哀傷長逝之弟(書持)Ⅰ
天平18年(746年) 3月10日:宮内少輔を授与されたのち、6月21日に家持は越中守に任じられている。
三月十五日 次のような勅を出された。
三宝(仏教)を交流させることは、国家の繁栄のもとであり、万民をいつくしみ育てるのは、昔の天子の残された優れた手本である。これによって皇室の基礎は永く固まり、天皇の子孫は、とこしえにこれを継承し、天かは安寧に、人民に利益を蒙らせるため、仁王般若経を降雪させる。
ここに謹んでその教義を聞くと、慈悲を第一とし、心は寛大で情け深くならねばならぬことを感じさせ、物事について深い思いやりの念を教える。
四月五日 左大臣・従一位の橘宿祢諸兄に太宰帥を兼任させ、中納言・従三位の藤原朝臣豊成に東海道の鎮撫使を兼任させ、参議・式部卿・正四位上の藤原朝臣仲麻呂に東山道の鎮撫使を兼任させていたが、さらに四月二十二日、仲麻呂は、従三位を授与しており、兄豊成に迫る勢いである。
その他には、中納言・巨勢奈弖麻呂(北陸・山陰)、参議・大伴牛養(山陽・西海)、参議・紀麻呂(南海)。
六月十八日 僧の玄昉が死んだ。玄昉は姓姓を阿刀(あと)氏といい、霊亀二年に入唐して学問に励んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊んで、三品(さんぼん)に准じて紫の袈裟を着用させた。
天平七年、遣唐大使の多治比真人広成に随って帰国した。帰国に際して仏教の経典及びその注釈書五千余巻と各種の仏像をもたらした。
日本の朝廷でも同じように紫の袈裟を施し与えて着用させ、尊んで僧正に任じ、内道場(旧体内で仏を礼拝修行するところ)に自由に出入りさせた。
これよりのち、天皇の派手な寵愛が目立つようになり、次第に僧侶としての行いに背く行為が多くなった。
時の人々はこれを憎むようになり、ここに至って左遷された場所で死んだのであるが、世間では藤原博嗣の令によって殺されたのだと伝えている。
そして六月二十一日、従五位下の藤原朝臣宿奈麻呂(広嗣の弟)を越前守に任じ、従五位下の大伴宿禰家持を越中守に任じられたのである。
宿奈麻呂は、天平12年(740年)に発生した兄・広嗣の反乱(藤原広嗣の乱)に連座して伊豆国へと流罪となったが、天平14年(742年)に罪を赦され少判事に任ぜられると、天平18年(746年)正六位下から従五位下に叙せられた。
17 3927 大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守 即取七月赴任所於時姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首[大伴宿祢家持、以閏七月に、越中国の守に任けらえ、即ち七月を以ちて任所に赴く。時に、 姑大伴氏坂上郎女の、家持に贈れる歌二首]
17 3927 久佐麻久良(くさまくら)多妣由久吉美乎(たびゆくきみを)佐伎久安礼等(さきあれと )伊波比倍須恵都(いはひべすゑつ)安我登許能敝尓(あがとこのべに)
『伎』の字には少なくとも、伎(シ)・ 伎(ギ)・ 伎(キ)・ 伎(わざ)・ 伎(たくみ)の5種の読み方が存在する。
『久』の字には少なくとも、久(ク)・ 久(キュウ)・ 久しい(ひさしい)の3種の読み方が存在する。
伎(キ)+ 久(キュウ)=(き)
さき‐く【▽幸く】:無事に。つつがなく。
『礼』の字には少なくとも、礼(レイ)・ 礼(リ)・ 礼(ライ)・ 礼(のり)・ 礼う(うやまう)の5種の読み方が存在する。
『等』の字には少なくとも、等(トウ)・ 等(タイ)・ 等(ら)・ 等しい(ひとしい)・ 等(など)の5種の読み方が存在する。
いわい‐べ〔いはひ‐〕【▽斎×瓮】 :神酒 (みき) を盛るための素焼きのつぼ。いんべ。
17 3928 伊麻能其等(いまのごと)古非之久伎美我(こひしくきみが)於毛保要婆(おもほえば)伊可尓加母世牟(いかにかもせむ)須流須邊乃奈左(するすべのなさ)
17 3929 更贈越中國歌二首[更に越中国に贈れる歌二首]
17 3929 多妣尓伊仁思(たびにいし)吉美志毛都藝氐(きみしもつぎて)伊米尓美由(いめにみゆ)安我加多孤悲乃(あがかたこひの)思氣家礼婆可聞(しげければかも)
『伊』の字には少なくとも、伊(イ)・ 伊(ただ)・ 伊(これ)・ 伊(かれ)の4種の読み方が存在する。
『仁』の字には少なくとも、仁(ニン)・ 仁(ニ)・ 仁(ジン)の3種の読み方が存在する。 『思』の字には少なくとも、思(シ)・ 思(サイ)・ 思う(おもう)・ 思しい(おぼしい)の4種の読み方が存在する。
