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愛別離苦

悲歎俗道假合即離易去難留詩一首 并序[俗(よ)の道の、仮(かり)に合ひ即ち離れ、去り易く留まり難(かた)きを悲しび歎ける詩一首并せて序](0897)

竊以 釋慈之示教 謂釋氏慈氏 先開三歸五戒 謂歸依佛法僧 而化法界 謂一不敘生二不偸盗三不邪婬四不妄語五不飲酒 周孔之垂訓 前張三綱五教 謂君臣父子夫婦 以濟邦國 謂父義母慈兄友弟順子孝 故知 引導雖二 得悟惟一也 [竊(ひそか)に以(おもはか)るに、釋・慈の示教(しきょう)は(釋氏と慈氏を謂ふ)、 先に三歸(佛法僧に歸依するを謂ふ) 、五戒を開きて、法界を化(やは)し(一に殺生せず、二に愉盗(とうとう)せず、三に邪婬せず、四に妄語せず、五に飲酒せぬことを謂ふ)、 周・孔の垂訓(すいくん)は、前(さき)に三綱(君臣・父子・夫婦を謂ふ) 五教を張りて、以ちて邦國(くに)を濟(すく)ふ(父は義にあり、母は慈にあり、兄は友にあり、弟は順にあり、子は孝なるを謂ふ)故知る、引導は二つなれども、悟(さとり)を得るは惟(これ)一つなるを] 但以世無恒質 所以陵谷更變 人無定期 所以壽夭不同 撃目之間 百齡已盡 申臂之頃 千代亦空 旦作席上之主 夕為泉下之客 白馬走来 黄泉何及 隴上青松空懸信劔 野中白楊但吹悲風 是知 世俗本無隠遁之室 原野唯有長夜之臺 先聖已去 後賢不留 如有贖而可免者 古人誰無價金乎 未聞獨存遂見世終者 所以維摩大士疾玉體于方丈 釋迦能仁掩金容于雙樹 内教曰 不欲黒闇之後来 莫入徳天之先至 徳天者生也 黒闇者死也 故知 生必有死 〃若不欲不如不生 况乎縦覺始終之恒數 何慮存亡之大期者也[但、以(おもはか)るに世に恒(つね)の質無し。所以、陵(みね)と谷と更に變り、人に定まれる期(ご)無し。所以、壽(じゆ)と夭(よう)と同(とも)にせず。目を撃つの間に、百齡(ももよ)已に盡き、臂を申(の)ぶる頃に、千代も亦空し。旦(あした)には席上の主と作れども、夕(ゆふべ)には泉下の客と為る。白馬走り來り、黄泉には何にか及(し)かむ、隴上(ろうじょう)の青き松は、空しく信劍を懸け、野中の白き楊は、但、悲風に吹かる。是に知る。世俗に本より隱遁の室(いへ)無く、原野には唯長夜の臺(うてな)有るのみなるを。先聖已に去り、後賢も留らず。如(も)し贖(あがな)ひて免るべき有らば、古人誰か價(あたい)の金(くがね)無けむ。未だ獨り存へて、遂に世の終(をはり)を見る者あるを聞かず。所以、維摩大士も玉體を方丈に疾(や)ましめ、釋迦能仁も金容(こんよう)を雙樹(そうじゅ)に掩(おほ)ひたまへり。内教に曰はく、黑闇の後に來るを欲(ねが)はずは、德天の先に至るに入ること莫(な)かれ。といへり(德天とは生なり、黑闇とは死なり)。故(かれ)知りぬ、生るれば必す死あるを。死をもし欲(ねが)はずは生れぬに如かず。況むや縱(よ)し始終の恒數(こうすう)を覺るとも、何そ存亡の大期(たいご)を慮(おもひはか)らむ]  

 

俗道變化猶撃目   俗道の變化は猶ほ目を撃ち  

人事経紀如申臂   人事の經紀は臂を申ぶるが如し  

空与浮雲行大虚   空しく浮雲と大虚を行き  

心力共盡無所寄   心力共に盡きて寄る所無し

 

どう‐ぞく〔ダウ‐〕【道俗】:仏道に入っている人と俗世間の人。

けい‐き【経紀】: 国を治めるための法と秩序。 

 

