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彷徨5年Ⅰ 恭仁宮前期

復唱になるかもしれないが、天平12年(740)10月25日に、征西大将軍大野東人に対し、「まだその時ではないが、思うことがあって出立する」という勅が下された。

平城京の留守官には知太政官事鈴鹿王(長屋王の異母弟)と兵部卿藤原豊成(武智麻呂の長男)が任命されていた。 

すなわち、天平12年(740年)10月29日から、伊勢方面へ旅立ち、天皇の東国行幸がはじまったのである。

この行幸には当時の政権の主班であった橘諸兄をはじめとして多数の上級官吏・皇族が付き従った。

つまり、当時の都であった平城京を突然捨て、新規に建設した恭仁宮と紫香楽宮、副都として整備されていた難波宮の3か所を転々としながら、天平17年(745年)5月にかけて、政治を行うことになるのだ。

一行は大和を出て11月1日に伊賀、翌2日には伊勢河口頓宮に入り伊勢神宮に勅使を派遣し、3日より十日間、関宮にとどまる。

この日、「10月23日に広嗣がとらえられた」という報告を受け広嗣を処断すべしとの指示を出す。 

06 1031 丹比屋主真人歌一首

06 1031 後尓之(おくれにし)人乎思久(ひとをおもはく)四泥能埼(しでのさき)木綿取之泥而(ゆふとりしでて)好徃跡其念(よみちとぞおもふ)

 

四泥の崎:伊勢国朝明郡であり、川口頓宮より先の行程になる。

しで【四手/▽垂】: 玉串 (たまぐし) や注連縄 (しめなわ) などにつけて垂らす紙。古くは木綿 (ゆう) を用いた。

往:[音]オウ(呉・漢)[訓]い-く、いにしえ、さき-に、ゆ-く、みち

06 1031 右案此歌者不有此行之作乎 所以然言 勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉 何有詠思泥埼作歌哉[右は案ふるに、この歌は、この行の作にあらぬか。然いふ所以は、大夫に勅して、河口の行宮より京に還らしめ、従駕せしめしことなし。 何そ思泥の崎を詠めて歌を作ることあらむ]

 

06 1032 狭殘行宮大伴宿祢家持作歌二首

06 1032 天皇之(おほきみの)行幸之随(みゆきのまにま)吾妹子之(わぎもこが)手枕不巻(たまくらまかず)月曽歴去家留(つきぞへにける)

06 1033 御食國(みけつくに)志麻乃海部有之(しまのあまうし)真熊野之(まくまのの)小船尓乗而(をぶねにのりて)奥部榜所見(おきへこぐみゆ)

 

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

4日、和遅野で狩猟、5日東人より、寛剛と綱手の斬刑執行の報告が入り、広嗣の乱がおわり、この伊勢で勝鬨を挙げたことになる。

11月12日、車駕は河口を出発して壱志郡に到り宿泊、14日鈴鹿郡赤坂の頓宮、21日 天皇は詔を下して陪従の文武官ならびに騎兵(藤原仲麻呂を前騎兵大将軍、紀麻路を後騎兵大将軍に任じ、400もの騎兵に警衛させたことが記録)の子弟と父に官位を賜った。

22日 五位以上の人に応じて絁(あしぎぬ)を賜り、23日赤坂を発って朝明郡(四日市)に到着 25日桑名郡石占の頓宮 26日美濃国当芸(たぎ)郡

06 1034 美濃國多藝行宮大伴宿祢東人作歌一首[美濃国の多芸の行宮にして、大伴宿祢東人の作れる歌一首]

06 1034 従古(いにしへゆ)人之言来流(ひとのいひける)老人之(おいびとの)變若云水曽(をちいふみづぞ)名尓負瀧之瀬 (なしふたぎのせ)

 

変若水(おちみず、をちみづ):飲めば若返るといわれた水。月の不死信仰に関わる霊薬の一つ。

『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。

『負』の字には少なくとも、負(ブ)・ 負(フウ)・ 負(フ)・ 負ける(まける)・ 負かす(まかす)・ 負む(たのむ)・ 負く(そむく)・ 負う(おう)の8種の読み方が存在する。

