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万葉集Ⅰ(1-53)⑥藤原宮余事(天武・持統)

調氏(調忌寸)は、持統天皇3年(689年)志貴皇子・佐味宿那麻呂・羽田斉(はたのむごえ)・伊余部馬養(『浦島太郎』の作者)・大伴手拍(たうち:?-713)・巨勢多益須(663-710)らと共に『善言』という書物を編集するための官職である撰善言司に任じられる。

その目的は、南朝宋の范泰の『古今善言』30巻にならい、皇族や貴族の修養に役立てつ教訓的な史書を作ろうとしたものである。

皇太子である軽皇子(のちの文武天皇)の教育には必要不可欠なものであり、 雄略天皇5年2月条(推定461年)にある葛城山の狩猟時のエピソード(皇后の諫言)や、天智天皇8年10月10日条(670年)の藤原内大臣の遺言のような「善言」の説話を収録する予定であったとされている。

しかし、結局、書物は完成せず、撰善言司は解散となり、草稿は『日本書紀』編纂の際に活用されたとも言われる。

 

01 0045 軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌

01 0045 八隅知之(やすみしし)吾大王(わごおほきみの)高照(たかてらす)日之皇子(ひなみしのみこ)神長柄(かむながら)神佐備世須等(かむさびせしと)太敷為(ふとしかす)京乎置而(みやこをおきて)隠口乃(こもりくの)泊瀬山者(はつせのやまは)真木立(まきのたつ)荒山道乎(あらきやまぢを)石根(いはがねの)禁樹押靡(さへきおしなべ)坂鳥乃(さかとりの)朝越座而(あさこえまして)玉限(たまかぎる)夕去来者(ゆふさりくれば)三雪落(みゆきおつ)阿騎乃大野尓(あきのおほのに)旗須為寸(はたすすき)四能乎押靡(しのをおしなべ)草枕(くさまくら)多日夜取世須(たびやどりせし)古昔念而(こせきおもひて)

 

01 0046 短歌

01 0046 阿騎乃野尓(あきののに)宿旅人(やどるたびびと)打靡(うちなびく)寐毛宿良目八方(みもしりめやも)古部念尓(ふるべおもひに)

 

01 0047 真草苅(まくさかる)荒野者雖有(あれのもあれど)葉(もみぢばの)過去君之(すぎゆくきみの)形見跡曽来師 (かたみとぞきし)

 

01 0048 東(ひむがしの)野炎(のにはほのおの)立所見而(たちどみし)反見為者(かへりみすれば)月西渡(つきはにしへと)

 

01 0049 日雙斯(ひなみしの)皇子命乃(みこのみことの)馬副而(うまそひし)御獵立師斯(みかりたたしし)時者来向 (ときもきむかふ)

『万葉集』では、日並皇子(ひなみしのみこ)と記されているのが、草壁皇子(くさかべのみこ:662-689)であり、天武天皇と皇后鸕野讚良皇女(後の持統天皇)の皇子である。

妃は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹である、阿閇皇女(後の元明天皇)なのだが、元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父でもある。

 

皇后の実子であることから後継者と目され、天武天皇8年(679年)、同世代の男性皇族が呼び集められた吉野の盟約にて、事実上の後継者となる。

朱鳥元年(686年)7月、重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任される中、9月、天武天皇が崩御。

事実上皇位を継承した草壁皇子だが、直ちに即位はしなかったのは、天皇崩御の直後の10月、草壁皇子に次ぐ皇位継承権者とみなされていた、大津皇子が謀反の罪で処刑されており、これに対する宮廷内の反感が、皇子の即位の障害となったと思われるが、持統天皇3年(689年)4月13日に、皇子は皇位に就くことなく早世(27歳)した。

持統天皇6年(692年)に、僧侶として新羅に留学して学問を修めていた山田 三方(やまだ の みかた)は、還俗して務広肆に叙せられ、園臣生羽(そののおみいくは)の女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、妹の病に臥して作る歌三首。

 

02 0123 多氣婆奴礼(たけばぬれ)多香根者長寸(たかねばながき)妹之髪(いもがかみ)比来不見尓(このころみぬに)掻入津良武香(かきいづらむか)   三方沙弥(山田)

02 0124 人皆者(ひとみなも)今波長跡(いまはながしと)多計登雖言(たけといい)君之見師髪(きみがみしかみ)乱有等母(みだれあるとは)       娘子

02 0125 橘之(たちばなの)蔭履路乃(かげふむみちの)八衢尓(やちまたに)物乎曽念(ものをぞおもふ)妹尓不相而(いもにあはずに)          三方沙弥  

 

