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人麻呂と衣羅娘子、そして

02 0223 柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首

02 0223 鴨山之(かもやまの)磐根之巻有(いはねのまける)吾乎鴨(われをかも)不知等妹之(しらずといもが)待乍将有 (まちつつあらむ)

 

何故編者は、【柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌】としたのかふしぎであり、ご丁寧に、【柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌】を連番にしているのだ。

つまり、依羅娘子(よさみの おとめ)は、あの『泣血哀慟の妻』の、今風に言えば後妻になるのだろうか?

その彼女には、人麻呂が任地の石見(いわみ)(島根県)から都におもむくときの別離の歌があるというが、とりあえず二人の歌からたどってみよう。

 

02 0224 柿本朝臣人麻呂死時妻依羅娘子作歌二首

02 0224 且今日〃〃〃(けふけふと)吾待君者(あがまつきみも)石水之(いはみずの)貝尓交而(かひうにまじりて)一云 谷尓(たににまじりて)有登不言八方 (うといはずやも)

 

う‐と【烏兎】:《太陽の中に烏(からす)、月の中に兎(うさぎ)がいるという中国の伝説から》年月・歳月を指す。

 

02 0225 直相者(ただあふも)相不勝(あひはまさらず)石川尓(いしかはに)雲立渡礼(くもたちわたれ)見乍将偲(みつつしのはむ)

 

人麻呂の歌にしても、依羅の歌にしても、全く深刻さが感じられず、むしろなぞ解きをしているような面白さがあるのだが、次の歌【万226】には、「らしく」言い寄せている感があり、【万227】ではいかなるダメージをイメージしたのか、ショックを受けたかのように言い切っているのだ。

    

02 0226 丹比真人擬柿本朝臣人麻呂之意報歌一首 名闕

02 0226 荒浪尓(あらなみに)縁来玉乎(よりくるたまを)枕尓置(まくにおく)吾此間有跡(あはしまありと)誰将告(だれかがつげむ)

 

02 0227 或本歌曰

02 0227 天離(あまざかる)夷之荒野尓(ひなのあらのに)君乎置而(きみをおき)念乍有者(おもひつあるも)生刀毛無(いきとうもなし)

02 0227 右一首歌作者未詳 但古本以此歌載於此次也

 

真人は歌聖人麻呂の気持ちをなんと心得たのであろうかーまるで島に流されたかのように人知れずにいることを嘆いている。

誰がどんな気持ちで、「生きとうもなし!」(万227)と言ったのかわからないが、【相聞】の中にあり、次の(万228:708年)の題辞が【寧樂宮】ならば、元明天皇の時代に入っており、もはや中央に人麻呂はおらず伝説の人になっていたと思われる。

とはいえ、同じ二巻では、人麻呂の【石見国より妻に別れ上来 (まゐのぼ)る時の歌】(万131)がある。

2 0131 柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首 并短歌

02 0131 石見乃海(いはみのみ)角乃浦廻乎(すみのうらみを)浦無等(うらなしと)人社見良目(ひとこそみらめ)滷無等(せきなしと)一云磯無登(いそなしと)人社見良目(ひとこそみらめ)能咲八師(よしゑやし)浦者無友(うらもなくとも)縦畫屋師(よしゑやし)滷者無鞆(せきもなくとも)一云礒者(いそもなくとも)鯨魚取(いさなとり)海邊乎指而(うみへをさして)和多豆乃(わたつみの)荒礒乃上尓(ありそのうへに)香青生(かおをなす)玉藻息津藻(たまもおきつも)朝羽振(あさはふる)風社依米(かぜこそよせめ)夕羽振流(ゆふはふる)浪社来縁(なみこそきよる)浪之共(なみのむた)彼縁此依(かよりかくより)玉藻成(たまもなす)依宿之妹乎(いしゅうのいもを)一云[波之伎余思 妹之手本乎(はしきやし いものたもとを)]露霜乃(しもつゆの)置而之来者(おきてしくるも)此道乃(このみちの)八十隈毎(やそくまごとに)萬段(よろずたび)顧為騰(かへりみすれど)弥遠尓(いやとほに)里者放奴(さともさかりぬ)益高尓(いやたかに)山毛越来奴(やまもこえきぬ)夏草之(なつくさの)念思奈要而(おもひしなえて)志怒布良武(しぬぶらむ)妹之門将見(いものかどみむ)靡此山(なびけこのやま)

