万葉集Ⅱ 文武天皇
697年2月に、軽皇子(15)は皇太子になり、8月1日には、持統天皇が譲位して、文武天皇になった。
日本史上、存命中の天皇が譲位したのは、皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
03 0298 弁基歌一首
03 0298 亦打山(まつちやま)暮越行而(くれこえゆきて)廬前乃(いほさきの)角太河原尓(すだのかはらに)獨可毛将宿(ひとりかもねむ)
03 0298 右或云 弁基者春日蔵首老之法師名也
当初は出家し僧名は弁基と称していたが、大宝元年(701年)に還俗し、春日倉首の氏姓と、老の名を与えられ、追大壱に叙せられ、後にも登場するのでここに記しておく。
というのも、697年2月に軽皇子を皇太子にし、8月に15歳の軽皇子に譲位(文武天皇)しているのだ。
おそらく、初の太上天皇(上皇)になった持統は、文武に人材を登用したように思うのであるが、 譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執り、文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行(701)であり、これにも持統の意思が関わっていたと考えられ、不比等とは別に、文武の補佐役が必要だったのであろう。
『万葉集』のプロジェクトも、持統に集まってきた歌謡ではあったが、そのほとんどを人麻呂が整理に当たったと思うが、その手助けをしたであろう二人の代表者がいる。
長 奥麻呂(なが の おきまろ、生没年不詳)は、 経歴については不明な部分が多いが渡来系として生まれた。
初めは官人として活躍していたらしいが、699年の文武天皇の難波行幸や701年(大宝元年)の文武および持統上皇の紀伊行幸に携わったとされている。
702年(大宝2年)頃には文武・持統の三河行幸にも携わったとされており、この時に詠んだ和歌や宴席にて題として与えられた即興の狂歌等14首からなる短歌が、『万葉集』に収録されているのだ。
なお、行幸の際に詠んだ和歌は6首残されており、姓は忌寸(いみき)、名は意吉麻呂・意寸麻呂とも書き、もう一人の歌人は、高市黒人であり、同じように宮廷に仕えた下級官吏であったらしい。
01 0057【 二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌】の「二年壬寅」は大宝2年(702) 壬寅の年であり、この「太上天皇」は譲位後の持統天皇の尊称である。
01 0057 引馬野尓(ひくまのに)仁保布榛原(にほふはりはら)入乱(いりみだれ)衣尓保波勢(ころもにほはせ)多鼻能知師尓(たびのしるしに)
01 0057 右一首長忌寸奥麻呂
01 0058 何所尓可(いづくにか)船泊為良武(ふなはてすらむ)安礼乃埼(あれのさき)榜多味行之(こぎたみゆきし)棚無小舟(たななしをぶね)
01 0058 右一首高市連黒人
この「参河(みかわ)國行幸」については、大宝2年10月10日(太陽暦の11月8日)に出発、尾張・美濃・伊勢・伊賀を経て、11月25日に帰京していることが『続日本紀』に記されている。
三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つなのだが、現在の愛知県東半部である。
また引馬野(ひくまの)は、「愛知県豊川市(とよかわし)御津(みと)町御馬(おんま)一帯」で、古代は三河国国府(こくふ)の外港、近世は三河五箇所湊(ごかしょみなと)の一つであり、音羽(おとわ)川河口の低湿地に位置し、引馬神社があるという。
また、あれ‐の‐さき【安礼崎】は、「愛知県南部、御津(みと)町の渥美湾に突き出ていた崎」だのだ。
さらに尾張国は、富裕な農業生産力や畿内への地理的な近さを背景にしており、朝廷を支える律令国として成長が著しかった。
美濃国もまた、702年(大宝2年)には、「始めて美濃国の岐蘇山道を開く」と続日本紀に記されており、これが岐蘇(木曽)の史料上の初見でもあるのだ。
伊勢国もまた、古代では、「神風の伊勢の国は常世(とこよ)の浪(なみ)の寄する国」とも、「傍国(かたくに)の可怜(うま)し国」ともよばれ、大和(やまと)朝廷の外辺に位置し、かつ東国への窓口としての位置を占めていた。
そして伊賀国なのだが、大和国との境界は大化改新の詔に「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来」(日本書紀)とあり、つまり、名墾の横河(なばりのよこかわ)以西は畿内であった。
01 0060 長皇子御歌
01 0060 暮相而(くれあひて)朝面無美(あしたもなきよ)隠尓加(なばりにか)氣長妹之(けながくいもの)廬利為里計武(いほりなりけむ)
持統天皇7年(693年)、長皇子は同母弟の弓削皇子とともに浄広弐(三品に相当)に叙せられる。
大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて二品となり、 その後文武朝(704)から元明朝(714)にかけて、それぞれ封戸200戸を与えられている。
01 0064 慶雲三年(706)丙午幸于難波宮時 志貴皇子御作歌
01 0064 葦邊行(あしへゆく)鴨之羽我比尓(かものはがひに)霜零而(しもふりて)寒暮夕(さむくくれゆく)倭之所念(やまとしおもゆ)
01 0065 長皇子御歌
01 0065 霰打(あられうつ)安良礼松原(あられまつばら)住吉乃(すみのえの)弟日娘与(おとなひのこよ)見礼常不飽香聞(みいつあかずも)
み-いつ 【御厳・御稜威】:神や天皇の強い御威光。
01 0066 太上天皇幸于難波宮時歌
01 0066 大伴乃(おほともの)高師能濱乃(たかしのはまの)松之根乎(まつがねを)枕宿杼(まくらやどれど)家之所偲由(いへししのはゆ)
01 0066 右一首置始東人
