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武智麻呂政権Ⅱ(葛城王)

天平八年正月二十一日

紀朝臣男人(正四位下)・巨勢 朝臣奈弖麻呂(正五位下)・石上朝臣 乙麻呂(正五位下)・当麻真人 鏡麻呂(従五位下)・多治比 真人国人(従五位下)・百済王 孝忠(くだらのこにきし こうちゅう:従五位下)・紀朝臣 必登(外従五位下)・佐伯宿祢 浄麻呂(外従五位下)・下道(しもつみち)朝臣真備(外従五位下)らに官位を授けた。

紀 男人(き の おひと:682-738)

05 0815 武都紀多知(むつきたち)波流能吉多良婆(はるのきたらば)可久斯許曽(かくしこそ)烏梅乎乎岐都〃(うめををきつつ)多努之岐乎倍米(たのしきをへめ) 大貳紀卿

 

天平二年(730)の『梅花の歌三十二首』の第一の歌であるが、大宰大弐在任中に当時大宰帥であった大伴旅人の邸宅で開催された梅花の宴で詠んだ和歌が『万葉集』に入集しているのだ。

天平10年(738年)10月30日、任地の九州にて卒去(享年57)し、最終官位は大宰大弐正四位下、遺骨は骨送使の音博士・山背靺鞨により平城京に運ばれたと記録されている。

    七夕 紀男人

積鼻標竿日   犢鼻(とくび)を竿に標(かか)ぐる日

隆腹曬書秋   隆が腹に書(ふみ)を曬(さら)す秋

鳳亭悦仙會   鳳亭 仙會を悦び

針閣賞神遊   針閣 神遊を賞(はや)す

月斜孫岳嶺   月は斜(かたぶ)く 孫岳の嶺

波激子池流   波は激(たぎ)つ 子池(しち)に流る

歡情未充半   歡情は未だ半ばにも充たず

天漢曉光浮   天漢(あまのかわ) 曉光浮かぶ  

 

『懐風藻』に漢詩作品3首が採録されており、彼の人となりをイメージするために、『七夕』を載せておく。

巨勢 奈弖麻呂(こせ の なでまろ)は、天平15年(743年)中納言に昇進して、左大臣・橘諸兄、知太政官事・鈴鹿王に次いで太政官で第三位の席次にまで昇り、さらに天平17年(745年)には鈴鹿王の薨去により一時は太政官の次席となった。

 

19 4273 天地与(あめつちと)相左可延牟等(あひさかえむと)大宮乎(おほみやを)都可倍麻都礼婆(つかへまつれば)貴久宇礼之伎(たふとくうれし)

 

『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。

『伎』の字には少なくとも、伎(シ)・ 伎(ギ)・ 伎(キ)・ 伎(わざ)・ 伎(たくみ)の5種の読み方が存在する。

之(シ)+伎(シ)=(し)

 

上記の歌は、天平勝宝4年(752年)、11月の新嘗会の肆宴(とよのあかり)で詠んだ、奈弖麻呂の応詔歌である。

石上 乙麻呂(いそのかみ の おとまろ)は、天平8年(736年)正五位下、天平9年(737年)正五位上、天平10年(738年)従四位下・左大弁に叙任される。

 

03 0368 石上大夫歌一首

03 0368 大船二(おほぶねに)真梶繁貫(まかぢしじぬき)大王之(おほきみの)御命恐(みことかしこみ)礒廻為鴨(いそみするかも)

03 0368 右今案 石上朝臣乙麻呂任越前國守盖此大夫歟[右は今案ふるに、石上朝臣乙麻呂、越前の国守に任けらゆ。けだしこの大夫か]

03 0374 石上乙麻呂朝臣歌一首

03 0374 雨零者(あめふらば)将盖跡念有(きむとおもへる)笠乃山(かさのやま)人尓莫令盖(ひとになきせそ)霑者漬跡裳(ぬれはひつとも)

 

ところが、翌年にスキャンダルにより、土佐国へ流されるんよ。

当麻 鏡麻呂(たいま の かがみまろ)には特記すべきものはないが、国人には歌人として『万葉集』に和歌作品4首(長歌1首と短歌3首)が採録されている。

百済王 ・必登(ひと)・浄麻呂も特記すべきものがないが、真備はもちろん吉備のことである。

二月七日 入唐学問僧の玄昉法師に封戸百戸・田十町、身に周りのことを助ける童子八人、律師の道慈法師に身のまわりを助ける童子六人を施し与えた。

道慈(? - 744)は、奈良時代の三論宗の僧で、702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り、西明寺に住して三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれた。 718年(養老2年)15年に渡った留学生活に幕を閉じ、第九次遣唐使の帰りの船で帰国したが、漢詩にも優れ『懐風藻』に入集しており、在唐中に首皇太子(715)に奉っている。

