彷徨5年Ⅱ 難波宮後期
17 3916 十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首[十六年の四月五日に、独り平城の旧き宅に居りて作れる歌六首(家持)]
17 3916 橘乃(たちばなの)尓保敝流香可聞(にほへるかかも)保登等藝須(ほととぎす)奈久欲乃雨尓(なくよのあめに)宇都路比奴良牟(うつろひぬらむ)
17 3917 保登等藝須(ほととぎす)夜音奈都可思’よごゑなつかし)安美指者(あみささば)花者須具登毛(はなはすぐとも)可礼受加奈可牟(かれずかなかむ)
17 3918 橘乃(たちばなの)尓保敝流苑尓(にほへるそのに)保登等藝須(ほととぎす)鳴等比登都具(なくとひとつぐ)安美佐散麻之乎(あみささましを)
17 3919 青丹余之(あをによし)奈良能美夜古波(ならのみやこは)布里奴礼登(ふりぬれど)毛等保登等藝須(もとほととぎす)不鳴安良奈久尓(なかずあらなき)
17 3920 鶉鳴(うづらなく)布流之登比等波(ふるしとひとは)於毛敝礼騰(おもへれど)花橘乃(はなたちばなの)尓保敷許乃屋度(にほふこのやど)
17 3921 加吉都播多(かきつはた)衣尓須里都氣(きぬにすりつけ)麻須良雄乃(ますらをの)服曽比獵須流(きそひがりする)月者伎尓家里(つきはきにけり)
夏四月十三日 紫香楽宮の西北の山で火事があった。
城下の男女数千余人がみんな、山へ行き木を伐り、延焼を防いだ。天皇はこれを褒めてひとり一人に麻布一端づつを与えた。
四月二十三日 紫香楽宮を造営し始めたが、百官の役所がいまだに完成しないので諸官司別に公廨銭(くげせん:役所の運営費)を合計一千貫賜り、それを元手に出挙して利息を採り、永く公用にあてさせ、その元金を失うことがないようにさせた。
毎年十一月を限って詳しく元金と利息の使用状況を記録して、太政官に報告させることにした。
06 1059 春日悲傷三香原荒墟作歌一首[春の日に、三香原の荒れたる墟を悲しび傷みて作れる歌一首(745)(田辺福麻呂)] 并短歌〔并せて短歌〕
06 1059 三香原(みかのはら)久邇乃京師者(くにのみやこは)山高(やまだかみ)河之瀬清(かはのせきよし)在吉迹(ありよしと)人者雖云(ひとはいへども)在吉跡(ありよしと)吾者雖念(われはおもへど)故去之(ふるゆきし)里尓四有者(さとにしあれば)國見跡(くにみれど)人毛不通(ひともかよはず)里見者(さとみれば)家裳荒有(いへもあれたり)波之異耶(はしけやし)如此在家留可(かくありけるか)三諸著(みもろつく)鹿脊山際尓(かせやまのまに)開花之(さくはなの)色目列敷(いろめづらしき)百鳥之(ももとりの)音名束敷(こゑなつかしき)在杲石(ありがほし)住吉里乃(すみよきさとの)荒樂苦惜哭(あるらくをしも )
みかのはら【瓶原】:京都府相楽郡加茂町北部の地名。木津川の北岸にあり、聖武天皇の恭仁(くに)京が置かれた所。三香の原。
はしき-やし 【愛しきやし】:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。
『此』の字には少なくとも、此(シ)・ 此(これ)・ 此(ここ)・ 此の(この)・ 此く(かく)の5種の読み方が存在する。
あり-が-ほ・し 【有りが欲し】:ありたい。住んでいたい。
06 1060 反歌二首
06 1060 三香原(みかのはら)久邇乃京者(くにのみやこは)荒去家里(あれゆけり)大宮人乃(おほみやひとの)遷去礼者(うつろひぬれば)
『去』の字には少なくとも、去(コ)・ 去(ク)・ 去(キョ)・ 去く(ゆく)・ 去く(のぞく)・ 去る(さる)の6種の読み方が存在する。
06 1061 咲花乃(さくはなの)色者不易(いろはかはらず)百石城乃(ももしきの)大宮人叙(おほみやひとぞ)立易奚流(たちかはりける)
天平十六年五月 肥後国に雷雨と地震があった。八代・天草・葦北の三都の感謝と田二百九十余町、民家四百七十余区と、人千五百二十余人が水中に漂ったり水没したりした。山崩れが二百八十余か所、四十余人が圧死した。そこでそれぞれに恵みの物資を与えた。
