武智麻呂政権 Ⅰ
神亀6年(729年) 3月4日:中納言・正三位の藤原朝臣武智麻呂を大納言に任じ、 四月三日には次のように詔した。
内外の文官・武官を全国の人民のうち、異端のことを学び、幻術を身につけ、種々のまじない・呪いによって、ものの命を損ない傷つけるものがあれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。もし山林に隠れ住み、偽って仏性を修業すると言い、自ら教習して業を教え伝え、呪符を書いて封印し、薬を調合して毒を造り、様々な妖しげなことをして、勅命の禁ずることに違反する者についても、その罪は同罪である。
その妖術・妖言の書物については、この勅が出てから五十日以内に自首せよ。もし期限以内に自首せず、のちになって告発された場合は、主犯・従犯を問わずすべて流罪にするであろう。
天平二年四月十六日、聖武天皇は次のように詔した。
聖人の大きな宝は位である(易経にある言葉)。この位をよりどころとして聖人は日・月に向かい民の風俗を聞いた。財を管理し正邪をただすのを義という(易経)。この故に聖人は衣装を定めて時代の風俗を整えた。このように重要な風俗の安定ということは朕一人にかかっている。今後、全国の扶助の衣服は、旧制を改めて新制を用いよ。よくよくこの重要なことを忘れず職務に勤めよ。公卿および百官の人々は風俗を慎まねばならぬ。
【『易経』の中から名言や格言】(『易経』とは、儒教の「五経」の書に数えられる)
①堅き氷は霜を履むより至る(霜を踏む季節がくれば、次は堅い氷が張る冬がやってくるとの意から、何事もその兆候を早くみつけ、準備せよという意味です)
②君子は豹変す(立派な人物は、自分の過ちに気づけば即座にそれを改めるという意味です)
③同気相求める(同じ気質のものはおのずから親しくなり、自然に寄り集まるという意味です) ④積善の家には必ず余慶あり(善行を積み重ねた家には、必ず幸せが訪れるという意味です)
⑤家を正しくして天下定まる(家庭を正しく治めればそれが波及して社会全体が治まるとの意から、すべての物事は内から外に及んで行くという意味です)
⑥辞を修めその誠を立つるは、業に居るゆえんなり(誠実に思いを伝えるには、自分の業(ぎょう)に正しく身を置いていることが大切だという意味です。「修辞」とは簡潔で力強い言葉をいい、上に立つものはこれを身につけなければならないとしています)
⑦窮すれば通ず(困難に行き詰まっていよいよどうにもならなくなると、切る抜ける道が案外みつかるものだとする意味です)
⑧治に居て乱を忘れず(世の中が平和であっても、戦乱の時に備えて準備を怠らないようにせよという意味です)
天平2年(730年)九月二十九日次のように詔した。
京に近い左側(東方)の丘に、多人数を集めて妖しげなことを言い、衆人を惑わす者(行基集団)がある。多い時では一万人、少ない時でも数千人だという。これらの者は甚だしく国法に背いている。もしこのままぐずぐずしていると、人々の受ける害はますますひどくなるだろう。今後はこのようなことを許してはならぬ。(『続日本紀』)
06 0962 天平二年庚午 勅遣擢駿馬使大伴道足宿祢時歌一首[天平二年庚午(11月)に、勅して擢駿馬使大伴道足宿祢を遣はしし時の歌一首]
06 0962 奥山之(おくやまの)磐尓蘿生(いはにこけむし)恐毛(かしこくも)問賜鴨(とひたまふかも)念不堪國(おもひあへなく)
06 0962 右 勅使大伴道足宿祢饗于帥家 此日會集衆諸相誘驛使葛井連廣成言須作歌詞 登時廣成應聲即吟此歌[右は、勅使大伴道足宿祢を帥の家に饗す。この日、会集せる衆諸の、駅使葛井連広成を相誘ひて「歌詞を作るべし」と言ふ。 登時広成声に応へて、この歌を吟へり]