「維摩大士も玉體を方丈に疾(や)ましめ、釋迦能仁も金容(こんよう)を雙樹(そうじゅ)に掩(おほ)ひたまへり」とあるが、この一文にこそ、憶良は十分な満足を得たのかもしれない。

 そしてまた、朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説き、併せて困窮者の救済や社会事業を指導した行基は、憶良にとっては生き仏

のような信頼を預けたのかもしれない。 

05 0897 老身重病経年辛苦及思兒等歌七首 [俗道の変化は猶ほ目を撃つが如く、人事の経紀は臂を申ぶるが如し。空しく浮雲と大虚を行き、心力共に尽きて寄る所なし。 老いたる身に病を重ね、年を経て辛苦み、及、児等を思へる歌七首]長一首 短六首〔長一首短六首〕

05 0897 霊剋(たまきはる)内限者(うちのかぎりは)謂瞻浮州人壽一百二十年也〔瞻浮州の人の寿命は百二十年であることをいう〕平氣久(たひらけく)安久母阿良牟遠(あくもあらむを)事母無(こともなく)裳無母阿良牟遠(もむもあらむを)世間能(よのなかの)宇計久都良計久(うけくつらけく)伊等能伎提(いとのきて)痛伎瘡尓波(いたききずには)鹹塩遠(からしほを)潅知布何其等久(そそくちふがごとく)益〃母(ますますも)重馬荷尓(おもきうまにに)表荷打等(うはにうつと)伊布許等能其等(いふことのごと)老尓弖阿留(おしてある)我身上尓(あがみのうへに)病遠等(やまひをと)加弖阿礼婆(くはへてあれば)晝波母(ひるのひは)歎加比久良志(なげかひくらし)夜波母(よるのひは)息豆伎阿可志(いきづきあかし)年長久(としながく)夜美志渡礼婆(やみしわたれば)月累(つきかさね)憂吟比(うれへさまよひ)許等〃〃波(ことことは)斯奈〃等思騰(しなとおもへど)五月蝿奈周(さばへなす)佐和久兒等遠(さわくこどもを)宇都弖〃波(うつてては)死波不知(しぬはしらずも)見乍阿礼婆(みつなれば)心波母延農(こころはもえぬ)可尓可久尓(かにかくに)思和豆良比(おもひわづらひ)祢能尾志奈可由(ねのみしなかゆ)

 

も・む【×揉む】:気をいらいらさせる。いらだたせる。

『波』の字には少なくとも、波(ヒ)・ 波(ハ)・ 波(なみ)の3種の読み方が存在する。

さ‐ばえ〔‐ばへ〕【五=月×蠅】:陰暦5月ごろの群がり騒ぐ蠅。《季 夏》

『乍』の字には少なくとも、乍(ジャ)・ 乍(サク)・ 乍(サ)・ 乍ら(ながら)・ 乍ち(たちまち)の5種の読み方が存在する。

 

05 0898 反歌

05 0898 奈具佐牟留(なぐさむる)心波奈之尓(こころはなしに)雲隠(くもがくり)鳴徃鳥乃(なきゆくとりの)祢能尾志奈可由(ねのみしなかゆ)

05 0899 周弊母奈久(すべもなく)苦志久阿礼婆(くるしくあれば)出波之利(いではしり)伊奈〃等思騰(いなとおもへど)許良尓佐夜利奴(こらにさやりぬ )

05 0900 富人能(とみひとの)家能子等能(いへのこどもの)伎留身奈美(きるみなみ)久多志須都良牟(くたしすつらむ)絁綿良波母(きぬわたらはも )

05 0901 麁妙能(あらたへの)布衣遠陁尓(ぬのきぬをだに)伎世難尓(きせかてに)可久夜歎敢(かくやなげかむ)世牟周弊遠奈美(せむすべをなみ)

05 0902 水沫奈須(みなわなす)微命母(もろきいのちも)栲縄能(たくなはの)千尋尓母何等(ちひろにもがと)慕久良志都(ねがひくらしつ )

05 0903 倭文手纒(しつたまき)數母不在(かずにもあらぬ)身尓波在等(しはあれど)千年尓母何等(ちとせにもがと)意母保由留加母(おもほゆるかも )

 