 

『依』の字には少なくとも、依(エ)・ 依(イ)・ 依る(よる)の3種の読み方が存在する。 『宿』の字には少なくとも、宿(スク)・ 宿(シュク)・ 宿(シュウ)・ 宿る(やどる)・ 宿す(やどす)・ 宿(やど)の6種の読み方が存在する。

依(イ)+宿(シュウ)=(いしゅう)

い‐しゅう〔ヰシフ〕【蝟集】 :一時に1か所に、多くのものが寄り集まること。

 

02 0132 反歌二首

02 0132 石見乃也(いはみのゑ)高角山之(たかつのやまの)木際従(このまより)我振袖乎(わがふるそでを)妹見都良武香 (いもみつらむか)

 

02 0133 小竹之葉者(ささのはも)三山毛清尓(みやまもさやに)乱友(みだれども)吾者妹思(あもいもおもひ)別来礼婆 (わかれきぬれば)

 

02 0134 或本反歌曰

02 0134 石見尓有(いはみなる)高角山乃(たかつのやまの)木間従文(このまゆも)吾袂振乎(わがそでふるを)妹見監鴨(いもみけむかも)

 

 02 0135 角障経(つのさはふ)石見之海乃(いはみのうみの)言佐敝久(ことさへく)辛乃埼有(からのさきある)伊久里尓曽(いくりにぞ)深海松生流(ふかみるおふる)荒礒尓曽(ありそにぞ)玉藻者生流(たまももおふる)玉藻成(たまもなす)靡寐之兒乎(なびきねしこも)深海松乃(ふかみるの)深目手思騰(みめしおもふと)佐宿夜者(さやのよも)幾毛不有(いくだもあらず)延都多之(はふつたの)別之来者(わかれしくれば)肝向(きもむかふ)心乎痛(こころをいたみ)念乍(おもひつつ)顧為騰(かへりみすると)大舟之(おほふねの)渡乃山之(わたりのやまの)黄葉乃(もみぢばの)散之乱尓(ちりのみだれに)妹袖(いもがそで)清尓毛不見(さやにもみえず)嬬隠有(つまごもる)屋上乃山乃(やかみのやまの)一云 室上山(むろかみやまの)自雲間(くもまより)渡相月乃(わたらふつきの)雖惜(をしくとも)隠比来者(かくらひくるも)天傳(あまづたふ)入日刺奴礼(いりひさしぬれ)大夫跡(ますらをと)念有吾毛(おもへるわれも)敷妙乃(しきたへの)衣袖者(ころものそでも)通而沾奴(とほしうるひぬ)

 

02 0136 反歌二首

02 0136 青駒之(あをこまの)足掻乎速(あがきをはやみ)雲居曽(くもゐにぞ)妹之當乎(いものあたりを)過而来計類(すぎてきにける)一云 當者(いものあたりも)隠来計留(かくれきにける)

 

02 0137 秋山尓(あきやまに)落黄葉(おつるもみじば)須臾者(しばらくも)勿散乱曽(なちりみだれそ)一云 知里勿乱曽(ちりなみだれそ)妹之當将見(いものまさにみ)  

 

