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万葉集Ⅳ 橘諸兄(天平10年)

天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王(20)が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。

この時、聖武天皇の第2皇子である安積親王(母は県犬養広刀自)は十歳であったが、後ろ盾になっていたであろう、県犬養 三千代(不比等の後妻:橘三千代)は、733年に亡くなっていた。

天下に大赦を行った。ただし謀議して殺人を行ったもの贋金づくり、強盗・窃盗は赦しの範囲に入れない。もし死罪に相当する者があれば、罪一等を減じ流罪とすると命じた。

六位以下の官人に位を一階宛てあげた。高齢者・窮乏者・孝義を行った人たちには、状況を量り、恵み物を加増して与えた。また祥瑞の馬を奉った人には、位階と物を賜り、祥瑞をだした郡にはその年の庸を免除した。

この日、大納言・従三位の橘宿祢諸兄に正三位を授け、右大臣に任じた。従三位の鈴鹿王に正三位を、正五位上の大伴宿祢牛養(うしかい)・高橋朝臣安麻呂・石上朝臣乙麻呂にはそれぞれ従四位下を授けた。

一上(いちのかみ)として一躍太政官の中心的存在となった諸兄にとって、当面の政治的課題は疫病で損なわれた国力の回復であったが、光明の異父兄であり、藤原不比等の娘を妻として藤原氏とも親和的な皇族の諸兄を首班に据えて、挙国一致の政治体制をとったのかもしれない。

 

これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備)・玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。

 

諸兄政権は、国力の回復のためにまず郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行うと同時に、東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止し、また諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した。

 

これらの兵士は当時軍事的緊張下にあった新羅に備えたものであったが、軍備を維持する余裕がなくなって新羅に対する強硬策は転換せざるを得なくなった。 

正月十七日 天皇は松林苑(平城宮に附属)に行幸し、文武官の主典(さかん)以上を召して宴を賜った。また地位に応じて禄を賜った。

06 1025 奥真経而(おくまへて)吾乎念流(われをおもへる)吾背子者(わがせこは)千年五百歳(ちとせいほとせ)有巨勢奴香聞(ありこせぬかも)

 

「おくまへて」 :心の底から。

こせ-ぬ-か-も:…してくれないかなあ。

 06 1025右大臣の歌

 

06 1026 百磯城乃(ももしきの)大宮人者(おほみやひとは)今日毛鴨(けふもかも)暇无跡(いとまをなみと)里尓不出将有(さとにでざらむ)

 

な‐み【無み】:《形容詞「なし」の語幹「な」+接尾語「み」》… ないので。 … なさに。

 06 1026 右一首右大臣傳云 故豊嶋采女歌[右の一首は、右大臣伝へて云はく「故豊島采女の歌なり」といへり]

 

06 1027 橘(たちばなの)本尓道履(もとにみちふむ)八衢尓(やちまたに)物乎曽念(ものをぞおもふ)人尓不所知(ひとにしらえず)

06 1027 右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也 但或本云三方沙弥戀妻苑臣作歌也 然則豊嶋采女當時當所口吟此歌歟[右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿語りて云はく「故豊島采女の作なり」といへり。 ただ或る本に云はく「三方沙弥の、妻の苑臣に恋ひて作れる歌なり」といへり。 然らばすなはち、豊島采女は、当時当所にこの歌を口吟へるか]

 

豊島采女 (としまの-うねめ)は、奈良時代の女官で、豊島郡出身の采女だというのだが、偽証であろう。

彼女こそ、橘三千代であり、【万1026】で安積王を歌い、【万1027】で諸兄に後のことを託しているように思える。

正月二十六日 従四位下の石上朝臣乙麻呂を左大弁(さだいべん)に任じ、中納言・従三位の多治比の真人広成を式部卿兼任とし、従四位下の巨勢朝臣奈弖麻呂を民部卿に任じた。

この月、太宰府から新羅使の級飡(きゅうさん:第九位)金想純ら百四十七人が、来朝したと奏上してきた。

夏四月十七日 次のように詔した。

国家を平穏で栄えさせるために、京と畿内と七道の諸国に、三日間金光明最勝王経を転読させた。 その内容は、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。