しづたまき【倭文手纏 / 倭文手纏き】:「いやしき」、「数にもあらぬ」にかかる枕詞。

『身』の字には少なくとも、身(シン)・ 身(ゲン)・ 身(ケン)・ 身(カン)・ 身(み)の5種の読み方が存在する。

『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。

 

05 0903 去神龜二年作之 但以類故更載於玆〔去にし神亀二年(725:65歳)に作れり。ただ、類を以ちての故に、更に茲に載す〕天平五年六月丙申朔三日戊戌作[天平五年(733:73歳)六月丙申の朔にして三日戊戌の日に作れり]

 

神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向しており、その前年の事であり、そしてまた、天平5年(733年)に作ったとある。

しかし、この歌だけでなく、憶良の子とはだれを指すのであろうかと思い、現在よりも医療が遅れ衛生環境が悪かった奈良時代には、疫病が何度も蔓延した。

当時の人達は生まれた時から死ぬまで、呪い(まじない)に頼っていた( 森郁夫・甲斐弓子 『平城京を歩く』)と言い、その呪いの一つを表すものに、胞衣壺(えなつぼ)というものがある。

胞衣壺とは赤ちゃんの胎盤を入れた土器で、平城京に住んでいた奈良時代の官人たちが子どもの成長を願って土の中に埋めるものであるが、生まれた子供が元気に育つと信じられていたものだ。

憶良にとっては、【兒等】は単なる子供たちの事でなく、日本の未来を託す青年たちへの事であり、それを歌(言葉・文字)で記したのであろう。 

05 0904 戀男子名古日歌三首[男子の、名は古日に恋ひたる歌三首]

05 0904 長一首 短二首

05 0904 世人之(よのひとの)貴慕(たふとびねがふ)七種之(ななくさの)寳毛我波(たからもわれは)何為(なにせむに)和我中能(わがなかによく)産礼出有(うまれいでたる)

 

『能』の字には少なくとも、能(ノウ)・ 能(ナイ)・ 能(ドウ)・ 能(ダイ)・ 能(タイ)・ 能(グ)・ 能(キュウ)・ 能くする(よくする)・ 能くよく・ 能き(はたらき)・ 能う(あたう)の11種の読み方が存在する。

 

白玉之(しらたまの)吾子古日者(あがこふるひは)明星之(あかほしの)開朝者(あくるあしたは)敷多倍乃(しきたへの)登許能邊佐良受(とこのべさらず)立礼杼毛(たてれども)居礼杼毛(いすわりをるも)登母尓戯礼(ともにたわむれ)

 

さら-ず 【去らず】:離れないで。放さないで。

居:[音]コ(呉) キョ(漢) キ(唐)[訓]い-る(表内)お-る、ぐ、すえ、おき(表外) 尓:[音]ニ(呉) ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ

『戯』の字には少なくとも、戯(コ)・ 戯(ゲ)・ 戯(ギ)・ 戯(キ)・ 戯れる(たわむれる)・ 戯ける(たわける)・ 戯れる(ざれる)の7種の読み方が存在する。

 

夕星乃(ゆふつつの)由布弊尓奈礼婆(ゆふべになれば)伊射祢余登(いざねよと)手乎多豆佐波里(てをたづさはり)父母毛(ちちははも)表者奈佐我利(うへはなさがり)三枝之(さきくさの)中尓乎祢牟登(なかにをねむと)愛久(うつくしく)志我可多良倍婆(しがかたらへば)何時可毛(いつしかも)比等〃奈理伊弖天(ひとなりいでて)安志家口毛(あしけくも)与家久母見武登(よけくもみむと)大船乃(おほぶねの)於毛比多能無尓(おもひたのむに)於毛波奴尓(おもはぬに)横風乃(よこしまかぜの)尓布敷可尓(にふふかに)覆来礼婆(おほひきぬれば)世武須便乃(せむすべの)多杼伎乎之良尓(たどきをしらに)志路多倍乃(しろたへの)多須吉乎可氣(たすきをかける)麻蘇鏡(まそかがみ)弖尓登利毛知弖(てにとりもちて)天神(あまつかみ)阿布藝許比乃美(あふぎこひのみ)地祇(くにつかみ)布之弖額拜(ふしてぬかつき)可加良受毛(かからずなるも)

 

