彷徨5年Ⅲ 紫香楽宮
天平15年(743年)には恭仁京にある藤原八束の邸にて宴を開いているが、この宴には当時内舎人であった大伴家持も出席しており、家持が詠んだ歌が『万葉集』に残されている。
『万葉集』巻3に、家持が安積親王の死を悼んで作った挽歌が収載されており、 十六年(744)甲申春二月、安積皇子の薨りましし時、内舎人大伴宿禰家持の作れる歌六首(475-480)うち、前半三首(475・6・7)二月三日作歌、後半三首(478・9・80)三月二十四日作歌とある。
17 3931 平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首[平群氏の女郎の、越中守大伴宿祢家持に贈れる歌十二首(天平十八・九年)]
17 3931 吉美尓餘里(きみにより)吾名波須泥尓(わがなはすでに)多都多山(たつたやま)絶多流孤悲乃(たえたるこひの)之氣吉許呂可母(しげきころかも)
17 3932 須麻比等乃(すまひとの)海邊都祢佐良受(うべつねさらず)夜久之保能(やくしほの)可良吉戀乎母(からきこひをも)安礼波須流香物(あれはするかも)
むべ【宜・諾 古形:うべ】:なるほど、確かに。
さらず/避らず:避けることができず、やむをえず。
17 3933 阿里佐利底(ありさりて)能知毛相牟等(のちもあはむと)於母倍許曽(おもへこそ)都由能伊乃知母(つゆのいのちも)都藝都追和多礼(つぎつつわたれ)
17 3934 奈加奈可尓(なかなかに)之奈婆夜須家牟(しなばやすけむ)伎美我目乎(きみがめを)美受比佐奈良婆(みずひさならば)須敝奈可流倍思(すべなかるべし)
17 3935 許母利奴能(こもりぬの)之多由孤悲安麻里(したゆこひあり)志良奈美能(しらなみの)伊知之路久伊泥奴(いしろくいでぬ)比登乃師流倍久(ひとのしるべく)
『安』の字には少なくとも、安(アン)・ 安んじる(やすんじる)・ 安い(やすい)・ 安んぞ(いずくんぞ)の4種の読み方が存在する。
『麻』の字には少なくとも、麻(マ)・ 麻(バ)・ 麻れる(しびれる)・ 麻(あさ)の4種の読み方が存在する。
安(アン)+ 麻(あさ)=(あ)
いち‐しろ・し【▽著し】 :「いちじるし」の古い形
17 3936 久佐麻久良(くさまくら)多妣尓之婆〃〃(たびにしばしば)可久能未也(かくのみや)伎美乎夜利都追(きみをやりつつ)安我孤悲乎良牟(あがこひをらむ)
17 3937 草枕(くさまくら)多妣伊尓之伎美我(たびいにしみが)可敝里許牟(かへりこむ)月日乎之良牟(つきひをしらむ)須邊能思良難久(すべのしらなく)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『伎』の字には少なくとも、伎(シ)・ 伎(ギ)・ 伎(キ)・ 伎(わざ)・ 伎(たくみ)の5種の読み方が存在する。
之(シ)+伎(シ)=(し)
17 3938 可久能未也(かくのみや)安我故非乎浪牟(あがこひをらむ)奴婆多麻能(ぬばたまの)欲流乃比毛太尓(よるのひもだに)登吉佐氣受之氐(ときさけずして)
17 3939 佐刀知加久(さとちかく)伎美我奈里那婆(きみがなりなば)古非米也等(こひめやと)母登奈於毛比此(もとなおもひし)安連曽久夜思伎(あれぞくやしき)
17 3940 餘呂豆代尓(よろづよに)許己呂波刀氣氐(こころはとけて)和我世古我(わがせこが)都美之手見都追(つみしてみつつ)志乃備加祢都母(しのびかねつも)
17 3941 鸎能(うぐひすの)奈久〃良多尓〃(なくくらたにに)宇知波米氐(うちはめて)夜氣波之奴等母(やけはしぬとも)伎美乎之麻多武(きみをしまたむ)
