万葉集Ⅱ 元明天皇
『万葉集』では、持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記されており、元明天皇の在位期を現在としているというが、これは元明以後の編集者たちが引き起こした混乱であろう。
なお、『万葉集』Ⅱ期において、元明天皇(661-721)や太安万侶(683?-723)が関与したことが推測されており、平城京遷都(710年)までの期間とされているが、皇極・額田から引き継いだ、持統・人麻呂・元明なのだが、ここは長屋王(中途)も加わり、元正の時代まで続くことになる。
その期間の代表は、柿本人麻呂(660-724)・高市黒人(生没年不詳)・長意貴麻呂(ながのおきまろ:生没年不詳)ではあるが、せんぞ言いつくした感のある人麻呂も、もう一度出てくるかもしれない。
ほかには歌人として、大伯皇女(661-702)も上げることができるが、注目すべきは、志貴皇子(668-716)ではないだろうか?
というのも、天智天皇第7皇子で、位階は二品であるが、皇位とは無縁で文化人としての人生を送っているからだ。
大宝4年(704年)長屋王は無位から正四位上に直叙され、通常の二世王の蔭位は従四位下であるが、三階も高い叙位を受けていることから、天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたことがわかる。
ともに父親を亡くしていたこの姉弟妹(きょうだい)と、一緒に育てられたのが長屋王であり、いち早く長屋と氷高は心を通わせていたと思われる。
いつも阿閇(元明天皇)・御名部(姉)の親の間にゐて、氷高と吉備内の姉妹と長屋王は、その間、プロジェクト『万葉集』を整理しながら「相聞」を詠みあげていたかもしれない。
そのことが問題になったように思うのだが、701年までには吉備内が長屋王の妃として迎えられ、ようやく28歳になって官位を得ることになったというわけなのだ。
ようやく落ち着いてきたかもしれない氷高(27)であったが、25歳の若さで文武は崩御(707年7月18日)し、あとに残された首皇子(のちの聖武天皇)は数えで7つと幼かったことから、天皇の生母・阿閇皇女(天智天皇皇女)が皇位を預かる形で即位した(元明天皇)。
これにより『万葉集』は、御名部・長屋王・氷高・吉備内が中心となり、『古事記』を献上した(712)太安万侶(?-723)が編纂に加わり、徐々に長屋王のサロンの人々も漢詩の宴が主であったが、万葉歌人もおり、協力したように思う。
元明朝においても国制改革はさらに加速し、和銅元年(708年)には、初の流通貨幣である和同開珎の発行、および長安の造形に倣った本格的都城となる平城京遷都の詔が発せられた(平城京は長安と同じく大極殿を北端に置くのだが、実際の遷都は2年後の和銅3年)。
辺境の国土(越後国・出羽国)確定も積極的に行われ、この間も律令の不具合を修正する格式や律令本体の改訂作業は、藤原不比等らを中心に続けられており、後の養老律令制定につながることになり、まさにスーパークイーンである。
初めて皇后を経ないで即位した元明天皇であったが、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする。
和銅3年3月10日(710年4月13日)、藤原京から平城京に遷都し、左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。
01 0076 和銅元年(708年)戊申 天皇御製
01 0076 大夫之(ますらをの)鞆乃音為奈利(とものねすなり)物部乃(もののべの)大臣(おほまえつきみ)楯立良思母 (たてたつらしも)
01 0077 御名部皇女奉和御歌
01 0077 吾大王(あおほきみ)物莫御念(ものなおもはし)須賣神乃(すめかみの)嗣而賜流(つぎてたまへる)吾莫勿久尓(われならなくに)
とても皮肉っぽく聞こえる【万76】に、慰めているような【万77】の感じがよくて、仲のよい姉妹が窺えるってもんだ。
というのも、御名部皇女(みなべのひめみこ)は、天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)、元明天皇の同母姉であり、高市皇子の正妃となり、長屋王を生んでいる。
01 0078 和銅三年庚戌春二月従藤原宮遷于寧樂宮時御輿停長屋原廻望古郷作歌 一書云太上天皇御製
01 0078 飛鳥(とぶとりの)明日香能里乎(あすかのさとを)置而伊奈婆(おきていきなば)君之當者(きみのあたりも)不所見香聞安良武(ふとみかきやむ)一云 君之當乎(きみがあたりを)不見而香毛安良牟(ふみしかもやむ)
『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに)・ 而も(しかも)・ 而して(しかして)の9種の読み方が存在する。
ふ・む 【踏む】:踏み歩く。 歩く。
しか-も 【然も】:そのようにも。
や・む 【止む】:とりやめとなる。