文武朝末の慶雲4年(707年)には、学問に優れていることを賞され、後には首皇子(聖武天皇:701-756)の教育係にもなる。 

01 0050 藤原宮之役民作歌

01 0050 八隅知之(やすみしし)吾大王(わがおほきみの)高照(たかてらす)日乃皇子(ひなしみのみこ)荒妙乃(あらたへの)藤原(ふぢはらのみや)我宇倍尓(わがうゑじ)食國乎(はべらすくにや)賣之賜牟登(めしたむと)都宮者(すべてのみやは)高所(たかどころ)知武等(しらさむものと)神長柄(かむながら)所念奈戸二(おもほすなへに)天地毛(あめつちも)縁而有許曽(よりてあるこそ)磐走(いはばしる)淡海乃國之(あはみのくにの)衣手能(ころもての)田上山之(たなかみやまの)真木佐苦(まきさくの)桧乃嬬手乎(ひのつまでをば)物乃布能(もののふの)八十氏河尓(やそうぢがわに)玉藻成 (たまもなす)浮倍流礼(うかべながせれ)其乎取登(そをとると)散和久御民毛(さわぐみたみも)家忘(いへわすれ)身毛多奈不知(みもたなしらず)鴨自物(かもじもの)水尓浮居而(みずにうきいて)吾作(わがつくる)日之御門尓(ひのおんかどに)不知國(しらぬくに)依巨勢道従(よりこせみちゆ)我國者(わがくにも)常世尓成牟(とこよにならむ)圖負留(ずをおへる)神龜毛(くすしきかめも)新代登(あらたよと)泉乃河尓(いずみのかわに)持越流(もちこせる)真木乃都麻手乎(まきのつまてを)百不足(ももたらず)五十日太尓作(いかだにつくり)泝須良牟(そしらむと)伊蘇波久見者(いそはくみれば)神随尓有之 (かむまにありし)                                01 0050 右日本紀曰 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮

 

01 0051 従明日香宮遷居藤原宮乃後志貴皇子御作歌

01 0051 婇女乃(うねのめの)袖吹反(そでふきかえす)明日香風(あすかかぜ)京都乎遠見(みやこをとおみ)無用尓布久 (なきようにふく)

 

01 0052 藤原宮御井歌 01 0052

八隅知之(やすみしし)和期大王(わごおほきみの)高照(たかてらす)日之皇子(ひなめしのみこ)麁妙乃(あらたへの)藤井我原尓(ふぢゐがはらに)大御門(おほみかど)始賜而(はじめたまひて)埴安乃(はにやすの)堤上尓(つつみのうへに)在立之(ありたたし)見之賜者(みせしたまふも )日本乃(ひのもとの)青香具山者(あをかぐやまも)日経乃(ひのたての)大御門尓(おほのみかどに)春山跡(はるやまと)之美佐備立有(しみさびたてり)畝火乃(うねりびの)此美豆山者(このみづやまも)日緯能(ひのよこの)大御門尓(おほのみかどに)弥豆山跡(みづやまと)山佐備伊座(やまさびいます)耳為之(みみなしの)青菅山者(あをすがやまは)背友乃(そつともの)大御門尓(おほのみかどに)宜名倍(よろしなへ)神佐備立有(かむさびたてり)名細(なぐはしき)吉野乃山者(よしののやまも)影友乃(かげつもの)大御門従(おほのみかどゆ)雲居尓曽(くもゐにぞ)遠久有家留(とほくありける)高知也(たかしるや)天之御蔭(あまのみかげぞ)天知也(あめしるや)日之御影乃(ひのおんかげの)水許曽婆(みずこそは)常尓有米(つねにあらしめ)御井之清水(みゐのましみず)

 

01 0053 短歌

01 0053 藤原之(ふぢはらの)大宮都加倍(おほみやつかへ)安礼衝哉(あれつきや)處女之友者(をとめのともも)乏吉呂賀聞 (ともしきろかも)

01 0053 右歌作者未詳

「藤原宮之役民」は、藤原宮建設のために徴用された作業員のことで、建材を運ぶのに携わり、そのことをモチーフにして歌を作っている。

近江国の田上山から宇治川、木津川を水路で、そこからは陸路、奈良山を越えて奈良盆地を南下して今日の橿原市に位置する藤原宮まで運んだ。

時は藤原宮遷都(持統八年(694)十二月)以前、建設途上時のことであるが、書紀の記事で明らかなのは持統四年(690)十月に高市皇子が藤原の宮地を巡視したのが最初の記事である。

とはいえ、690~694年頃に、特異な模様をした亀が見つかったとする記事【圖負留(ずをおへる)神龜毛(くすしきかめも)】は見られない。

藤原宮(ふじわらのみや)は、古代の日本で大和の藤原の地(現在の奈良県橿原市)に営まれた宮殿である。

5世紀のもの(允恭天皇7年:418年)と、7-8世紀(694年から710年まで)のものの2つがある。

二度目が、持統天皇が造った藤原京の宮殿であり、持統天皇4年10月29日(690年12月5日)に太政大臣の高市皇子が宮の場所を視察し、同8年12月6日(694年12月27日)に天皇が遷ったわけだが、『日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ)などの名で表記されている。