17 3942 麻都能波奈(まつのはな)花可受尓之毛(はなかずにしも)和我勢故我(わがせこが)於母敝良奈久尓(おもへらなくに)母登奈佐吉都追(もとなさきつつ)
17 3942 右件十二首歌者時〃寄便使来贈 非在一度所送也[右の件の歌は、時々便の使に寄せて来贈せたり。一度に送らえしにはあらず]
題辞は越中守に贈られたとあるが、その内容は左注にあるように、振り返ったものであり、家持は思い出のつもりで編集したのかもしれないので、ここに挟む。
恭仁に都があった頃に、大伴坂上大嬢が家持(718-785)の正妻になったかと思われるが、正六位上(時期不詳)となり、天平17年(745年) 正月7日:従五位下が授与された。
天平17年(745)
春正月一日 朝賀の儀式が中止された。俄かに新京(紫香楽宮)に遷都して、山を伐り拓き土地を造成し、宮殿を建造したのであるが、まだ垣や塀が出来上がらないので、代わりに垂れ幕などを張り巡らせた。
正月二十一日 天皇は詔して、大仏造立に功績のあった行基法師を大僧正に任じたが、狭い山中での新京建設や、大仏造立の工事は国民を疲弊させ、遷都の度に転居を繰り返した官人たちの間に政治に対する不満が高まった。
行基に対して好意的な聖武天皇と否定的な光明皇后の間にずれがあり、それがその後の政治対立にも影響を与えたとする説もある。
夏四月一日紫香楽京(みやこ)の市の西の山で火災があり、三日には寺(甲賀寺?)の東の山で火災があった。
八日には、伊賀国の真木山(三重県阿山町だが、紫香楽宮にも近い)で三、四日燃え続け、十一日には、紫香楽の宮城の東の山で火災があり、幾日も鎮火しなかったが、十三日夜、小雨があり、火勢が衰え鎮火した。
これらは、不満を持つ人々による放火が原因であったとされているが、原因不明の火災は神仏の祟りと考えられていたので、4月27日に天皇の徳を示すべく大赦と租税免除を決定するも、その当日に美濃付近を震源とする大地震が起こって、紫香楽宮でも大きく揺れた。
04 0581 大伴坂上家之大娘報贈大伴宿祢家持歌四首[大伴坂上家の大娘の大伴宿祢家持に報へ贈れる歌四首]
04 0581 生而有者(うまれても)見巻毛不知(みまくもしらず)何如毛(なにしかも)将死与妹常(しなむといもと)夢所見鶴(いめにみえつる)
み-まく 【見まく】:見るだろうこと。見ること。
なにしか‐も【何しかも】:「なにしか」を強めた言い方。なんでまあ…か。
04 0582 大夫毛(ますらをも)如此戀家流乎(かくこひけるを)幼婦之(たわやめの)戀情尓(こふるこころに)比有目八方(たぐひあらめやも
04 0583 月草之(つきくさの)徙安久(うつろひやすく)念可母(おもへかも)我念人之(あがもふひとの)事毛告不来(こともつげこぬ)
04 0584 春日山(かすがやま)朝立雲之(あさたつくもの)不居日無(ゐぬひなく)見巻之欲寸(みまくのほしき)君毛有鴨(きみもあるかも)
大伴坂上大嬢は家持の従妹にあたり、のち家持の正妻になった女性であるが、それに応える、家持の贈った歌は載っていないが、ここの歌は天平4年(732年)頃のもので、大嬢の歌としては初出であり、大嬢は10歳くらい(家持は15歳)なので、母の坂上郎女の代作とみられている。
04 0727 大伴宿祢家持贈坂上家大嬢歌二首[大伴宿禰家持の坂上家の大嬢に贈れる歌二首] 離絶數年復會相聞徃来〔離り絶ゆることあまた年にして、復会ひて相聞往来せり〕
04 0727 萱草(わすれぐさ)吾下紐尓(わがしたびもに)著有跡(つけたれど)鬼乃志許草(しこのしこくさ)事二思安利家理(じふしありけり)
04 0728 人毛無(ひともなき)國母有粳(くにもあらぬか)吾妹兒与(わぎもこと)携行而(たづさえゆきて)副而将座(たぐひてをらむ)
04 0729 大伴坂上大嬢贈大伴宿祢家持歌三首
