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聖武天皇 神亀

神亀元年(724)二月四日、皇太子は元正天皇の禅(ゆず)りを受けて大極殿に即位され、聖武天皇の誕生である。

十月五日天皇は紀伊国に行幸され、十月二十三日一行は紀伊国から平城京に還ったとあり、その間の赤人の歌。

 

06 0917 神龜元年甲子冬十月五日幸于紀伊國時山部宿祢赤人作歌一首[神亀元年甲子の冬十月五日、紀伊国に幸しし時に、山部宿祢赤人の作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕

06 0917 安見知之(やすみしし)和期大王之(わごおほきみの)常宮等(とこみやと)仕奉流(つかへまつれる)左日鹿野由(さひかのゆ)背匕尓所見(そがひにみゆる)奥嶋(おきつしま)清波瀲尓(きよきなぎさに)風吹者(かぜふけば)白浪左和伎(しらなみさわき)潮干者(しほふれば)玉藻苅管(たまもかりつつ)神代従(かむよより)然曽尊吉(しかぞたふとき)玉津嶋夜麻(たまつしまやま)

 

さいか〔さひか〕【雑賀】:和歌山市の地名。

 

06 0918 反歌二首

06 0918 奥嶋(おきつしま)荒礒之玉藻(ありそのたまも)潮干滿(しほひみち)伊隠去者(いかくりゆかば)所念武香聞(おもほえむかも)

06 0919 若浦尓(わかうらに)塩滿来者(しほみちくれば)滷乎無美(かたをなみ)葦邊乎指天(あしべをさして)多頭鳴渡(たづなきわたる)

 

かた‐おなみ〔‐をなみ〕【片▽男波】:打ち寄せる波のうちの高い波。

 

06 0919 右年月不記 但偁従駕玉津嶋也 因今撿注行幸年月以載之焉[右は、年月を記さず。ただ玉津島に従駕すといへり。因りて今行幸の年月を検へ注して以ちて載す]

神亀2年(725)9月22日、聖武天皇は詔した。

朕が聞くところでは、昔の賢明な王は、君主として天下に臨んだ時、天地が万物を恵むような仕方で、人民を育て養い、四季の秩序に従って人民を平等に治めた。陰陽が調和して風雨に節度があり、災害も怒らずめでたい徴が顕れた。それゆえ徳を建て名声を馳せ、多くの人々から君主の筆頭に挙げられたのである。朕は徳少なく才能が薄い身で皇位を受け継ぎ、戦々恐々として、夕べになると恐れ謹んで、一物でも失うところがなかったかと案じ、い命あるものの生活が安らかであるよう願っている。しかし天の教えと命令は明らかでなく、まあああ後の心を尽くしても感応がなく、天は星の運航の異常を示し、知は振動を起こしている。仰いで考え見るに、この責任は深く自分にあると思う。

06 0920 神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首[神亀二年(725)乙丑の夏五月、吉野の離宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕

06 0920 足引之(あしひきの)御山毛清(みやまもさやに)落多藝都(おちたぎつ)芳野河之(よしののかはの)河瀬乃(かはのせの)浄乎見者(きよきをみれば)上邊者(かみへには)千鳥數鳴(ちどりしばなく)下邊者(しもへには)河津都麻喚(かはづつまよぶ)百礒城乃(ももしきの)大宮人毛(おほみやひとも)越乞尓(をちこちに)思自仁思有者(しじにしあれば)毎見(みるごとに)文丹乏(あやにともしみ)玉葛(たまかづら)絶事無(たゆることなく)萬代尓(よろづよに)如是霜願跡(かくしもがもと)天地之(あめつちの)神乎曽禱(かみをぞいのる)恐有等毛(かしこけれども )

06 0921 反歌二首

06 0921 萬代(よろづよに)見友将飽八(みともあかめや)三芳野乃(みよしのの)多藝都河内之(たぎつかふちの)大宮所(おほみやところ )

06 0922 人皆乃(ひとみなの)壽毛吾母(いのちもわれも)三吉野乃(みよしのの)多吉能床磐乃(たぎのとこはの)常有沼鴨(つねあらぬかも )