翌天平3年(731年)正月には従二位に昇進した旅人であったが、まもなく病を得て7月25日に薨去(享年67)。
天平時代の萬葉集は、【旅人の挽歌】(万454~459省略)から始まったというべきかもしれない。
天平三年八月七日、天皇は次のように詔した。
この頃行基法師に付き従っている優婆塞・優婆夷(在俗のまま戒を受けた男女)らで、法の定めに従って修業しているもののうち、男は六十一歳以上、女は五十五歳以上の者は、すべて入道することを許し、それ以外の、路上で托鉢を行うものは、所管の官司に連絡して厳しく絡め捕らえよ。ただし父母夫の喪に遇って、一年以内の修業をしているものは論外である。
おそらく、このころに、行基との和解が成立したのかもしれないが、それは武智麻呂の功績というより、長屋・房前の灌漑政策を引き継いだ形であったのであろう。
天平3年(730年) 9月27日:大納言正三位の藤原朝臣武智麻呂に太宰の帥を兼任させた。
天平4年(732年)2月22日、阿倍 広庭(あべ の ひろにわ)薨去(享年74)したのだが、長屋王の変では、議政官が長屋王糾問に参画する中で広庭と房前の二人のみがこれに加わらず、変後の論功行賞にも与からなかったという。
『懐風藻』には五言詩「春日宴に侍す」「秋日長王(長屋王)が宅にて新羅の客を宴す」2首を残している。
また、『万葉集』に和歌4首があり、時代考証は合わないだろうが、その歌を広庭の供養として載せておく。
03 0302 中納言安倍廣庭卿歌一首
03 0302 兒等之家道(こらがみち)差間遠焉(しばしとほきを)野干玉乃(ぬばたまの)夜渡月尓(よわたるつきに)競敢六鴨(きそひあはむか)
差(シ)+間(しばし)=(しばし)
『焉』の字には少なくとも、焉(オン)・ 焉(エン)・ 焉(イ)・ 焉(これ)・ 焉に(ここに)・ 焉んぞ(いずくんぞ)の6種の読み方が存在する。
03 0370 安倍廣庭卿歌一首
03 0370 雨不零(あめふらず)殿雲流夜之(とのぐもるよの)潤濕跡(うるおいと)戀乍居寸(こひつつをりき)君待香光(きみまちがてり)
との‐ぐも・る【との曇る】:空一面に曇る。たなぐもる。
『濕』の字には少なくとも、濕(トウ)・ 濕(ショウ)・ 濕(シュウ)・ 濕(シツ)・ 濕(ゴウ)・ 濕る(しめる)・ 濕す(しめす)・ 濕す(うるおす)・ 濕い(うるおい)の9種の読み方が存在する。
『光』の字には少なくとも、光(コウ)・ 光(ひかり)・ 光る(ひかる)の3種の読み方が存在するが義訓(てる)
がてり:…を兼ねて。…のついでに。…ながら。
06 0975 中納言安倍廣庭卿歌一首
06 0975 如是為管(かくしつつ)在久乎好叙(あらくをよみぞ)霊剋(たまきはる)短命乎(いのちみじかを)長欲為流(ながくほりする)
あら・ける【▽散ける/粗ける】:[文]あら・く「 離れ離れになる」 短命乎→短レ命乎(いのちみじかを)
08 1423 中納言阿倍廣庭卿歌一首
08 1423 去年春(こぞのはる)伊許自而殖之(いこじてうゑし)吾屋外之(わがやどの)若樹梅者(わかきのうめは)花咲尓家里(はなさきにけり)
天平四年秋七月五日、天皇は次のように詔した。
春より日照りが激しく、夏まで雨が降らなかった。すべての川は水が減り五穀は痩せた。これは誠に朕の不徳のせいである。人民に何の罪があって、こんなに甚だしく灼け萎えることがあろうか。京や諸国に命じて、天神・地祇・名山・大川に長官自ら幣帛(みてぐら)を奉らせよ。
天平五年五月二十六日、次のように詔した。