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、その皇后でもあった後継の持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷し藤原京は成立し、以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。

藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 - 5万人と見られている。

その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓であり、自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった。

柿本 人麻呂(かきのもと の ひとまろ:660年頃 -724年)は、『万葉集』に、人麻呂作歌七十二首、および柿本朝臣人麻呂歌集を出典とする歌二十八首、計百首を載せているのだ。

人麻呂作歌 72首の内訳は、羇旅歌 11首・相聞 10首・雑歌 20首・挽歌 31首なのだが、ここに込められた人麻呂の軌跡をたどってみたいものである。

そのうちの【挽歌31首】の内訳をみると、11人に及び、その年代がわからないものもあるのだが、不思議なことは、一般に天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられており、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられている人麻呂に、天武は別にしても持統の挽歌がないことである。

さらに言えば、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌も詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もあるのだ。

とはいえ、日並(草壁)皇子(662-689)【万Ⅱ-167~170】・河嶋皇子(657-691)【万Ⅱ-194-195】・高市皇子(654-696)【万Ⅱ-199~202】・明日香皇女(?-700)【万Ⅱ-196~198】・泣血哀慟の妻(生没年不詳)【万Ⅱ-207-212・216】・吉備津釆女(生没年不詳)【万Ⅱ-217-219】・讃岐の狭岑(生没年不詳)【万Ⅱ-220~222】・香具山の屍(生没年不明)【万Ⅲ-426】・土形娘子(生没年不明)【万Ⅲ-428】・出雲娘子(生没年不詳)【万Ⅲ-429・430】・石見の臨死【万Ⅱ-223】の何人かをピックアップして考察してみよう。

その前に、天武十五年(686)九月九日、天武天皇崩御した時に、持統天皇が詠んだという歌【万159】がある。

更に、一書に曰く、天皇の崩かむあがりませる時、太上天皇の御製つくりたまふ歌二首【万160・161】があるという。 その八年後、故天皇のために内裏で御斎会(金光明最勝王経を講説する法会)を行った夜、持統天皇が夢のうちに習い覚えたという歌【万162】があるが、これらすべてが、持統天皇の歌とは思えないのである。

02 0159 天皇崩之時大后御作歌一首

02 0159 八隅知之(やすみしし)我大王之(わがおほきみの)暮去者(くれゆくも)召賜良之(めしたまふらし)明来者(あけくるも)問賜良志(とひたまふらし)神岳乃(かむをかの)山之黄葉乎(やまのもみぢを)今日毛鴨(けふもかも)問給麻思(とひたまはまし)明日毛鴨(あすもかも)召賜萬旨(めしたまはまし)其山乎(そのやまを)振放見乍(ふりさけみなば)暮去者(くれゆくも)綾哀(あやにかなしみ)明来者(あけくるも)裏佐備晩(うらさびかなし)荒妙乃(あらたへの)衣之袖者(ころものそでも)乾時文無(ほすときもなし)  

 

02 0160 一書曰 天皇崩之時太上天皇御製歌二首

02 0160 燃火物(もゆるほも)取而褁而(とりてつつみて)福路庭(ふくろには)入澄不言八(いれどいはずや)面智男雲(つらさになくも)

    

02 0161 向南山(むなしさに)陳雲之(つらなるくもの)青雲之(あをくもの)星離去(ほしならびゆく)月矣離而 (つきいならびて)

 

天武天皇崩時の挽歌三首を持統だとしているけれど、私案ではあるが、【万159】は人麻呂の挽歌であり、【万160・161】は額田の挽歌だと思う。

ただし、【万162】については、天武崩後八年も経っているが、持統八年(694)九月九日、故天皇のために内裏で御斎会(金光明最勝王経を講説する法会)を行った夜、持統天皇が夢のうちに習い覚えたという歌であろうとも、これは立派な挽歌であると思う。 

 

02 0162 天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 古歌集中出

02 0162 明日香能(あすかよき)清御原乃(きよみがはらの)宮尓(みやなりき)天下(あまがくだると)所知食之(しらしめゆ)八隅知之(やすみにしれし)吾大王(わがおほの)高照日之皇子(たらしひのみこ)何方尓(かくしとこ)所念食可(おもひはべらし)神風乃(かむかぜの)伊勢能國者(いせのくににも)奥津藻毛(おくつもも)靡足波尓(なびたるなみに)塩氣能味(しほけのみ)香乎礼流國尓(かをれるくにき)味凝(あぢこごる)文尓乏寸(あやにともしき)高照日之御子(たかしひのみこ)   

編年で綴られるなら、人麻呂の歌はこれから先も出てこようが、人麻呂の時代は終えることになることになる。

しかし、天武と同じように持統の挽歌がないのは腑に落ちないというべきで、万葉集歌の中にあるとしたら、その第一候補は、挽歌31首の中にあるはずであり、もちろん対象は女性に限ると思うが・・・。