 

   在唐奉本国(首)皇太子

三宝持聖徳    三宝聖徳を持ち

百霊扶仙寿    百霊仙寿を扶く

寿共日月長    寿は日月与の共長く

徳与天地久    徳は天地に与り久し     

 

また、『日本書紀』(720)の編纂にも関与したという説もある。

天平八年(736)三月二十日太政官が次のように奏上した。

 

諸国の公田は、国司がその地方の相場で一年限りの賃租に出し、その代価を太政官に送付し、役所の用途に充てたいと思います

06 1005 八年丙子夏六月幸于芳野離宮之時山邊宿祢赤人應 詔作歌一首[八年(736)丙子の夏六月、吉野の離宮に幸しし時に、山部宿祢赤人の、詔に応へて作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕

 

06 1005 八隅知之(やすみしし)我大王之(わがおほきみの)見給(めしたまふ)芳野宮者(よしののみやは)山高(やまだかみ)雲曽軽引(くもぞたなびく)河速弥(かははやみ)湍之聲曽清寸(せのねぞきよき)神佐備而(かむさびて)見者貴之(みればたふとし)宜名倍(よろしなへ)見者清之(みればさやけし)此山乃(このやまの)盡者耳社(つきばのみこそ)此河乃(このかはの)絶者耳社(たえばのみこそ)百師紀能(ももしきの)大宮所(おほみやところ)止時裳有目(やむともあらめ)

 

声:[訓義] おと、ね、こえ、ひびき。

06 1006 反歌一首

06 1006 自神代(かむよより)芳野宮尓(よしののみやに)蟻通(ありがよひ)高所知者(たかしらせるは)山河乎吉三(やまかはをよみ)

七月十四日 次のように詔した。

この頃太上天皇(元正帝)は寝食が通常でなく、朕は心配に耐えず、平伏されることを思い願っている。そこで太上天皇のために百人を得度させ、都下の四大寺(大安・薬師・元興・興福)で七日間の行道(読経しながら仏像・仏殿などの回りを巡る行法)をさせようと思う。また京・畿内および七道の諸国の人民と僧尼で病気の者には、煎じ薬と食料を給付せよ。高齢で百歳以上の者には籾米四石、九十以上には三石、八十以上には二石、七十以上には一石を与えよ。鰥(かん:男やもめ)・寡・惸(けい:兄弟のない独り者)・独(子のない独)・廃疾(障碍者)・篤疾(とくしつ:重病)で自活のできない者には、所管の官司がその程度を量って、増量し恵み与えよ。

十月二十日 次のように詔した。

聞くところによると近年太宰府管内の諸国では、公の仕事が頻繁で、労役の仕事も少なくなかった。そのうえ去年の冬には瘡(かさ)の伴う疾病(天然痘)が流行し、男女が全てが苦しんだ。農作物ができぬことがあり、五穀の実りは豊かでない。そこで今年の田租を押し、人民の命をつながせるように。

天平八年十一月十一日従三位の葛城王・従四位上の佐為王らが上奏文を奉って、次のように現状した。

臣下の葛城らが申し上げます。

去る天平五年に故知太政官事・一品(ぽん)の舎人親王と、大将軍・一品新田部(にいたべ)親王が勅を述べて「聞くところによると、諸王らは臣や連の姓を賜って、朝廷にお仕えしようと願っているという。そのため王らを呼んで、その理由を尋ねさせるのである」と言われました。

わたしたちは元よりこのような気持ちを抱いておりましたが、申し上げる手立てがありませんでした。幸いこの度、有難い勅に遭遇しましたので、死をも覚悟で申し上げます。

 

(中略)孝元(第8代)・天武(第40代)・持統(第41代)・元明(第43代)の功績が述べられている。

時に葛城王らの母親である贈従一位の縣犬養橘宿祢(三千代)は、上は浄御原朝廷(天武)から、下は藤原大宮(持統・文武・元明)に及ぶまで、身命を尽くして天皇にお仕えし、親に孝を尽くすのと同じ気持ちで、天皇に忠を尽くして来ました。朝早くから夜遅くまで労苦を忘れ、代々の天皇に力を尽くしてお仕えしてまいりました。

和銅元年(708)十一月二十一日には、国を挙げての大嘗祭にお仕え申し上げ、二十五日の豊明節会の御宴において、天皇(元明)より忠誠の深さをお褒め頂き酒杯に浮かべた橘を賜りました。その時天皇は仰せられました。

橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じり合っても、それに劣らず美しい。このような橘に因んで汝の姓として橘宿祢を与えよう」と。