皇后はすでに長い間病床にある。様々な治療をしたが、まだよくなるところがない。この煩いの苦しみを思うと寝ることも食べることもそれどころではない。全国の大赦を行ってこの病から皇后を救いたい。
06 0976 五年癸酉超草香山時神社忌寸老麻呂作歌二首[五年(733)癸酉、草香山を越えし時に、神社忌寸老麻呂の作れる歌二首]
06 0976 難波方(なにはがた)潮干乃奈凝(しほひのなごり)委曲見(よくみてむ)在家妹之(いへなるいもが)待将問多米(まちとはむため)
06 0977 直超乃(ただこえの)此徑尓弖師(このみちにてし)押照哉(おしてるや)難波乃海跡(なにはのうみと)名附家良思蒙(なづけけらしも)
6年(734年) 正月17日:従二位の藤原朝臣武智麻呂を右大臣に任じた。
天平六年(734)三月十日、天皇は難波宮に行幸された。
06 0997 春三月幸于難波宮之時歌六首
06 0997 住吉乃(すみのえの)粉濱之四時美(こはまのしじみ)開藻不見(あけもみず)隠耳哉(こもりてのみや)戀度南(こひわたりなむ)
06 0997 右一首作者未詳
06 0998 如眉(まよのごと)雲居尓所見(くもゐにみゆる)阿波乃山(あはのやま)懸而榜舟(かけてこぐふね)泊不知毛(とまりしらずも)
06 0998 右一首船王作
06 0999 従千沼廻(ちぬみより)雨曽零来(あめぞふりくる)四八津之白水郎(しばしあま)綱手乾有(つなてほしたり)沾将堪香聞(ぬれあへむかも)
06 0999 右一首遊覧住吉濱還宮之時道上守部王應 詔作歌[右の一首は、住吉の浜に遊覧して、宮に還り給ひし時に、道の上にて、守部王の詔に応へて作れる歌なり]
06 1000 兒等之有者(こらゆくも)二人将聞乎(ふたりきかむを)奥渚尓(おきつしに)鳴成多頭乃(なくなるたづの)暁之聲(あかときのこゑ)
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。
『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。
有つ(もつ)+者(もの)=(も)
『渚』の字には少なくとも、渚(ショ)・ 渚(みぎわ)・ 渚(なぎさ)の3種の読み方が存在する。
尓:[音]ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ
06 1000 右一首守部王作
06 1001 大夫者(ますらをは)御獵尓立之(みかりにたたし)未通女等者(をとめらは)赤裳須素引(あかもすそびく)清濱備乎(きよきはまびを)
06 1001 右一首山部宿祢赤人作
06 1002 馬之歩(うまのほに)押止駐余(おさへとどめよ)住吉之(すみのえの)岸乃黄土(きしのはにふに)尓保比而将去(にほひてゆかむ)
06 1002 右一首安倍朝臣豊継作
三月十七日天皇は難波から出発して竹原井頓宮(大和国から竜田山を越えた河内国側の景勝地)に宿泊された。
四月七日大きな地震があって天下の人々の家が壊れた。
四月十七日次のように詔した
地震の災害はおそらく政治にかけたところがあったことによるものであろう。そこで諸官司はその職務をよく勤め治めるよう。今後もし改め励まなかったら、その状況に応じて官位を下(おろ)すことであろう。
四月二十一日、天皇は次のように詔した。
この頃天地の災難は異常である。思うにこれは朕が人民をいつくしみ育てる徳化において、欠けたところがあったのであろう。そのためいま、特に使者を遣わして、汝らの悩み苦しむ所を問わせる。よろしく朕の心をよく理解するように!
