄弟三戸に、十年間の調役、種々の徭役(ようえき)を免除された。
「十二日、吉野宮にお出でになり、十六日、お帰りになった」とあるけれど、この行動がよくわからない。
ここに挿入された吉野と伊勢において、とりわけ持統にあって何が込められていたのであろう思う時、ふとドナルド・キーンの一節を思い出した。
「現世中心の神道に、この世での助けを求め、来世を説く仏教に、死後の救済を頼んだ」 とあるけれど、確かに伊勢は神道かもしれないが、吉野と言えば修験道が浮かんでくる。
修験道(しゅげんどう)とは、古代日本において山岳信仰に仏教(密教)や道教(九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態なのだが、山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする。
その開祖である役 小角(えんの おづぬ 、舒明天皇6年〈634年〉伝 - 大宝元年6月7日〈701年7月16日〉伝)は、飛鳥時代の呪術者である。 文武天皇3年5月24日(ユリウス暦699年6月26日)に、人々を言葉で惑わしていると讒言されて伊豆島に流罪となる。
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原(ちはら)に帰るが、同年6月7日に、大阪府箕面市にある箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳(標高499m地図)にて入寂したと伝わっているが、持統の吉野行幸は、ひょっとしたら、この役行者への信仰だったかもしれない。