01 0067 旅尓之而(たびにして)物戀之伎尓(ものこひしきに)鶴之鳴毛(たづのなけ)不所聞有世者(ふときこゆよは)孤悲而死萬思(こひてしなまし)
01 0067 右一首高安大嶋
01 0068 大伴乃(おほともの)美津能濱尓有(みつのはまなる)忘貝(わすれがひ)家尓有妹乎(いへなるいもを)忘而念哉(ぼうじおもふや)
01 0068 右一首身人部王
01 0069 草枕(くさまくら)客去君跡(かくさるきみと)知麻世婆(しりませば)崖之埴布尓(きしのはにふに)仁寳播散麻思呼(にほはさましよ)
01 0069 右一首清江娘子進長皇子 姓氏未詳
01 0070 太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
01 0070 倭尓者(やまとにも)鳴而歟来良武(なきてかくらむ)呼兒鳥(よぶこどり)象乃中山(きさのなかやま)呼曽越奈流(よぶぞこえなる)
【0066 太上天皇幸于難波宮時歌】の太上天皇は、当時、皇太妃であった元明天皇だが、この【0070 太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌】の太上天皇は持統天皇である。
01 0071 大行天皇幸于難波宮時歌(706)
01 0071 倭戀(やまとこひ)寐之不所宿尓(ふとねしやどに)情無(こころなく)此渚埼未尓(このなぎさみに)多津鳴倍思哉(たづなくべしや)
01 0071 右一首忍坂部乙麻呂
また、この【大行天皇幸于難波宮時歌】の大行天皇も、皇太妃(元明天皇)のように思うのであるが、おそらく、ここでは『万葉集』の編年体が混乱したのかもしれず、人麻呂・元明帝の時代以後の編集のように思える。
それにしても、話は戻すことになるが、大宝2年(702年)の12月22日に崩じた(58歳)持統天皇だが、上皇として大宝元年(701年)に、しばらく絶っていた吉野行きを行い、 翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらったと言い、これを最後の行幸にしたとしたら、ある意味、”鉄の女”だったかもしれない。
01 0072 玉藻苅(たまもかる)奥敝波不榜(おきへはこがず)敷妙乃(しきたへの)枕乃邊人(まくらのへんに)忘可祢津藻(わすれかねつも)
01 0072 右一首式部卿藤原宇合
藤原 宇合(ふじわら の うまかい:694-737)は、霊亀2年(716年)遣唐副使に任ぜられ(遣唐押使は多治比縣守)、霊亀3年(717年)6月~7月頃に入唐し、10月に長安に到着する。
養老2年(718年)10月に遣唐使節一行は九州に帰着し、翌養老3年(719年)正月に復命を果たすのは、元正帝の時代になり、この歌がいつ詠われたかはわからない。
【補記】には、文武天皇の難波行幸は慶雲三年(706)で、宇合はこの時わずか十三歳であり、旅の宿であてがわれた女への慕情を初々しく詠んでいるというのだ。
01 0073 長皇子御歌
01 0073 吾妹子乎(わがいもこ)早見濱風(はやみはまかぜ)倭有(やまとある)吾松椿(われまつつばき)不吹有勿勤(ふふきあるなき)
01 0074 大行天皇幸于吉野宮時歌
01 0074 見吉野乃(みよしのの)山下風之(やましたかぜの)寒久尓(さむきひに)為當也今夜毛(いまやこよひも)我獨宿牟(あがひとりすむ)
01 0074 右一首或云 天皇御製歌
01 0075 宇治間山(うぢまやま)朝風寒之(あさかぜさむし)旅尓師手(たびにして)衣應借(ころもかるべき)妹毛有勿久尓(いもあらなくに)
01 0075 右一首長屋王
【大行天皇幸于吉野宮時歌】の大行天皇は持統であり、最後の吉野に付き合ったのが文武(18)と長屋王(25?)ということであろうか?
もし二十歳を過ぎていたなら、官位を受けていたと思うが、にょっとしたら、阿閇(あへ)皇女(元明)と共に、『万葉集』のプロジェクトに参加していたかもしれない。
とはいえ、慶雲4年6月15日(707年7月18日)、25歳の若さで文武天皇は崩御し、あとに残された首皇子(のちの聖武天皇)は数えで7つと幼かったことから、天皇の生母・阿閇皇女(天智天皇皇女)が皇位を預かる形で即位(元明天皇)したのである。
ここで、文武から元明へ移るにあたって、背景を説明しておく必要があるかもしれないので要約しておく。
大宝元年に、大宝令の編纂にも携わった粟田真人(あわたのまひと)が遣唐大使(執節使)に任命され、天智天皇8年(669年)以来実に32年ぶりとなる第8次遣唐使である。
天武天皇以来の改革で日本に本格的首都および律令体制が完成したこと、天皇号および「日本」の国号が成立したことを唐に対して宣言することなどを目的とする、非常に重要な使節であった。
しかし当時、唐王朝は武則天(則天武后)による簒奪で周王朝に代わっていたことを日本側が把握していなかったため、粟田真人らは現地で若干の混乱を生じた。
また、彼らが都・長安で見た実際の都城や律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであり、大きな衝撃を受けて慶雲元年に帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城や律令制の差異を報告し、文武朝の改革に生かされていくのだが、改革が進行中の慶雲4年6月、文武天皇は崩御してしまう。
つまり、慶雲が、大宝4年(704年)に藤原京において現れ改元されたのだが、その時代に 慶雲の改革が行われたのである。
飛鳥時代末期の慶雲3年(706年)以降、文武天皇統治下の朝廷において行われた律令体制改革をいい、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)にかけて連続的に発生した飢饉と税体系の不備により、貧窮する農民が続出したため、その救済策が求められていたのだ。