06 0923 山部宿祢赤人作歌二首 并短歌

06 0923 八隅知之(やすみしし)和期大王乃(わごおほきみの)高知為(たかしらす)芳野宮者(よしののみやは)立名附(たたなづく)青垣隠(あをかきごもり)河次乃(かはなみの)清河内曽(きよきかふちぞ)春部者(はるのへは)花咲乎遠里(はなさきををり)秋去者(あきされば)霧立渡(きりたちわたる)其山之(そのやまの)弥益〃尓(いやますますに)此河之(このかはの)絶事無(たゆることなく)百石木能(ももしきの)大宮人者(おほみやひとは)常将通(つねにかよはむ)

06 0924 反歌二首

06 0924 三吉野乃(みよしのの)象山際乃(きさやまのまの)木末尓波(こぬれには)幾許毛散和口(ここだもさわく)鳥之聲可聞(とりのこゑかも)

06 0925 烏玉之(ぬばたまの)夜乃深去者(よのふけゆけば)久木生留(ひさぎおる)清河原尓(きよきかはらに)知鳥數鳴(ちどりしばなく)

06 0926 安見知之(やすみしし)和期大王波(わごおほきみは)見吉野乃(みよしのの)飽津之小野笶(あきづのをのの)野上者(ののうへは)跡見居置而(とみすゑおきて)御山者(みやまには)射目立渡(いめたてわたし)朝獵尓(あさがりに)十六履起之(ししふみおこし)夕狩尓(ゆふがりに)十里蹋立(とりがとびいたつ)馬並而(うまなめて)御獵曽立為(みかりぞたたす)春之茂野尓(はるのしげのに)

 

蹋:[音]トウ・ドウ[訓]ふむ

 

06 0927 反歌一首

06 0927 足引之(あしひきの)山毛野毛(やまにものにも)御獵人(みかりひと)得物矢手挾(ともやたばさみ)散動而有所見(さどほしとみゆ)

 

とも‐や【得物矢】:狩りに用いる矢。

『散』の字には少なくとも、散(サン)・ 散(ばら)・ 散る(ちる)・ 散らす(ちらす)・ 散らかる(ちらかる)・ 散らかす(ちらかす)の6種の読み方が存在する。

『動』の字には少なくとも、動(ドウ)・ 動(トウ)・ 動(ズ)・ 動もすれば(ややもすれば)・ 動く(うごく)・ 動かす(うごかす)の6種の読み方が存在する。

『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに)・ 而も(しかも)・ 而して(しかして)の9種の読み方が存在する。

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

『所』の字には少なくとも、所(ソ)・ 所(ショ)・ 所(ところ)の3種の読み方が存在する。 散(サン)+動(ドウ)+ 而(ドウ)+有(ウ)+所(ショ)=(どうし)→(どほし)

さ-どほ・し 【さ遠し】:遠い。◆「さ」は接頭語。

06 0927 右不審先後 但以便故載於此次[右の歌は他の歌との前後関係がはっきりしない。ただ便宜によってここに載せる]

神亀三年(726)六月十四日、聖武天皇は次のように詔した。

民の中には長患いにかかり、治らないもの、あるいは重病にかかり昼夜苦しんでいるものがある。朕は民の父母として、どうして憐れまずにおられようか。医者と薬を左右京・四畿内および六道の諸国に送り、このような病に苦しむものを助け治療し皆に安らぎを得させ、病の軽重に応じ籾を与え恵みを加えよ。所司はよく心がけて朕の心に適うよう努力せよ。

神亀3年(726)冬十月七日 天皇は播磨国印南野に行幸され、十日 邑美頓宮(おみのかりみや:明石郡)に至った。

十九日 天皇は帰途に就き、難波宮に至り、二十六日 宇合を難波宮造営の長官に任じ、二十九日 天皇は難波宮より平城宮に到った。

06 0928 冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首[冬十月(726)、難波宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕

06 0928 忍照(おしてるの)難波乃國者(なにはのくには)葦垣乃(あしかきの)古郷跡(ふりにしさとと)人皆之(ひとみなの)念息而(おもひやすみて)都礼母無(つれもなく )有之間尓(ありしあひだに)續麻成(うみをなす)長柄之宮尓(ながらのみやに)真木柱(まきばしら)太高敷而(ふとたかしきて)食國乎(をすくにを)治賜者(をさめたまへば)奥鳥(おきつとり)味経乃原尓(あぢふのはらに)物部乃(もののふの)八十伴雄者(やそとものをは)廬為而(いほりして)都成有(みやこなしたり)旅者安礼十方 (たびはあれども)