ゆう‐つづ〔ゆふ‐〕【夕▽星/長=庚】:《古くは「ゆうづつ」とも》夕方、西の空に見える金星。宵の明星 (みょうじょう) 

 

可賀利毛(かかりとも)神乃末尓麻尓等(かのまにまにと)立阿射里(たちあざり)我例乞能米登(あれこひのめど)須臾毛(しましくも)余家久波奈之尓(よけくはなしに)漸〃(やくやくに)可多知都久保里(かたちつくほり)朝〃(あさなさな)伊布許登夜美(いふことのやみ)霊剋(たまきはる)伊乃知多延奴礼(いのちたえぬれ)立乎杼利(たちをどり)足須里佐家婢(あしすりさけび)伏仰(ふしあふぎ)武祢宇知奈氣吉(むねうちなげき)手尓持流(てにもてる)安我古登婆之都(あがことばしつ)世間之道(よのなかのみち)                                                      

 

05 0905 反歌

05 0905 和可家礼婆(わかければ)道行之良士(みちゆきしらじ)末比波世武(まひはせむ)之多敝乃使(したへのつかひ)於比弖登保良世(おひてとほらせ)

05 0906 布施於吉弖(ふせおきて)吾波許比能武(あれはこひのむ)阿射無加受(あざむかず)多太尓率去弖(ただにゐゆきて)阿麻治思良之米 (あまぢしらしめ )

 

05 0906 右一首作者未詳 但以裁歌之體似於山上之操載此次焉[右の一首は、作者が明らかでない。但し、歌の作り方が山上憶良の態度に似ているので、この順序にのせた]

憶良にとっても、結構、四苦八苦の人生だったかもしれないが、この四苦八苦も、12の苦しみではなく、全部で8の苦しみということなのだが、先とは別に残りの4つの苦しみとは、愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五蘊盛苦(ごうんじょうく)である。

その最後にあたっては、何ら苦しみもなく、【万978】は、まるで辞世の歌のであるかのように、房前に遺したものかもしれない。

06 0978 山上臣憶良沈痾之時歌一首 [山上臣憶良の痾に沈みし時の歌一首]

06 0978 士也母(をとこやも)空應有(うつろあるべし)萬代尓(よろづよに)語續可(かたりつぐべき)名者不立之而 (なはたてずして)

06 0978 右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原朝臣八束使河邊朝臣東人令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌 [右の一首は、山上憶良臣の痾に沈みし時(733)に、藤原朝臣八束、河辺朝臣東人をして疾める状を問はしむ。 ここに憶良臣、報の語已に畢り、須くありて涕を拭ひ、悲しび嘆きて、この歌を口吟へり]

 

藤原 真楯(ふじわら の またて:715-766)の初名が八束(やつか)で、藤原北家の祖・藤原房前の三男であれば、行基から憶良の様子を聞き、おそらく房前が、八束に言づけたのであろう。天平2年(730年)8月に弟の宇合・麻呂が参議に昇進して議政官に加わり藤原四子政権が確立するのだが、それ以来、藤原氏における房前の地位は変わらず、相対的に低下しており、もはや、長屋王や旅人とともに抱いた、理想としていた政治への関心はなかった。

 

天平3年8月・[藤原武智麻呂政権]  

知太政官事  舎人親王  

大納言    藤原武智麻呂  

中納言    阿倍広庭  

参議     藤原房前   

 〃     藤原宇合   

 〃     多治比県守   

 〃     藤原麻呂  

 〃     鈴鹿王   

 〃     葛城王   

 〃     大伴道足

武智麻呂は、天平2年(730年)8月に弟の宇合・麻呂を参議に昇進させて議政官に加えることで藤原四子政権(藤原武智麻呂政権)を確立させることになる。

そして翌天平3年(731年)7月には、大納言・大伴旅人の薨去によって、実質的に太政官の首班となり、天平6年(734年)には従二位・右大臣に至るのだ。

その父不比等からの系図では、長男:藤原武智麻呂 (680-737:南家祖)・次男:藤原房前 (681-737:北家祖)・三男:藤原宇合 (694-737:式家祖) は同母、そして四男:藤原麻呂 (695-737:京家祖) は異母弟なのだが、房前は庶子とされている文献もある。

もともと房前には、政治的野心などはなかったが、右大臣・長屋王と共にあっての房前でありつづけたかったに違いない。