この万葉仮名の一部に人麻呂を感じたけれども、次の歌の題辞【或本従藤原京遷于寧樂宮時歌】とあり、これが人麻呂の歌だと確信した。
01 0079 天皇乃(おほきみの)御命畏美(みことかしこみ)柔備尓之(にきびにし)家乎擇(いへをえらびし)隠國乃(こもりくの)泊瀬乃川尓(はつせのかはに)舼浮而(きょううかし)吾行河乃(わがいくかはの)川隈之(かはくまの)八十阿不落(やそくまおちず)万段(よろずたび)顧為乍(かへりみしつつ)玉桙乃(たまほこの)道行晩(みちゆきくらし)青丹吉(あをによし)楢乃京師乃(ならのみやこの)佐保川尓(さほがはに)伊去至而(いゆきいたりて)我宿有(わがやある)衣乃上従(ころものうへゆ)朝月夜(あさづくよ)清尓見者(さやかにみへし)栲乃穂尓(たへのほに)夜之霜落(よるのしもおち)磐床等(いはとこと)川之水凝(かはのみずこり)冷夜乎(ひえしよを)息言無久(やすむことなく)通乍(かよいつつ)作家尓(つくれるいへに)千代二手尓(ちよまでに)座多公与(いざおほきみよ)吾毛通武(あれもかよはむ)
01 0080 反歌
01 0080 青丹吉(あをによし)寧樂乃家尓者(ならのいえにも)万代尓(よろずよに)吾母将通(あれはかよはむ)忘跡念勿(もふとおもなし)
01 0080 右歌作主未詳
和銅5年(712年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出し、同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』(太安万侶)を献上させた。
01 0081 和銅五年壬子夏四月遣長田王于伊勢齋宮時山邊御井作歌
01 0081 山邊乃(やまのべの)御井乎見我弖利(みゐをみがてり)神風乃(かむかぜの)伊勢處女等(いせのをとめら)相見鶴鴨(あひみつるかも)
01 0082 浦佐夫流(うらさぶる)情佐麻祢之(こころさまねし)久堅乃(ひさかたの)天之四具礼能(あめのしぐれの)流相見者(ながらふみるも)
01 0083 海底(うみぞこの)奥津白波(おきつしらなみ)立田山(たつたやま)何時鹿越奈武(いつかこえなも)妹之當見武(いもしあひみむ)
01 0083 右二首今案不似御井所作 若疑當時誦之古歌歟
01 0084 寧樂宮
01 0084 長皇子與志貴皇子於佐紀宮倶宴歌
01 0084 秋去者(あきゆきし)今毛見如(いまもみるごと)妻戀尓(つまごひに)鹿将鳴山曽(かなかむやまぞ)高野原之宇倍(このはらがうべ)
01 0084 右一首長皇子
02 0143 長忌寸(いみき)意吉麻呂見結松哀咽歌二首
02 0143 磐代乃(いはしろの)崖之松枝(がけのかつがえ)将結(むすびけむ)人者反而(ひともかへりて)復将見鴨(またみけむかも)
02 0144 磐代之(いはしろの)野中尓立有(のなかにたてる)結松(むすびまつ)情毛不解(こころもとけず)古所念(ふるきとおもふ) 未詳
【故地名】磐代の岸 【故地名読み】いわしろのきし
【現在地名】和歌山県日高郡みなべ町
【故地説明】岩代の台地の海蝕崖。
【地名】岩代の岸
【現在地名】和歌山県日高郡みなべ町西岩代および東岩代の地の岸
03 0238 長忌寸意吉麻呂應 詔歌一首
03 0238 大宮之(おほみやの)内二手所聞(うちにてきこゆ)網引為跡(あびきすと)網子調流(あごととのふる)海人之呼聲 (あまのよびこゑ)
03 0238 右一首
03 0265 長忌寸奥麻呂歌一首
03 0265 苦毛(くるしくも)零来雨可(ふりくるあめか)神之埼(みわのさき)狭野乃渡尓(さののわたりに)家裳不有國(やもあらずくに)
【故地名】狭野の渡り
【故地名読み】さののわたり
【現在地名】和歌山県新宮市
【故地説明】和歌山県新宮市佐野(三輪崎の南西に続き、佐野湾に臨む海浜地)の南部、木ノ川の渡し場。一説に大阪府泉佐野市。
【故地名】神の崎
【故地名読み】みわのさき
【現在地名】和歌山県新宮市
【故地説明】和歌山県新宮市三輪崎。一説にカミノサキと訓んで、大阪府貝塚市神崎。
【地名】三輪の崎狭野の渡り
【現在地名】和歌山新宮市三輪崎町・佐野町の近辺一帯
09 1673 風莫乃(かざなしの)濱之白浪(はまのしらなみ)徒(いたづらに)於斯依久流(おこによせくる)見人無(みるひとなしに)一云於斯依来藻 (おこによせくも)
『於』の字には少なくとも、於(ヨ)・ 於(オ)・ 於(ウ)・ 於ける(おける)・ 於いて(おいて)の5種の読み方が存在する。
『斯』の字には少なくとも、斯(ソ)・ 斯(シ)・ 斯(これ)・ 斯の(この)・ 斯く(かく)・ 斯かる(かかる)の6種の読み方が存在する。
於(オ)+斯(これ)=(おこ)
おこ〔をこ〕:【痴/烏滸/尾籠】 [名・形動]愚かなこと。 ばかげていること。
09 1673 右一首山上臣憶良類聚歌林曰 長忌寸意吉麻呂應詔作此歌
【故地名】風莫の浜
【故地名読み】かぜなしのはま
【現在地名】和歌山県西牟婁郡白浜町
【故地説明】所在未詳。和歌山県西牟婁郡白浜町の綱不知か。
おそらく、この『万葉集』の編纂に向けて、和銅6年(713年)に詔勅(しょうちょく)した『風土記』へと関わっていくのだろう。