 

06 1035 大伴宿祢家持作歌一首

06 1035 田跡河之(たどかはの)瀧乎清美香(たぎをきよみか)従古(いにしへゆ)官仕兼(みやつかへけむ)多藝乃野之上尓 (たぎのののうへに)

06 1036 不破行宮大伴宿祢家持作歌一首

06 1036 關無者(せきなくは)還尓谷藻(かへりにだにも)打行而(うちゆきて)妹之手枕(いもがたまくら)巻手宿益乎(まきてねましを)

天平12年(740)12月1日に美濃の不破に到着、2日 天皇は宮処(みやこ)寺と曳常泉に行幸 4日 ここで随伴してきた騎兵部隊を解散させ平城京に帰らせた。

ここまでのルートは壬申の乱で大海人皇子がたどった道を追体験したという説が有力であるが、12月5日に不破を発し、6日近江に入り 坂田郡横川の頓宮(米原町)に到る。

山背国相楽郡恭仁郷(さと)の地を整備し、遷都の候補地にするため、この日右大臣の諸兄が先発した。

7日 横川を出発して犬上の頓宮(彦根市)に着き、9日犬上を出発して蒲生郡に到着 10日蒲生郡の宿を出発し、野洲の頓宮(守山市付近)、11日 野洲から出発して志賀郡の禾津(あわつ)の頓宮(大津市) 13日 志賀の山寺に行幸して仏を拝んだ。

14日 禾津を出発し、山背国相楽郡の玉井頓宮 15日 天皇は先発して恭仁宮に行幸し、初めてここを都と定めて、京都(みやこ)の造営にかかり、太上天皇(元正)と皇后は遅れて到着した。

恭仁宮は平城京の北東に位置し、東西に流れる泉川(現在の木津川)を挟んで、中枢部の大極殿や内裏などは川の北側に、それ以外の建物は川の南側に建築された。

また内裏などがあった左京と、川港のあった右京は鹿背山で隔てられていたと考えられているが、右京には恭仁宮の建設が始まる前から、平城宮に直結する道路と木津川を利用した水運に関わる大きな港(泉津)があった。 

天平13年(741) 春正月一日天皇が初めて恭仁宮に朝賀を受けられた。宮の垣がまだ完成していないので、帷帳(とばり)を引きめぐらして垣の代わりとした。

06 1050 讃久邇新京歌二首[久邇の新しき京を讃めたる歌二首]并短歌〔并せて短歌〕

06 1050 明津神(あきつかみ)吾皇之(わがおほきみの)天下(あめのした)八嶋之中尓(やしまのうちに)國者霜(くにはしも)多雖有(さはにあれども)里者霜(さとはしも)澤尓雖有(さはにあれども)山並之(やまなみの)宜國跡(よろしきくにと)川次之(かはなみの)立合郷跡(たちあふさとと)山代乃(やましろの)鹿脊山際尓(かせやまのまに)宮柱(みやばしら)太敷奉(ふとしきまつり)高知為(たかしらす)布當乃宮者(ふたぎのみやは)河近見(かはちかみ)湍音叙清(せのねしきよき) 山近見(やまちかみ)鳥賀鳴慟(とりがなげきし)秋去者(あきされば)山裳動響尓(やまもどよむに)左男鹿者(さをしかは)妻呼令響(つまよぶひびき)春去者(はるされば)岡邊裳繁尓(をかへもしげに)巖者(いはほにも)花開乎呼理(かいかのおこり)痛憾怜(あなたんさ)布當乃原(ふたぎのはらに)甚貴(いとたふと)大宮處(おほみやところ)諾己曽(うべしこそ)吾大王者(わがおほきみは)君之随(きみがまま)所聞賜而(きかしたまひて)刺竹乃(さすたけの)大宮此跡(おほみやここと)定異等霜(さだめけらしも)                

 