六月二十一日 氷が雨のように降った
06 1062 難波宮作歌一首[難波の宮にして作れる歌一首] 并短歌〔并せて短歌〕
06 1062 安見知之(やすみしし)吾大王乃(わがおほきみの)在通(ありがよふ)名庭乃宮者(なにはのみやは)不知魚取(いさなとり)海片就而(うみかたづきて)玉拾(たまひりふ)濱邊乎近見(はまへをちかみ)朝羽振(あさはふる)浪之聲摻(なみゆくこわさ)夕薙丹(ゆふなぎに)櫂合之聲所聆(かいのねきこゆ)暁之(あかときの)寐覺尓聞者(ねざめにきけば)海石之(いくりゆく)塩干乃共(しほひのむたに)汭渚尓波(なぎさには)千鳥妻呼(ちどりつまよぶ)葭部尓波(あしべには)鶴鳴動(たづなきうごき)視人乃(みるひとの)語丹為者(かたりにすれば)聞人之(きくひとの)視巻欲為(みまくほりする)御食向(みけむかふ)味原宮者(あぢふのみやは)雖見不飽香聞(みれどあかぬも)
あさ-は-ふ・る 【朝羽振る】:朝、鳥が羽ばたくように、風・波が寄せる。
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『聲』の字には少なくとも、聲(セイ)・ 聲(ショウ)・ 聲(こわ)・ 聲(こえ)の4種の読み方が存在するが、義訓として「おと」
摻:[音]サン、 セン、 シン[訓]とる
06 1063 反歌二首
06 1063 有通(ありがよふ)難波乃宮者(なにはのみやは)海近見(うみちかみ)漁童女等之(あまをとめらが)乗船所見(のれるふねみゆ)
06 1064 塩干者(しほふれば)葦邊尓摻(あしへにさわく)白鶴乃(あしたづの)妻呼音者(つまよぶこゑは)宮毛動響二(みやもどよむに)
動レ響→どよむ(響動)
06 1065 過敏馬浦時作歌一首[敏馬の浦に過ぎし時に作れる歌一首] 并短歌〔并せて短歌〕
06 1065 八千桙之(やちほこの)神乃御世自(かみのみよより)百船之(ももふねの)泊停跡(はつるとまりと)八嶋國(やしまくに)百船純乃(ももふなびとの)定而師(さだめてし)三犬女乃浦者(みぬめのうらは)朝風尓(あさかぜに)浦浪左和寸(うらなみさわき)夕浪尓(ゆふなみに)玉藻者来依(たまもはきよる)白沙(しらまなご)清濱部者(きよきはまへは)去還(ゆきがへり)雖見不飽(みれどもあかず)諾石社(うべしこそ)見人毎尓(みるひとごとに)語嗣(かたりつぎ)偲家良思吉(しのひけらしき)百世歴而(ももよへて)所偲将徃(しのはえゆかむ)清白濱(きよきしらはま)
06 1066 反歌二首
06 1066 真十鏡(まそかがみ)見宿女乃浦者(みぬめのうらは)百船(ももふねの)過而可徃(すぎてゆくべき)濱有七國(はまならなくに)
06 1067 濱清(はまぎよく)浦愛見(うらうるはしみ)神世自(かむよより)千船湊(ちふねのはつる)大和太乃濱(おほわだのはま)
06 1067 右廿一首田邊福麻呂之歌集中出也[右の二十一首【万1047-1067】は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ]
秋七月二日 太上天皇(元正)が智努離宮(現:和泉市府中)に行幸された。
七月六日 奴婢所有をめぐった争いに対する裁判の結果、奴婢は紀清人の所有となり、清人は上表して奴婢を良民としている。
太上天皇は仁岐川に行幸され、八日難波宮に還られた。
18 4056 太上皇御在於難波宮之時歌七首[太上皇の難波の宮に御在しし時の歌七首]清足姫天皇也〔清足姫の天皇なり〕]左大臣橘宿祢歌一首[左大臣橘宿祢の歌一首]
18 4056 保里江尓波(ほりえには)多麻之可麻之乎(たましかましを)大皇乎(おほきみを)美敷祢許我牟登(みふねこがむと)可年弖之里勢婆(かねてしりせば)
18 4057 御製歌一首 和[和へたまへり]
18 4057 多萬之賀受(たましかず)伎美我久伊弖伊布(きみがくいてふ)保理江尓波( ほりえには )多麻之伎美弖〃(たましきみてて)都藝弖可欲波牟(つぎてかよはむ)或云 多麻古伎之伎弖(たまこきしきて)
「ちふ」は「と(て)いふ」から母音が抜けて出来た言葉で、非常に古い時代からありましたが、 その後転呼で「チュー」と発音されるようになり、現在でも「なんちふことだ。」などと普通に使はれてゐます。