仁(ジン)+思(シ)=(し)
にこ・し【▽和し/▽柔し】:穏やかである。
17 3930 美知乃奈加(みちのなか)久尓都美可未波(くにつみかみは)多妣由伎母(たびゆきも)之思良奴伎美乎(しらぬやきみを)米具美多麻波奈(めぐみたまはな)
みち‐の‐なか【道の中】:都から下る道中の地方を三つに分けたときの、中ほどにある地方。
くに‐つ‐みかみ【国つ▽御神】:「国つ神」を敬っていう語。
たび‐ゆき【旅行き】:旅に出ること。
坂上郎女は、旅人亡き後は、大伴氏の本宅の佐保邸で、大伴氏の刀自(婦人の長老)として、一族を支えて、家政を取り仕切り、宗廟の祭祀、親戚の宴を主催していたといい、家持・大嬢に安全祈願をしたものであろう。
この後に、平群氏の女郎の、越中守大伴宿祢家持に贈れる歌十二首がつづき、そして下記の歌に続くのである。
17 3943 八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌[八月七日の夜に、守大伴宿祢家持の館に集ひて宴せる歌]
17 3943 秋田乃(あきのたの)穂牟伎見我氐里(ほむきみがてり)和我勢古我(わがせこが)布左多乎里家流(ふさたをりける)乎美奈敝之香物(をみなへしかも)
17 3943 右一首守大伴宿祢家持作
17 3944 乎美奈敝之(をみなへし)左伎多流野邊乎(さきたるのへを)由伎米具利(ゆきめぐり)吉美乎念出(きみをおもひで)多母登保里伎奴(たもとほりきぬ)
17 3945 安吉能欲波(あきのよは)阿加登吉左牟之(あかときさむし)思路多倍乃(しろたへの)妹之衣袖(いもがころもで)伎牟餘之母我毛(きむよしもがも)
17 3946 保登等藝須(ほととぎす)奈伎氐須疑尓之(なきてすぎにし)乎加備可良(をかびから)秋風吹奴(あきかぜふきぬ)余之母安良奈久尓(よしもいなくに)
『安』の字には少なくとも、安(アン)・ 安んじる(やすんじる)・ 安い(やすい)・ 安んぞ(いずくんぞ)の4種の読み方が存在する。
良:[音]ロウ(呉)リョウ(漢)ラ(慣)[訓]よ-い(表内)い-い、まこと-に、やや(表外)安んぞ(いずくんぞ)+良(いい)=(い)
17 3946 右三首掾大伴宿祢池主作
17 3947 家佐能安佐氣(いさあさけ)秋風左牟之(あきかぜさむし)登保都比等(とほつひと)加里我来鳴牟(かりがきなかむ)等伎知可美香物(ときちかみかも)
あさ‐げ【朝×餉/朝▽食】
17 3948 安麻射加流(あまざかる)比奈尓月歴奴(ひなにつきへぬ)之可礼登毛(しかれども)由比氐之紐乎(ゆひてしひもを)登伎毛安氣奈久尓(ときもあけなき)
『久』の字には少なくとも、久(ク)・ 久(キュウ)・ 久しい(ひさしい)の3種の読み方が存在する。
『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。
久(キュウ)+ 尓(キ)=(き)
17 3948 右二首守大伴宿祢家持作
17 3949 安麻射加流(あまざかる)比奈尓安流和礼乎(なにあるわれを)宇多我多毛(うたがたも)比母登吉佐氣氐(ひもときさけて)於毛保須良米也(おもほすらめや)
『比』の字には少なくとも、比(ビチ)・ 比(ビ)・ 比(ヒツ)・ 比(ヒ)・ 比ぶ(ならぶ)・ 比(たぐい)・ 比(ころ)・ 比べる(くらべる)の8種の読み方が存在する。
『奈』の字には少なくとも、奈(ナイ)・ 奈(ナ) ・ 奈(ダイ)・ 奈(ダ)・ 奈ぞ(なんぞ)・ 奈ぞ(いかんぞ)・ 奈(いかん)の7種の読み方が存在する。
比ぶ(ならぶ)+奈(ナ)=(な)
17 3949 右一首掾大伴宿祢池主
17 3950 伊敝尓之底(いへにして)由比弖師比毛乎(ゆひてしひもを)登吉佐氣受(ときさけず)念意緒(おもふこころを)多礼賀思良牟母(たれかしらむも)
17 3950 右一首守大伴宿祢家持作
大伴 池主(おおとも の いけぬし)は、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に大伴家持が越中守に任ぜられて以降、翌天平19年(747年)前半にかけて、作歌活動が『万葉集』に記されている。
17 3951 日晩之乃(ひぐらしの)奈吉奴流登吉波(なきぬるときは)乎美奈敝之(をみなへし)佐伎多流野邊乎(さきたるのへを)遊吉追都見倍之(ゆきつつみべし)
17 3951 右一首大目秦忌寸八千嶋[右の一首は、大目秦忌寸八千島]
17 3952 古歌一首 大原高安真人作 年月不審 但随聞時記載玆焉[古歌一首 大原高安真人の作 年月審らかならず。ただ聞きし時のまにまにここに記し載す]