 

麻績・麻續・麻続(おみ):麻(を)を績(う)むこと、つまり麻を細く裂いてより合わせて麻糸をつくること。

 

06 0929 反歌二首

06 0929 荒野等丹(あらのらに)里者雖有(さとはあれども)大王之(おほきみの)敷座時者(しきますときは)京師跡成宿 (みやことなりぬ)

06 0930 海未通女(あまをとめ)棚無小舟(たななしをぶね)榜出良之(こぎづらし)客乃屋取尓(たびのやどりに)梶音所聞(かぢのおときく)

06 0931 車持朝臣千年作歌一首[車持朝臣千年の作れる歌一首]并短歌〔并せて短歌〕

06 0931 鯨魚取(いさなとり)濱邊乎清三(はまへをきよみ)打靡(うちなびき)生玉藻尓(おふるたまもに)朝名寸二(あさなぎに)千重浪縁(ちへなみよりし)夕菜寸二(ゆふなぎに)五百重波因(いほへなみよる)邊津浪之(へつなみの)益敷布尓(いやしくしくに)月二異二(つきにけに)日日雖見(ひにひにみとも)今耳二(いまのみに)秋足目八方(あきだらめやも)四良名美乃(しらなみの)五十開廻有(いさきめぐれる)住吉能濱(すみのえのはま)

 

ちえ‐なみ〔ちへ‐〕【千重波/千重▽浪】:いく重にも重なり合って押し寄せる波。 いさき‐めぐ・る【いさき廻】:波がしらが白く砕けて、岸べ一帯に打ち寄せる。

 

06 0932 反歌一首

06 0932 白浪之(しらなみの)千重来縁流(ちへにきよする)住吉能(すみのえの)岸乃黄土粉(きしのはにふに)二寶比天由香名(にほひてゆかな)

06 0933 山部宿祢赤人(?-736?)作歌一首 并短歌

06 0933 天地之(あめつちの)遠我如(とほきがごとく)日月之(ひつきゆく)長我如(ながきがごとく)臨照(おしてるの)難波乃宮尓(なにはのみやに)和期大王(わごおほの)國所知良之(くにしらすらし)御食都國(みけつくに)日之御調等(ひのみつきとの)淡路乃(あはぢなる)野嶋之海子乃(のしまのあまの)海底(わたのそこ)奥津伊久利二(おきついくりに)鰒珠(あはびたま)左盤尓潜出(さはにかづきで)船並而(ふねなめて)仕奉之(つかへまつるし)貴見礼者(たふとしみれば )

06 0934 反歌一首

06 0934 朝名寸二(あさなぎに)梶音所聞(かぢのおときく)三食津國(みけつくに)野嶋乃海子乃(のしまのあまの)船二四有良信(ふねにしあらし)

神亀四年閏九月二十九日、皇子が誕生した(母は光明子)

十一月二日、天皇は次のように詔した。

朕は神祇(じんぎ)の助けにより、また宗廟の霊のおかげを蒙って、久しく皇位の神器をお守りしており、新たに応じの誕生を恵まれた。此の往時を皇太子に立てることとする。このことを百官に布告して、すべての者に知らせよ。

06 0948 四年丁卯春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首[四年(727)丁卯の春正月、諸の王・諸の臣子等に勅して、授刀寮に散禁せしめし時に、作れる歌一首]并短歌[〔并せて短歌〕

06 0948 真葛延(まくずはふ)春日之山者(かすがのやまは)打靡(うちなびく)春去徃跡(はるさりゆくと)山上丹(やまのへに)霞田名引(かすみたなびく)高圓尓(たかまとに)鸎鳴沼(うぐひすなきぬ)物部乃(もののふの)八十友能壮者(やそとものをは)折木四哭之(かりがねの)来継比日(きつぐこのころ)如此續(かくつぎて)常丹有脊者(つねにありせば)友名目而(ともなめて)遊物尾(あそびしものを)馬名目而(うまなめて)徃益里乎(ゆかましさとを)待難丹(まちがてに)吾為春乎(わがするはるを)决巻毛(かけまくも)綾尓恐(あやにかしこし)言巻毛(いはまくも)湯〃敷有跡(ゆゆしくあると)豫(あらかじめ)兼而知者(かねてしりせば)千鳥鳴(ちどりなく)其佐保川丹(そのさほがはに)石二生(いはにおふ)菅根取而(すがのねとりて)之努布草(しのふくさ)解除而益乎(はらひてましを)徃水丹(ゆくみづに)潔而益乎(みそぎてましを)天皇之(おほきみの)御命恐(みことかしこみ)百礒城之(ももしきの)大宮人之(おほみやひとの)玉桙之(たまほこの)道毛不出(みちにもいでず)戀比日(こふるこのころ)