04 0729 玉有者(たまならば)手二母将巻乎(てにもまかむを)欝瞻乃(うつせみの)世人有者(よのひとなれば)手二巻難石(てにまきがたし)
04 0730 将相夜者(あはむよは)何時将有乎(いつもあらむを)何如為常香(なにすとか)彼夕相而(そのよひあひて)事之繁裳(ことのしげきも)
04 0731 吾名者毛(わがなはも)千名之五百名尓(ちなのいほなに)雖立(たちぬとも)君之名立者(きみがなたたば)惜社泣(をしみこそなけ)
04 0732 又大伴宿祢家持和歌三首
04 0732 今時者四(いましはし)名之惜雲(なのをしけくも)吾者無(われはなし)妹丹因者(いもによりては)千遍立十方(ちへにたつとも)
04 0733 空蝉乃(うつせみの)代也毛二行(よやもふたゆく)何為跡鹿(なにすとか)妹尓不相而(いもにあはずて)吾獨将宿(あがひとりねむ)
04 0734 吾念(あがもひは)如此而不有者(かくてあらずは)玉二毛我(たまにもが)真毛妹之(まこともいもが)手二所纒乎(てにまかれむを)
04 0735 同坂上大嬢贈家持歌一首
04 0735 春日山(かすがやま)霞多奈引(かすみたなびき)情具久(こころぐく)照月夜尓(てれるつくよに)獨鴨念(ひとりかもねむ)
04 0736 又家持和坂上大嬢歌一首
04 0736 月夜尓波(つくよには)門尓出立(かどにいでたち)夕占問(ゆふけとひ)足卜乎曽為之(あうをましゆく)行乎欲焉(ゆかまくをほり)
04 0737 同大嬢贈家持歌二首
04 0737 云々(かにかくに)人者雖云(ひとはいふとも)若狭道乃(わかさぢの)後瀬山之(のちせのやまの)後毛将會君(のちもあはむき)
04 0738 世間之(よのなかの)苦物尓(くるしきものに)有家良之(ありけらし)戀二不勝而(こひにあへずて)可死念者(よきしとおもふ)
04 0739 又家持和坂上大嬢歌二首
04 0739 後湍山(のちせやま)後毛将相常(のちもあはむと)念社(おもへこそ)可死物乎(しぬべきものを)至今日毛生有(しいけふもおう)
04 0740 事耳乎(ことのみを)後毛相跡(のちもあはむと)懃(ねもころに)吾乎令憑而(あれをたのめて)不相可聞(あはざらむかも)
04 0741 更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首
04 0741 夢之相者(いめゆきし)苦有家里(くるしかりけり)覺而(おどろきて)掻探友(かきさぐれども)手二毛不所觸者(てにもふれねば)
04 0742 一重耳(ひとへのみ)妹之将結(いもがむすばむ)帶乎尚(おびをすら)三重可結(みへむすぶべく)吾身者成(あがみはなりぬ)
04 0743 吾戀者(あがこひは)千引乃石乎(ちびきのいはを)七許(ななばかり)頚二将繋母(くびにかけむも)神之諸伏(かみのまにまに)
04 0744 暮去者(ゆふさらば)屋戸開設而(やどあけまけて)吾将待(あれまたむ)夢尓相見二(いめにあひみに)将来云比登乎(こむいふひとを)
04 0745 朝夕二(あさよひに)将見時左倍也(みむときさへや)吾妹之(わぎもこが)雖見如不見(みれどみぬごと)由戀四家武(なほこほしけむ)
04 0746 生有代尓(いけるよに) 吾者未見(あはいまだみず)事絶而(ことたえて)如是憾怜(かくおもしろく)縫流囊者(ぬへるふくろは)
04 0747 吾妹兒之(わぎもこが)形見乃服(かたみのころも)下著而(したにきて)直相左右者(ただあふまでは)吾将脱八方(われぬかめやも)
04 0748 戀死六(こひしなむ)其毛同曽(そこもおなじぞ)奈何為二(なにせむに)人目他言(ひとめひとごと)辞痛吾将為(じっとわがせむ)