「とふ」「てふ」も同様にして出来た同じ意味の言葉ですが、和歌によく使はれた雅びな感じの語です。
18 4057 右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏并御製[右の一首の件の歌は、御舟の江を泝りて遊宴せし日に、左大臣奏れり。并せて御製]
18 4058 多知婆奈能(たちばなの)登乎能多知婆奈(とをのたちばな)夜都代尓母(やつよにも)安礼波和須礼自(あれはわすれじ)許乃多知婆奈乎(このたちばなを)
18 4059 河内女王歌一首
18 4059 多知婆奈能(たちばなの)之多泥流尓波尓(したでるにはに)等能多弖天(とのたてて)佐可弥豆伎伊麻須(さかみづきいます)和我於保伎美可母(わがおほきみか)
18 4060 粟田女王歌一首
18 4060 都奇麻知弖(つきまちて)伊敝尓波由可牟(いへにはゆかむ)和我佐世流(わがさせる)安加良多知婆奈(あからたちばな)可氣尓見要都追(かげにみえつつ)
18 4060 右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也[右の件の歌は、左大臣橘卿の宅に在して肆宴きこしめしし時の御歌なり。并せて奏れる歌]
18 4061 保里江欲里(ほりえより)水乎妣吉之都追(みをびきしつつ)美布祢左須(みふねさす)之津乎能登母波(しつをのともは)加波能瀬麻宇勢(かはのせまうせ)
18 4062 奈都乃欲波(なつのよは)美知多豆多都之(みちたづたづし)布祢尓能里(ふねにのり)可波乃瀬其等尓(かはのせごとに)佐乎左指能保礼(さをさしのぼれ)
18 4062 右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也[右の件の歌は、御船の綱手を以ちて江を泝りて遊宴したまひし日の作なり。伝へ誦める人は田辺史福麻呂これなり]
03 0481 悲傷死妻高橋朝臣作歌一首[死りし妻を悲傷びて作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕 03 0481 白細之(しろたへの)袖指可倍弖(そでさしかへて)靡寐(なびきねし)吾黒髪乃(あがくろかみの)真白髪尓(ましらがに)成極(なりなむきはみ)新世尓(あらたよに)共将有跡(ともにあらむと)玉緒乃(たまのをの)不絶射妹跡(たえじいいもと)結而石(むすびてし)事者不果(ことははたさず)思有之(おもへりし)心者不遂(こころはとげず)白妙之(しろたへの)手本矣別(たもとをわかれ)丹杵火尓之(にきびにし)家従裳出而(いへゆもいでて)緑兒乃(みどりこの)哭乎毛置而(なくをもおきて)朝霧(あさぎりの)髣髴為乍(おほになりつつ)山代乃(やましろの)相樂山乃(さがらかやまの)山際(やまのまに)徃過奴礼婆(ゆきすぎぬれば)将云為便(いはむすべ)将為便不知(せむすべしらに)吾妹子跡(わぎもこと)左宿之妻屋尓(さねしつまやに)朝庭(あしたには)出立偲(いでたちしのひ)夕尓波(ゆふべには)入居嘆會(いりゐなげかひ)腋挾(わきばさむ)兒乃泣毎(このなくごとに)雄自毛能(をのじもの)負見抱見(おひみうだきみ)朝鳥之(あさとりの)啼耳哭管(ねのみなきつつ)雖戀(こふれども)効矣無跡(しるしをなみと)辞不問(こととはぬ)物尓波在跡(ものにはあれど)吾妹子之(わぎもこが)入尓之山乎(いりにしやまを)因鹿跡叙念 (よかとぞおもふ)
03 0482 反歌
03 0482 打背見乃(うつせみの)世之事尓在者(せのじにあるも)外尓見之(よそにみし)山矣耶今者(やまをやいまは)因香跡思波牟 (よかとおもはむ) 03 0483 朝鳥之(あさとりの)啼耳鳴六(ねのみしなかむ)吾妹子尓(わぎもこに)今亦更(いままたさらに)逢因矣無 (あふよしをなみ)
03 0483 右三首七月廿日高橋朝臣作歌也 名字未審 但云奉膳之男子焉[右の三首は、七月二十日に高橋朝臣の作れる歌なり。名、字いまだ審らかならず。ただ、奉膳の男子といへり]
七月二十三日 天皇は次のように詔された。