四月二十二日 従五位下の佐伯宿祢浄麻呂(きよまろ)を左衛士督(さえじのかみ)に任じ、従五位下の藤原朝臣広嗣を式部少輔のままで、大養徳守(やまとのかみ)に任じ、従五位下の百済王(くだらのこにきし)孝忠を遠江(とおとうみ)守に任じ、外従五位下の佐伯宿祢常人を丹波守に任じた。

五月二十四日 右大臣・正三位の橘宿祢諸兄らを派遣し、神宝を持参して伊勢大神宮に奉らせた。

六月二十四日、太宰府の使者を遣わして、新羅使金想純らを饗応し、そのまま帰郷させた。

秋七月七日、天皇は大蔵省に出御して、相撲を御覧になり、夕方になって(七夕の日なので)、西の池の宮においでになり、御殿の前の木を指して、右衛士督の下道朝臣真備(吉備真備)や、もろもろの才子に次のように詔された。

人は皆それぞれの心を持ち、好む所は同じではない。朕は去年の春からこの樹を観察したいと思ったが、まだできなかった。それは花や葉があわただしく散ったためで、心中残念に思った。そこで皆は各々の春の心を詩に謳って、この梅の樹を詠むように。

文学に心がけのある三十人が、詔を受けて詩を作った。

日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わった[1]。 日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠(きっこうでん)などが奈良時代以来行われていた。

ところが天皇は、春の心を謳って、梅の樹を詠むように言うのだが、これは歌を指すのであろうか?それとも韻のある詩賦だろうか?

万葉集では、『梅』は119首詠まれているけれど、雪といっしょに詠んだ歌が目立ち、それらの梅はすべて白梅と考えられ、また、鶯(うぐいす)が登場する歌も多いんよ。

なお内訳は、3巻(0235-0483)5首・4巻(0484-0792)3首・5巻(0793-0906)32首+5首・6巻(0907-1067)2首・8巻(1418-1663)22首・10巻(1812-2350)30首・17巻(3890-4031)6首・18巻(4032-4138)2首・19巻(4139-4292)8首・20巻(4293-4516)4首である。

例の『梅花謌卅二首』は5巻にあり、その旅人の筑紫歌壇に匹敵する梅花の歌を聖武は旅人の息子家持に託したと思われ、その30首が10巻にあり、当然ながら真備の歌も含まれていると思われるが、名前が記されておらず認定できない。

ただ8巻の【08 1640 大宰帥大伴卿梅歌一首】があり、旅人の歌としているのだが、当時の聖武の心境に合わせても、この歌こそ、真備らしく思えるのだ。

 

08 1640 吾岳尓(わがをかに)盛開有(さかりありける)梅花(うめのはな)遺有雪乎(のこれるゆきを)乱鶴鴨(おさめつるかも)

 

盛開 (簡):満開になる

乱:[音]ラン(呉・漢)[慣] ロン(表外)[訓]みだ-れる、みだ-す(表内)みだ-る、おさ-める、わた-る、ら(表外)

まが・ふ 【紛ふ】:入りまじる。入り乱れる。入りまじって区別できない。  

17 3900 十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首[十年の七月七日の夜に、独り天漢を仰ぎて聊かに懐を述べたる一首]

17 3900 多奈波多之(たなばたし)船乗須良之(ふなのりすらし)麻蘇鏡(まそかがみ)吉欲伎月夜尓(きよきつくよに)雲起和多流(くもたちわたる)

17 3900 右一首大伴宿祢家持作

17 3901 追和大宰之時梅花新歌六首[追ひて大宰の時の梅花に和へたる新しき歌六首]

17 3901 民布由都藝(みふゆつぎ)芳流波吉多礼登(はるはきたれど)烏梅能芳奈(うめのはな)君尓之安良祢婆(きみしあらねば)遠久人毛奈之(をくひともなし)

17 3902 烏梅乃花(うめのはな)美夜万等之美尓(みやまとしみに)安里登母也(ありともや)此乃未君波(かくのみきみは)見礼登安可尓勢牟(みれどあきせむ)

 

可:[音]カ(呉・漢)[訓]ききい-れる、き-く、べ-き、よ-い(A)、ばか-り 『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。

可く(きく)+ 尓(キ)=(き)

 

17 3903 春雨尓(はるさめに)毛延之楊奈疑可(もえしやなぎか)烏梅乃花(うめのはな)登母尓於久礼奴(ともにおくれぬ)常乃物能香聞(つねのものかも)