                                       

中国から伝わった「樗蒲」という遊びがあり、和語では「かりうち」と言いますー「かり」というを木でつくった一面を白、もう一面を黒く塗った楕円形の平たい四つの木片を投げ、出た面の組合せで勝負を争い、それで折った木が四つの「折木四」がカリになるのです(「哭」は泣くことですから、ネとなります)。

『解』の字には少なくとも、解(ゲ)・ 解(カイ)・ 解る(わかる)・ 解ける(ほどける)・ 解く(ほどく)・ 解れる(ほつれる)・ 解れる(ほぐれる)・ 解ける(とける)・ 解く(とく)・ 解かす(とかす)・ 解る(さとる)の11種の読み方が存在するが、はつ・る【▽解る】(織った物や編んだ物などが端からとける)もある。

『除』の字には少なくとも、除(ヨ)・ 除(チョ)・ 除(ジョ)・ 除(ジ)・ 除(ショ)・ 除ける(よける)・ 除う(はらう)・ 除く(のぞく)・ 除ける(のける)・ 除きる(つきる)の10種の読み方が存在する。

はつ・る【▽解る】+除う(はらう)=(はらふ)

 

06 0949 反歌一首

06 0949 梅柳(うめやなぎ)過良久惜(すぐらくをしみ)佐保乃内尓(さほないに)遊事乎(あそびしことを)宮動〃尓 (みやもとどろに)

06 0949 右神龜四年正月 數王子及諸臣子等 集於春日野而作打毬之樂 其日忽天陰雨雷電 此時宮中無侍従及侍衛 勅行刑罰皆散禁於授刀寮而妄不得出道路 于時悒憤即作斯歌 作者未詳[右は、神亀四年の正月に数の王子また諸の臣子等の春日野に集ひて、打毬の楽を作す。 その日忽ちに天雲り雨ふり雷なり電す。この時に宮の中に侍従と侍衛と無し。勅して刑罰に行ひ、皆授刀寮に散禁して妄りて道路に出づることを得ずあらしむ。 時に悒憤しく、即ちこの歌を作れり

06 0950 五年戊辰幸于難波宮時作歌四首[五年(728)戊辰、難波宮に幸しし時に作れる歌四首]

06 0950 大王之(おほきみの)界賜跡(さかひたまふと)山守居(やまもりす)守云山尓(もりいふやまに)不入者不止(いらずしやめず)

06 0951 見渡者(みわたせば)近物可良(ちかきものから)石隠(いそがくり)加我欲布珠乎(かがよふたまを)不取不已(とらずはやめず)

06 0952 韓衣(からころも)服楢乃里之(きならのさとの)嬬待尓(つままつに)玉乎師付牟(たまをしつけむ)好人欲得(よきひとほうる)

06 0953 竿壮鹿之(さをしかの)鳴奈流山乎(なくなるやまを)越将去(こえゆかむ)日谷八君(ひだにやきみが)當不相将有(はたあはざらむ)

06 0953 右笠朝臣金村之歌中出也 或云車持朝臣千年作之也[右は、笠朝臣金村の歌の中に出づ。或は云はく、「車持朝臣千年の作」といへり]

神亀五年八月一日、聖武天皇は次のように勅した。

朕は思うところがあって、この頃鷹を飼うことに気が進まない。天下の人もまた鷹を飼わないようにすべきである。後に勅があるのを待って、それから飼うようにせよ。もし違反者があれば違勅の罪を科せよ。

八月二十一日

皇太子の病が日を重ねても癒(なお)らない。三宝の威力に頼らなければ、どうして病気を逃れることができようか、そこで慎んで観世音菩薩像百七十七体をつくり、あわせて観音経を百七十七部を写し、仏像を礼拝し経典を転読して、一日行道を行いたいと思う。この功徳によって皇太子の健康の回復を期待したい。

九月十三日、その甲斐なく、皇太子基王(もといおう)が薨じた。