天平六年五月二十八日太政官(武智麻呂)は次のように奏上した。
左右の京に人々が、夏季に徭銭(ようせん)納めるのに、その銭を用意することが容易ではありません。そこで正丁(せいてい)と次丁(じてい)は、九月から納入を始めることとし、少丁は納めなくてもよいことにしたいと思います。また天平四年の旱魃以来、人民は貧乏しています。それで一年限りで左右の京・芳野・和泉・四畿内の人々に、大税(おおちから)を無利息かしつけを。したいと思いますまた大倭国の十四郡の公私の出挙稲はどの郡にも存在し、愚かなものが争って貸付を行い、返済を責め立てるに至り、とても返しきれない状態にあります。
このため借りたものの資材は返済で尽きてしまってついには田や家を提供する有様であります。しかも毎年利息を元に組み入れ計算するので、利息の額が元を超えています。さらに父の負債を知らない妻子から取り立てたり、この負債を知らない父母から取り立てることは、今後ことごとく禁断したいと思います。
七月十二日、次のように詔した。
朕が人民をいつくしみ育てることになってから何年かたった。しかし教化はまだ充分でなく、牢獄は空となっていない。夜通し寝ることも忘れて、このことについて憂え悩んでいる。この頃転変がしきりに起こり、地はしばしば振動す。まことに朕の教導が明らかでないために、人民が多く罪に落ちている。その責任は朕一人にあって多くの民にかかわるものではない。よろしく寛大に罪を許して長寿を全うさせ、傷や汚れを洗い流し自ら更正することを求め、天下に大赦を行う。
06 0996 六年甲戌海犬養宿祢岡麻呂應 詔歌一首[六年(734)甲戌に、海犬養宿祢岡麻呂の、詔に応へたる歌一首]
06 0996 御民吾(みたみわれ)生有驗在(いくもけんざい)天地之(あめつちの)榮時尓(さかゆるときに)相樂念者(あへらくおもう)
あへ-ら-く 【会へらく】:会っていること。出会っていること。
『念』の字には少なくとも、念(ネン)・ 念(デン)・ 念う(おもう)の3種の読み方が存在する。
『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。
念う(おもう)+ 者(もの)=(おもう)
十一月二十一日 太政官は次のように奏上した。
仏像の流伝は必ず僧尼の働きによります。得度する人の才能や行いを計り択ぶのは、所司の成すところです。ところがこの頃の出家は学業をよく究めず、多く請託によっています。これははなはだ法意に背くものです。今後は僧尼と俗人を問わず、推挙されるものはただ法華経一部あるいは最勝王経一部を暗唱し、礼仏の法を解し、浄行が三年以上の者だけを選んで、得度させることにしたならば、、学問にもよく長じて請託は自然に少なくなるでしょう。僧尼の子どもをもらい受け、偽って自家の男女のように見せ、出家させたりすれば、法に従って罪を科することにします。
天平七年(735)五月二十三日
朕は徳の少ない身でありながら万民の上に君臨しているが、自身は政治の要諦に暗く、まだ人民に安らかな暮らしをさせることができない。この頃災害や異変がしきりに起こって、朕の不徳を咎められる徴候がたびたび現れている。戦々恐々として責任は自分にあることを感ずる。そこで死刑囚の罪を緩め、困窮の人民を哀れみ暖かい恵みを施し、天下に大赦を行おう。
八月十二日、次のように勅した。
聞くところによると、この頃太宰府管内で、疫病鬼より死亡する者が多いという。疫病を治療し、民の命を救いたいと思う。このため幣帛(みてぐら)を太宰府管内の神祇にささげて、人民のために祈祷をさせる。また大宰府の大寺(観世音寺)と別の国の所持に混合般若経を独唱させ、さらに使者を遣わして、疾病に苦しむ人にコメなどを恵み与えるとともに、煎じ薬を給付せよ。また長門の国よりこちらの山陰道諸国の、国守(くにのかみ)もしくは介は、ひたすら斎戒し、道饗(みちあえ:悪鬼の進入するのを防ぐため街道で行う祭祀)をして防げ。
天平2年(730年)8月に武智麻呂政権を確立させ、天平3年(731年)7月には大納言旅人の薨去によって、太政官の首班となり、天平6年(734年)には従二位・右大臣にいたったけれど、その功績としては『続日本紀』には見当たらず、当然ながら、天皇の詔がつづられているのみである。
もちろん、太政官(武智麻呂)の奏上もチラホラあるのだが、どうも長屋王の変は、兄の武智麻呂を担ぎ出した、宇合が実行犯のように思えてくる。