四畿内(大和・山城・河内・摂津)・七道(東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海)諸国では、国別に正税四万束を割いて、国分寺・国分尼寺に各二万束を施入し、毎年出挙してその利息で長く造寺の費用に充てるように。
九月十五日 巡察使を畿内と七道に派遣した。従四位下の紀朝臣飯麻呂を機内使に、正五位下石川朝臣年足を東海道使、正五位上の平群朝臣広成を東山道使に、従五位下の石川朝臣東人を北陸道使に、正五位下の百済王全福を山陰道使に、外従五位下の大伴宿禰三中を山陽道氏に外従五位下の巨勢朝臣嶋村を南海道使に、従四位上の石上朝臣乙麻呂を西海道使に、外従五位下の大養徳宿禰小東人を西海道使の時間に任じた。
九月二十六日 天皇は八道の巡察氏らに次のように勅した。
今回派遣の巡察使らは、事の次第を検問する場合、恭仁・都の官司で事実の通り報ずるものは、たとえその罪が死罪にあたるものであっても、すべて許して論告してはならぬ。
九月二十七日 天皇の勅があって三十二か条を巡察使に頒布した。そして天皇は次のように勅した。
大体この頃聞くところによれば、諸国・諸郡の官人らは法令を正しく行わず、空しく巻物の中に放置して、法律を恐れはばかることもなく、欲しいままに自己の利益を求めて、そのため公民は年々疲弊し、私人の宅は日々に栄えていくという。朕の頼みとする臣下たちが、このようなことがあってよかろうか。
もし巡察使が人にへつらい事実を曲げる心が強く、官位の昇降に正当を欠くことがあれば、法律に基づき任免を明確にすべきである。行為に偏りがなく、党派も作らず、風俗を清らかにただしたならば、通常の順位よりも抜擢して高い地位を与えよう。
天下諸国の政治の実績の可否を検査するため、今巡察使を任命し、書道に派遣する。しかし近年任命した巡察使の訪問観察は十分詳しくないため、肝心の処遇に適切を欠き、ために官民ともに慎まず、強化が十分にいきわたっていない。そこで今、具体的に事の内容を定め、命じて巡察させる。
ただ恐れるのは官人が法律の条項に精通せず、多くの過ちを犯し、かえって法網にかかることがないかということである。そこで特別の恩恵を施して罪を犯した者も自ら心を改め新しい道を開けるようにする。
その国・郡の官司が、謀反・大逆を犯すなど通常の赦しでは許されない罪であっても、すべてみな免除して一切詮議しないことにする。ただし邪悪で虚位の心を抱いて、あえて事実を言わなければ、巡察使は特に注意して再三教え諭すようにせよ。もしそれでも固執してなお白状し罪に服さないならば、法によって罪を貸すようにせよ。天下のすみずみまで朕お心を知らしめるようにすべきである。
この九月の勅は、まるで新しい国家が誕生したように宣言しているのだが、おそらく長屋王のことが15年たっても、許しがたい失政だと思っていたのではないだろうか?
今までも、多くの流罪人に恩赦して、官位を与えたりしているのも納得ができるが、儒教と仏教の和合政治として慈悲政治を目指したのかもしれない。
十月六日 左大臣橘諸兄の家令で正六位上の余義仁に外従五位下を授けた。
十一日 太上天皇は珍努宮(泉佐野市日根野)と竹原井離宮(柏原市)に行幸した。
十三日 太上天皇は難波宮に還られた。
18 4063 後追和橘歌二首[後に追ひて橘に和へたる歌二首]
18 4063 等許余物能(とこよもの)己能多知婆奈能(このたちばなの)伊夜弖里尓(いやてりに)和期大皇波(わごおほきみは)伊麻毛見流其登(いまもみるごと)
18 4064 大皇波(おほきみは)等吉波尓麻佐牟(ときはにまさむ)多知婆奈能(たちばなの)等能乃多知婆奈(とののたちばな)比多底里尓之弖(ひたでりにして)
18 4064 右二首大伴宿祢家持作之
十一月十三日 甲賀寺に初めて廬舎那仏像の体骨柱を建てた。天皇は親しくその場に臨んで、自らの手でその縄をひかれた。その時様々な音楽が演奏された。四大寺(大安・薬師・元興・弘福)の多くの僧がみな集まり、布施が与えられたが、身分により差があった。
十四日 太上天皇が難波宮から甲賀宮(紫香楽宮)に行幸し、十七日に着かれた。