布当の宮(ふたぎのみや):久迩の都のこと。→久迩の都 一説に法花寺野付近の久迩別宮。

『湍』の字には少なくとも、湍(タン)・ 湍(セン)・ 湍(はやせ)・ 湍い(はやい)の4種の読み方が存在する。

『音』の字には少なくとも、音(オン)・ 音(イン)・ 音(ね)・ 音り(たより)・ 音(おと)の5種の読み方が存在する。

『叙』の字には少なくとも、叙(ジョ)・ 叙(ショ)・ 叙べる(のべる)の3種の読み方が存在する。

『鳴』の字には少なくとも、鳴(メイ)・ 鳴(ミョウ)・ 鳴(ベイ)・ 鳴る(なる)・ 鳴らす(ならす)・ 鳴く(なく)の6種の読み方が存在する。

『慟』の字には少なくとも、慟(ドウ)・ 慟(トウ)・ 慟(ズ)・ 慟く(なげく)の4種の読み方が存在する。

鳴く(なく)+ 慟く(なげく)=(なげく)

どよ・む【響動】:(古くは「とよむ」) 音が鳴り響く。どよめく。

尓:[音] ニ(呉) ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ

『呼』の字には少なくとも、呼(コウ)・ 呼(コ)・ 呼(ク)・ 呼(キョウ)・ 呼(カ)・ 呼ぶ(よぶ)の6種の読み方が存在する。 『令』の字には少なくとも、令(レイ)・ 令(リョウ)・ 令い(よい)・ 令(おさ)・ 令(いいつけ)の5種の読み方が存在する。

呼ぶ(よぶ)+令い(よい)=(よぶ)

春(はる)さ・る :《「さる」は季節などが近づく意》春になる。春が来る。

うべ-し 【宜し】:いかにももっとも。なるほど。

『憾』の字には少なくとも、憾(ドン)・ 憾(タン)・ 憾(ゴン)・ 憾(カン)・ 憾む(うらむ)の5種の読み方が存在する。

『怜』の字には少なくとも、怜(レン)・ 怜(レイ)・ 怜(リョウ)・ 怜い(さとい)の4種の読み方が存在する。

憾(タン)+怜い(さとい)=(たんさ)

たん‐さ【嘆×嗟/×歎×嗟】:なげくこと。嗟嘆。

ふた・ぐ 【塞ぐ】:覆う。ふたをする。遮る。ふさぐ。いっぱいにする。占領する。

『甚』の字には少なくとも、甚(ソ)・ 甚(ジン)・ 甚(シン)・ 甚だしい(はなはだしい)・ 甚だ(はなはだ)・ 甚く(いたく)の6種の読み方が存在する。

随:[音]ズイ(呉)スイ(漢)[訓]まにま、したが-う(表外)

 

06 1051 反歌二首

06 1051 三日原(みかのはら)布當乃野邊(ふたぎののへを)清見社(きよみこそ)大宮處(おほみやところ)一云  此跡標刺(こことしめさし)定異等霜(さだめけらしも)

 

06 1052 山高来(やまだかく)川乃湍清石(かはのせきよい)百世左右(ももよまで)神之味将徃(かむしみゆかむ)大宮所(おほみやところ)

06 1053 吾皇(わがおうの)神乃命乃(かみのみことの)高所知(たかしらす)布當乃宮者(ふたぎのみやは)百樹成(ももきなる)山者木高之(やまはこだかし)落多藝都(おちたぎつ)湍音毛清之(せおともきよし)鸎乃(うぐひすの)来鳴春部者(きなくはるへは)巖者(いはほにも)山下耀(やましたひかり)錦成(にしきなす)花咲乎呼里(はなさきををり)左壮鹿乃(さをしかの)妻呼秋者(つまよぶあきは)天霧合(あまぎらふ)之具礼乎疾(しぐれをはやみ)狭丹頬歴(さにほひり)黄葉散乍(もみちちりつつ)八千年尓(やちとせに)安礼衝之乍(あれつかしつつ)天下(あめのした)所知食跡(しらしめさむと)百代尓母(ももよにも)不可易(かはるべからず)大宮處(おほみやところ)       