ところが今、橘の姓を継ぐ者がなければ、おそらくありがたい詔の意図を失うことになりましょう。

伏して考えますのに、皇帝陛下が天下に徳を及ぼされ、その徳は地の果てまでも充ち満ちております。徳化は海路の果て、陸路の極まる所まで覆っております。各地から船のもたらす貢物は、蔵を空にすることがなく、『河図の霊(かとのみたま)』に類することは、史官が記すのに絶え間がないほどであります。天下の人民はその業に安んじ、万民は巷で天皇の徳を讃えております。

臣下の葛城は幸いにも、このような時に巡り遇うご恩を蒙って、みだりに公卿の末席に連なり、可否の意見を進言申しておりますが、忠義を尽くそうと志しているからであります。わたしの身は朝廷で高いくらいを賜り、妻子は家庭で安らか暮らさせていただいております。

そもそも天皇が王親に姓を賜り、氏の名を定められるのは、遠い由来があることであることであります。このようでありますから、臣下の葛城らは、橘宿祢の姓を賜り先帝の厚い思し召しを奉じて、橘氏という格別の名を後世に伝え、万世まで窮まることなく、千代に相伝えたいと願います。

十一月十七日 天皇は次のように詔した。

 

従三位の葛城王らの上奏文を読んで、つぶさにその考えが判った。王らの主君を思う情は深く、謙譲な心で親を顕彰することを志している。皇族という高い名声を辞退して、、母方の橘姓を申請するのは、思い考えるに、願うところは誠に時期を得たものである。一筋に請い願っているので、橘宿祢の姓を授けるから、千年も万年も継ぎ伝えて窮まることおないようにせよ。

06 1009 冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時 御製歌一首[冬十一月に、左大弁葛城王等姓橘の氏を賜ひし時の御製歌一首]

06 1009 橘者(たちばなは)實左倍花左倍(みさへはなさへ)其葉左倍(そのはさへ)枝尓霜雖降(えにしもふれど)益常葉之樹(いやとこはのき)

06 1009 右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇〃后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇〃后御歌各有一首者 其歌遺落未得探求焉 今撿案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢[右は、冬十一月九日に、従三位葛城王と従四位上佐為王等と、皇族の高名を辞して外家の橘の姓を賜はること已に訖(いた)りぬ。 時に太上天皇、皇后、共に皇后宮に在して肆宴(とよのあかり)を為し、即ち橘を賀(かつ)く歌を御製ひ、并せて御酒を宿祢等に賜へり。 或は云はく「この歌一首は太上天皇の御歌なり。 ただ天皇皇后の御歌各一首あり」といへり。その歌遺落して探り求むることを得ず。 今案内を検るに、「八年十一月九日に葛城王等、橘宿祢の姓を願ひて表を上る。十七日を以ちて、表の乞に依りて、橘宿祢を賜ふ」といへり]

 

06 1010 橘宿祢奈良麻呂應 詔歌一首

 06 1010 奥山之(おくやまの)真木葉淩(まきのはしのぎ)零雪乃(ふるゆきの)零者雖益(ふりはますとも)地尓落目八方(ちにおちめやも)

十一月十九日 天皇は詔して、京・畿内四か国および二監(吉野・和泉)の国々の今年の田植えを免除された。秋の収穫がすこぶる阻害されたからである。

06 1011 冬十二月十二日歌儛所之諸王臣子等集葛井連廣成家宴歌二首[冬十二月十二日に、歌所の諸の王・臣子等の、葛井連広成の家に集ひて宴せる歌二首]

06 1011 比来古儛盛興 古歳漸晩 理宜共盡古情同唱古歌 故擬此趣輙獻古曲二節 風流意氣之士儻有此集之中 争發念心〃和古體[比来古盛に興りて、古歳漸に晩れぬ。 理に共に古情を尽して、同に古歌を唱ふべし。 故、この趣に擬へて、輙ち古曲二節を献る。 風流意気の士の、儻しこの集の中に在らば、争ひて念を発し、心々に古体に和へよ]

06 1011 我屋戸之(わがやどの)梅咲有跡(うめさきたりと)告遣者(つげやらば)来云似有(こいふににたり)散去十方吉(ちりぬともよし)

06 1012 春去者(はるされば)乎呼理尓乎呼里(ををりにををり)鸎之(うぐひすの)鳴吾嶋曽(なくわがしまぞ)不息通為(やまずかよはせ)

 

春(はる)さ・る :《「さる」は季節などが近づく意》春になる。春が来る。

ををり 【撓り】:花がたくさん咲くなどして、枝がたわみ曲がること。

元正天皇より皇位を譲られて即位(724)したのが、聖武天皇だが、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。

詔も、政治に関することはなかったようだが、長屋王の変(729)が起き、武智麻呂政権になると、天皇による政道に関する詔も増え、あたかも長屋王・房前の政治路線を引き継いだかのように思え、つまりその方針は、この時期までは儒教政策が色濃かったような気がする。