02 0138 或本歌一首 并短歌

02 0138 石見之海(いはみのみ)津乃浦乎無美(つのうらをなほ)浦無跡(うらなしと)人社見良米(ひとこそみらめ)滷無跡(せきなしと)人社見良目(ひとこそみらめ)吉咲八師(よしゑやし)浦者雖無(うらもなけども)縦恵夜思(よしゑやし)滷者雖無(せきもなけれど)勇魚取(いさなとり)海邊乎指而(うみへをさして)柔田津乃(やへたつの)荒礒之上尓(ありそのうへに)蚊青生(かおをなす)玉藻息都藻(たまもおきつも)明来者(あけくれば)浪己曽来依(なみこそきよれ)夕去者(ゆふされば)風己曽来依(かぜこそきよれ)浪之共(なみのむた)彼依此依(かよりこれより)玉藻成(たまもなす)靡吾宿之(なびけわがやの)敷妙之(しきたへの)妹之手本乎(いものたもとを)露霜乃(つゆしもの)置而之来者(おきてしくれば)此道之(このみちの)八十隈毎(やそくまごとに)萬段(よろずだん)顧雖為(かへりみすれど)弥遠尓(いやとほに)里放来奴(さとさかりきぬ)益高尓(いやたかに)山毛超来奴(やまもこえきぬ)早敷屋師(はしきやし)吾嬬乃兒我(わがつまのこが)夏草乃(なつくさの)思志萎而(おもひしなえて)将嘆(なげくらむ)角里将見(つののさとみむ)靡此山(なびけこのやま)

 

『美』の字には少なくとも、美(ミ)・ 美(ビ)・ 美い(よい)・ 美める(ほめる)・ 美しい(うつくしい)の5種の読み方が存在する。

『柔』の字には少なくとも、柔(ニュウ)・ 柔(ニュ)・ 柔(ジュウ)・ 柔(ショ)・ 柔らげる(やわらげる)・ 柔らかい(やわらかい)・ 柔らか(やわらか)・ 柔しい(やさしい)の8種の読み方が存在する。

や-へ 【八重】:八つ重なっていること。また、数多く重なっていること。

 

020139 反歌一首

02 0139 石見之海(いはみのうみ)打歌山乃(うつたのやまの)木際従(このまより)吾振袖乎(わがふるそでを)妹将見香(いもみつらむか)
02 0139 右歌躰雖同句〃相替 因此重載

 

02 0140 柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子与人麻呂相別歌一首

02 0140 勿念跡(おもふなと)君者雖言(きみもいへども)相時(あふときは)何時跡知而加(いつとしりてか)吾不戀有牟(あがこひざらむ)

いはみのみ(いはみのみ)つののうらみを(つのうらをなほ)うらなしと(うらなしと)ひとこそみらめ(ひとこそみらめ)せきなしと(せきなしと)一云[いそなしと] ひとこそみらめ(ひとこそみらめ)よしゑやし(よしゑやし)うらもなくとも(うらもなけども)よしゑやし(よしゑやし)せきもなくとも(せきもなけれど)一云[いそもなくとも]

いさなとり(いさなとり)うみへをさして(うみへをさして)わたつみの(やへたつの)ありそのうへに(ありそのうへに)

かおをなす(かおをなす)たまもおきつも(たまもおきつも)あさはふる(あけくれば)かぜこそよせめ(なみこそきよれ)ゆふはふる(ゆふされば)なみこそきよる(かぜこそきよれ)なみのむた(なみのむた)かよりかくより(かよりこれより)たまもなす(たまもなす)いしゅうのいもを(なびけわがやの)一云[はしきやし(しきたへの)いものたもとを(いものたもとを)]

しもつゆの(つゆしもの)おきてしくるも(おきてしくれば)このみちの(このみちの)やそくまごとに(やそくまごとに)よろずたび(よろずだん)かへりみすれど(かへりみすれど)いやとほに(いやとほに)さともさかりぬ(さとさかりきぬ)いやたかに(いやたかに)やまもこえきぬ(やまもこえきぬ はしきやし わがつまのこが)なつくさの(なつくさの)おもひしなえて(おもひしなえて)

しぬぶらむ(なげくらむ)いものかどみむ( つののさとみむ)なびけこのやま(なびけこのやま) 

 