17 3904 宇梅能花(うめのはな)伊都波乎良自等(いつはをらじと)伊登波祢登(いとはねど)佐吉乃盛波(さきのさかりは)乎思吉物奈利(をしきものなり)

17 3905 遊内乃(ゆうないの)多努之吉庭尓(たのしきにはに)梅柳(うめやなぎ)乎理加謝思底婆(をりかざしてば)意毛比奈美可毛(おもひなみかも)

17 3906 御苑布能(みそのふの)百木乃宇梅乃(ももきのうめの)落花之(ちるはなの)安米尓登妣安我里(あまにとひあり)雪等敷里家牟(ゆきとふりけむ)

 

『敷』の字には少なくとも、敷(フ)・ 敷く(しく)の2種の読み方が存在する。

17 3906 右十二年十二月九日大伴宿祢書持作

詔があったにもかかわらず、真備の詩歌がないのが気になるが、歌なら上記のどれかと思うが、おそらく漢詩のことだと思うが、あたかも【梅三十二首】を想起させる。

とはいえ、「文学に心がけのある三十人」の漢詩が、もし『万葉集』の「梅の歌」にないとしたら、おそらく正倉院に眠っているのであろう。

七月十日 従八位下の大伴宿祢子虫が、外従五位下の中臣宮処連東人を刀で以て斬り殺した。

子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る厚遇を受けていた。

たまたまこの時、東人と隣り合わせの寮の役に任じられていた。

政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。

東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である。      『続日本紀』

十二月四日 従五位下の宇治王を中務太輔に任じ、従四位下の橋朝臣安麻呂を太宰大弐に任じ、従五位下の藤原朝臣広嗣を太宰少弐に任じた。

というのも、朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に、大宰少弐に左遷されたと言われているが、広嗣が謗った親族とは伯母の皇太夫人・藤原宮子で、宮子と玄昉の関係の謗議を通じて、玄昉を除くことを進言したものと想定されている。

そのゴシップは、『元亨釈書』(1322)には、「藤室と通ず」(藤原氏の妻と関係を持った)とあり、これは藤原宮子のことと思われるが、 宮子との密通の話は『興福寺流記』『七大寺年表』(1165)『扶桑略記』などにもみえる。

あろうことか、『今昔物語集』『源平盛衰記』には、光明皇后と密通し、それを広嗣に見咎められたことが乱の遠因になったとしているのだ。

08 1456 藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子歌一首[藤原朝臣広嗣の桜の花を娘子に贈れる歌一首]

08 1456 此花乃(このはなの)一与能内尓(ひとよのうちに )百種乃(ももくさの)言曽隠有(ことぞこもれる)於保呂可尓為莫(おろかにするな) 

 

『於』の字には少なくとも、於(ヨ)・ 於(オ)・ 於(ウ)・ 於ける(おける)・ 於いて(おいて)の5種の読み方が存在する。

『保』の字には少なくとも、保(ホウ)・ 保(ホ)・ 保んじる(やすんじる)・ 保つ(もつ)・ 保つ(たもつ)の5種の読み方が存在する。

於(オ)+ 保(ホ)=(お)

 

08 1457 娘子和歌一首

08 1457 此花乃(このはなの)一与能裏波(ひとよのうちは)百種乃(ももくさの)言持不勝而(こともちかねて)所折家良受也(とをりけらずや)

 

けら‐ず‐や: …したではないか。…しているではないか。

元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となった真備(695-775)は、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。

唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。

ただし、真備の入唐当時の年齢(22歳)と唐の学令(原則は14歳から19歳までとされていた)との兼ね合いから、太学や四門学などの正規の学校への入学が許されなかった可能性が高く、若い仲麻呂や僧侶である玄昉と異なって苦学を余儀なくされたと思われる。

唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどであった。

 

吉備真備(695~775)は、学者出身で右大臣まで大出世したわけだけど、学者出身で大出世した人物として、平安時代の菅原道真(845~903)がいる。

 

   月夜見梅花(菅原道真)

 

月輝如晴雪   月は雪の如く輝き   

梅花似照星   梅花は星の照るに似る   

可憐金鏡転   憐れむべし金鏡転じ   

庭上玉房馨   庭上に玉房馨れるを

 

この漢詩は、十一歳の道真が詠んで周囲の大人たちを感嘆させたというが、正倉院に埋もれていると思われる真備の詩歌の代わりに載せておく。