04 0749 夢二谷(いめにだに)所見者社有(とあらはれしも)如此許(かくばかり)不所見有者(みえずしあるは)戀而死跡香(こひてしねとか)
04 0750 念絶(おもひたえ)和備西物尾(わびにしものを)中〃荷(なかなかに)奈何辛苦(なにかくるしく)相見始兼(あひみそめけむ)
04 0751 相見而者(あひみては)幾日毛不経乎( いくかもへぬを)幾許久毛(ここだくも)久流比尓久流必(くるひにくるひ)所念鴨(おもほゆるかも)
04 0752 如是許(かくばかり)面影耳(おもかげのみに)所念者(おもほえば)何如将為(いかにかもせむ)人目繁而(ひとめしげくて)
04 0753 相見者(あひみてば)須臾戀者(しましもこひは)奈木六香登(なぎむかと)雖念弥(おもへどいよよ)戀益来(こひまさりけり)
04 0754 夜之穂杼呂(よのほどろ)吾出而来者(わがいでてくれば)吾妹子之(わぎもこが)念有四九四(おもへりしくし)面影二三湯(おもかげにみゆ)
04 0755 夜之穂杼呂(よのほどろ)出都追来良久(いでつつくらく)遍多數(たびまねく)成者吾胸(なればあがむね)截焼如(たちやくごとし)
5月に入っても余震が続いたが、天災も天皇の不徳・悪政にたいする天の咎めの表れと考えられていたので、紫香楽の新京建設が悪政であるという見方が一挙に強まった。
動揺した聖武は5月2日に太政官の官人に「どこを都とすべきか」と問うたところ全員が「平城を都とすべし」と答えた。
紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されていたのである。
16 3807 安積香山(あさかやま)影副所見(かげさへみゆる)山井之(やまのゐの)淺心乎(あさきこころを)吾念莫國(わはおもなくに)
おも‐な・し【面無】:恥ずかしく、人に合わせる顔がない。面目ない。おもはゆい。
16 3807 右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日[右の歌は、伝へて云はく「葛城王の陸奥国に遣(つかは)されし時に、国司の祗承緩怠なること異に甚し。時に王の意に悦びず、怒の色面に顕る。 飲饌を設けども、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流びたる娘子なり。 左の手に觴(さかずき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解けて悦びて、楽飲すること終日なりき」といへり]
奈迩波ツ尓(なにはつに)佐久夜己能波奈(さくやこのはな)布由己母理(ふゆこもり)伊麻波々流倍等(いまははるべと)佐久夜己乃波奈(さくやこのはな)
この難波津の歌(なにわづのうた)は萬葉集にはなく、『古今和歌集』の仮名序で「おほささきのみかどをそへたてまつれるうた」として紹介されている、王仁の作とされる和歌である。
すなわち、「なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばゝうねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは歌のちゝはゝのやうにてぞ、(て)ならふ人のはじめにもしける」『古今和歌集 仮名序』
どのようなつもりで、紀貫之がこのように綴ったのかわからないが、紫香楽宮から出土した、この二つの歌には、とりわけ『なにはつの歌』には、元正太上天皇と橘諸兄の想いが、そして『あさかの歌』には、家持と八束にとって、それぞれの父であった旅人と房前の無念が蘇ったかもしれない。
というのも、長屋王が殺されたと同じように、事情は違うかもしれないが、親王も藤原仲麻呂によって殺害されたという噂が耳に入っていたからである。