【万131 柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌】に、人麻呂の個人歌集なら捨てがたいところもあったであろうが、「なぜ編者は、わざわざ同義的な【万138 或本歌】を載せたのであろう?」と疑ってしまう。

さらに言えば、【万132】と【万134】が同義の歌として挙げられ、【万139】も列挙されているのである。

 

柿本 人麻呂(660頃 - 724)は、持統天皇崩御(703:人麻呂43)の後、宮廷歌人を辞して歌枕の旅に出たのだが、瀬戸内海の島々・吉備の国々・大宰府の諸島など見廻って、最後に出雲の国へ入ったのである。

ところが文武天皇も崩御(707:人麻呂47)し、即位した元明天皇(661-721)に召喚されるのだが、それは『万葉集』を託すべき人を相談するためである。

ここで、学者として優れていたであろう、『古事記』の編者太安万侶(?-723)が遅かれ早かれ登場してくることになり、とは言っても歌心は解釈できないので、歌人高市黒人(生没年不明)や志貴皇子(668?-716)が協力することになる。                                                                                                    

人麻呂には、【泣血哀慟の妻】(万Ⅱ207-212)がおり、その題辞のように、最初のパ^トナーを亡くした。

どうやら、この先妻との間には子がおり、子持ちの男やもめになったが、宮廷お抱えの万葉歌人なのだ。

 

【憑有之 兒等尓者雖有】「たのまれし こらではあれど」【吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎】「わぎもこの かたみにおける わかきこの こひなくごとに」【2-210】

 

この歌から察するに、明らかに人麻呂の子どもではないのだが、その子たちがどうなったかは知る由もない。

 

そして、持統天皇が崩御し、宮廷歌人を辞した歌聖人麻呂は、瀬戸内・吉備・太宰、その最後に出雲へと行く。

これが歌枕の旅なのであるが、結局、石見国に落ち着き、【石見の妻】(万Ⅱ131-139)が歌われるのだが、ここにも子供の姿が見えるー【玉藻成 靡寐之兒乎】「たまもなす なびきねしこを」【2-135】。

これが人麻呂の児だと言われても否定はできないが、人麻呂は石見の国府に就いたわけでもないので、家族をなしていたにしてもその消息が分からない。

 

ここで人麻呂(万Ⅱ-223)と【依羅娘子】(万Ⅱ140と224・225)の間の、【臨死】と【死時】のやり取りについてだが、おそらくは歌謡問答に違いないであろう。

【人麻呂妻】(万Ⅳ504)も、同じ彼女だとおもうのだが、もちろん妻というより、額田王の縁による歌友であり、摂津河内の名だたる豪族の、由緒ある女性のように思う。

 

04 0504 柿本朝臣人麻呂妻歌一首

04 0504 君家尓(きみがやに)吾住坂乃(わがすみさかの)家道乎毛(いへぢをも)吾者不忘(あれもわすれず)命不死者(いのちしらずも)

 

すみさか【墨坂】:奈良県榛原町西方の古代地名(現:宇陀市)だというのだが、住吉街道の古道かもしれないのだ。

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。

いのち‐しらず【命知らず】:生命の危険をも考えずに振る舞うこと。また、その人

 

 この歌がポツンとある所に、凄まじさを感じずにいられないのは、もはや逢うことがないのを決意しているからである。

官位についていなかった人麻呂だが、プロジェクト『万葉集』の完成を目指して天皇家の庇護を受けていたと思われる。 

島根県は出雲・石見・隠岐の三国から成りたっており、神話の舞台となった出雲は、出雲大社をはじめ数多くの古社?があり、太古の神々の歌が聞こえてくるとするなら、人麻呂がこの地を最後に選んだとしても不思議ではない。

その『出雲国風土記』(いずものくにふどき)の編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。

ところが、元明天皇の即位によって、プロジェクト『万葉集』から解放され、出雲よりも石見の風土に魅了され圧倒されていた人麻呂は、『石見国風土記』に携わったように思われ、家族のことはさておいて、そのことが石見の国に伝説を残す結果になったよう思う。