 

 おこ・る 【起こる】:新たに生ずる。始まる。

しぐれ【時‐雨】: 秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨。

『疾』の字には少なくとも、疾(ジチ)・ 疾(シツ)・ 疾(やまい)・ 疾しい(やましい)・ 疾む(やむ)・ 疾い(はやい)・ 疾む(にくむ)・ 疾し(とし)・ 疾く(とく)の9種の読み方が存在する。

ほう・る〔はふる〕【放る/×抛る】: 遠くへ投げる。乱暴に、または無造作に投げる

『歴』の字には少なくとも、歴(レキ)・ 歴(リャク)・ 歴る(へる)の3種の読み方が存在する。

『易』の字には少なくとも、易(ヤク)・ 易(ジ)・ 易(シ)・ 易(エキ)・ 易(イ)・ 易い(やすい)・ 易しい(やさしい)・ 易わる(かわる)・ 易える(かえる)・ 易る(あなどる)の10種の読み方が存在する。

 

06 1054 反歌五首

06 1054 泉川(いづみがは)徃瀬乃水之(ゆくせのみづの)絶者許曽(たえばこそ)大宮地(おほみやところ)遷徃目(うつろひゆかめ)

 

いずみ‐がわ〔いづみがは〕【泉川】:木津川の、京都府南部を流れる部分の古名。

『地』の字には少なくとも、地(チ)・ 地(ジ)・ 地(ところ)・ 地(つち)の4種の読み方が存在する。

『遷』の字には少なくとも、遷(セン)・ 遷る(うつる)・ 遷す(うつす)の3種の読み方が存在する。

 

06 1055 布當山(ふたぎやま)山並見者(やまなみみれば)百代尓毛(ももよにも)不可易(かはるべからず)大宮處(おほみやところ)

06 1056 嫺嬬等之(をとめらが)續麻繋云(おみつぐという)鹿脊之山(かせのやま)時之徃者(ときのゆければ)京師跡成宿(みやことなりぬ)

 

『嫺』の字には少なくとも、嫺(ゲン)・ 嫺(カン)・ 嫺やか(みやびやか)・ 嫺う(ならう)の4種の読み方が存在する。

『嬬』の字には少なくとも、嬬(ヌ)・ 嬬(ニュ)・ 嬬(ドウ)・ 嬬(ジュ)・ 嬬(シュ)・ 嬬い(よわい)・ 嬬(つま)の7種の読み方が存在する。

嫺う(ならう)+ 嬬(つま)→[義訓:をとめ]

『續』の字には少なくとも、續(ゾク)・ 續(ショク)・ 續ける(つづける)・ 續く(つづく)・ 續ぐ(つぐ)の5種の読み方が存在する。

麻績・麻續・麻続(おみ):麻(を)を績(う)むこと、つまり麻を細く裂いてより合わせて麻糸をつくること。

『繋』の字には少なくとも、繋(ケイ)・ 繋える(とらえる)・ 繋ぐ(つなぐ)・ 繋がる(つながる)・ 繋(きずな)・ 繋かる(かかる)の6種の読み方が存在する。

 

06 1057 鹿脊之山(かせのやま)樹立矣繁三(こだちをしげみ)朝不去(あささらず)寸鳴響為(きなきとよもす)鸎之音(うぐひすのこゑ)

 

06 1058 狛山尓(こまやまに)鳴霍公鳥(なくほととぎす)泉河(いづみがは)渡乎遠見(わたりをとほみ)此間尓不通(ここにかよはず)一云 渡遠哉(わたりとほみか)不通有武(かよはざるらむ) 

08 1604 大原真人今城傷惜寧樂故郷歌一首[大原真人今城の奈良の故郷を傷み惜しめる歌一首]

08 1604 秋去者(あきされば)春日山之(かすがのやまの)黄葉見流(もみちみる)寧樂乃京師乃(ならのみやこの)荒良久惜毛 (あるらくをしも)

天平13年(741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。