17 3952 伊毛我伊敝尓(いもがへに)伊久里能母里乃(いくりのもりの)藤花(ふぢのはな)伊麻許牟春母(いまこむはるも)都祢加久之見牟(つねかくしみむ)
『伊』の字には少なくとも、伊(イ)・ 伊(ただ)・ 伊(これ)・ 伊(かれ)の4種の読み方が存在する。
『我』の字には少なくとも、我(ガ)・ 我(われ)・ 我(わ)の3種の読み方が存在する。
我(ガ)+ 伊(かれ)=(が)
17 3952 右一首傳誦僧玄勝是也[右の一首、伝へ誦めるは、僧玄勝これなり]
17 3953 鴈我祢波(かりがねは)都可比尓許牟等(つかひにこむと)佐和久良武(さわくらむ)秋風左無美(あきかぜさむみ)曽乃可波能倍尓(そのかはのべに)
17 3954 馬並氐(うまなめて)伊射宇知由可奈(いざうちゆかな)思夫多尓能(しぶたにの)伎欲吉伊蘇未尓(きよきいそみに)与須流奈弥見尓(よするなみみに )
17 3954 右二首守大伴宿祢家持
17 3955 奴婆多麻乃(ぬばたまの)欲波布氣奴良之(よはふけぬらし)多末久之氣(たまくしげ)敷多我美夜麻尓(ふたがみやまに)月加多夫伎奴 (つきかたぶきぬ)
17 3955 右一首史生土師宿祢道良[右の一首は、史生土師宿祢道良]
17 3956 大目秦忌寸八千嶋之舘宴歌一首[大目秦忌寸八千島の館にして宴する歌一首]
17 3956 奈呉能安麻能(なごのあの)都里須流布祢波(つりするふねは)伊麻許曽婆(いまこそば)敷奈太那宇知氐(ふなだなうちて)安倍弖許藝泥米(あへてこぎでめ)
17 3956 右舘之客屋居望蒼海 仍主人八千嶋作此歌也[右は、館の客屋にして居ながら蒼海を望み、よりて主人この歌を作れり]
秦忌寸八千嶋(はだのいみきやちしま):746(天平18)年8.7、越中国守として赴任して間もない大伴家持の館で宴が催され、大伴池主・土師道良らと共にこれに参席、歌を詠み(17/3951)、この時大目(だいさかん、国司の四等官)とあり。 同じ頃、自邸に家持を招いて宴を開き、歌を作る(17/3956)。
747(天平19)年4.20、正税帳使として入京する家持を送別する宴を自邸に催し、この時の家持の歌が2首ある(17/3989・3990)。
大原 高安(おおはら の たかやす)は、当初高安王を称するが、大原真人姓を与えられ臣籍降下し、元正朝の霊亀3年(717年)従五位上となる。 その後、紀皇女(一説では多紀皇女の誤りとする)との密通を咎められて伊予守に左遷される。
ほかにも高田女王(7首)、大原桜井(2首)、大原門部(4首)、大原今城(9首)と一族から万葉歌人を輩出している。
17 3909 詠霍公鳥歌二首
17 3909 多知婆奈波(たちばなは )常花尓毛歟(とこはなにもが)保登等藝須(ほととぎす)周無等来鳴者(すむときなかば)伎可奴日奈家牟(きかぬひなけむ)
17 3910 珠尓奴久(たまにぬく)安布知乎宅尓(あふちをいへに)宇恵多良婆(うゑたらば)夜麻霍公鳥(やまほととぎす)可礼受許武可聞(かれずこむかも)
17 3910 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持[右は、四月二日に、大伴宿祢書持、奈良の宅より兄家持に贈れり]
17 3911 橙橘初咲霍公鳥翻嚶 對此時候詎不暢志 因作三首短歌 以散欝結之緒耳[橙橘初めて咲き、霍公鳥飜り嚶く。この時候に対ひて、詎(なん)そ志を暢べざらむ。因りて三首の短歌を作りて、欝結の緒を散らさまくのみ]
17 3911 安之比奇能(あしひきの)山邊尓乎礼婆(やまへにをれば)保登等藝須(ほととぎす)木際多知久吉(このまたちくき)奈可奴日波奈之(なかぬひはなし)
17 3912 保登等藝須(ほととぎす)奈尓乃情曽(なにのこころぞ)多知花乃(たちばなの)多麻奴久月之(たまぬくつきし)来鳴登餘牟流(きなきとよむる)
17 3913 保登等藝須(ほととぎす)安不知能枝尓(あふちのえだに)由吉底居者(ゆきてゐば)花波知良牟奈(はなはちらむな)珠登見流麻泥(たまとみるまで)
17 3913 右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報[右は、四月三日に、内舎人大伴宿祢家持、久邇の京より弟書持に報へ送れり]
明らかに、書持は後のことを兄に託しているように思われ、家持は生きるエールを送っているんよ。
普通なら、二十歳を過ぎれば官位を授与されるはずのところ、官位も不明というのは、おそらく、書持は病弱であったのであろうと思われる。