大海人皇子と額田王
ここでは、【額田王637年生、十市皇女653年生】として始めるけれど、生没年不詳の額田王の年表が、偉大な先人により公表?されたリストがあるのでしるす。
643(皇極2年)~715(和銅8年) 73歳没 神谷政行氏
631(舒明3年)~ ? 伊藤博氏
633(舒明5年)~715(和銅8年)超 83歳以上 梅原猛氏
637(舒明9年)~715(和銅8年)超 79歳以上 折口信夫氏
しかしこの額田王が、いつどこで大海人皇子と出会い、十市皇女へとつなぎ、漢風諡号を一括撰進した、あの三船淡海へとつながっていくのであろうか?
ただ万葉歌人として著名な額田王は、漢詩もできたはずなのに、『懐風藻』に女性初の漢詩人として名を残さず、その漢情を倭歌に込めていたのだが、それはさておき、「天皇は初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田姫王(ぬかたのおおきみ)を召して十市皇女(とおちのひめみこ)をお生みになった」『日本書紀 天武紀下』とある。
ところが各種史書には、この鏡王に関する記録は少なく、経歴も詳らかでないのだが、その娘が召されたのは、天武天皇であるのだが、 もちろん出会いは、大海人皇子の時代なので、彼が610年に生まれた漢皇子だとすると、額田とはすでに27歳もの年齢差になってしまう。
つまり、漢皇子から大海人までの、27年の軌跡をたどる必要があるってわけなのだが、5歳までは母:宝皇女ともに茅渟王のもとで育てられたかもしれないが、5歳からは父:高向玄理と同じ教育を受けさせたように思う。
高向氏(高向村主・高向史)は、応神朝に阿知王と共に渡来した七姓漢人の一つだと思われ、一説では東漢(やまとのあや)氏の一族とされるが、むしろ、王仁の後裔と称される西漢(かわちのあや)氏だと思う。
622年には、伯父にあたる聖徳太子が亡くなり、その後見人を託された秦河勝は、ここで漢皇子の名称を、大海人(12歳)に変え、凡海氏にその養育をあたらせたと思うが、教育は高向の地に任されていた。
628年には推古天皇が亡くなり、大海人(18歳)とは直接関係はないかもしれないが、現代風に言えば、母:宝皇女(30歳当時)と田村皇子(37歳当時)の仲人であった人物なのである。
舒明元年(629)春一月四日、大臣(おおおみ)と群卿(まえつきみ)は、皇位の璽印(みしるし:鏡と剣)を田村皇子(たむらのみこ:36歳)に奉った。
「二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女(36歳)爲皇后。后生二男一女、一曰葛城皇子近江大津宮御宇天皇、二曰間人皇女、三曰大海皇子」(二年春一月十二日、宝皇女を立てて皇后とした。皇后は二男一女をお生みになった。第一は葛城皇子、第二は、間人皇女、第三は大海皇子である)『日本書紀 舒明紀』
ここに【大海皇子】が登場するので、その部分を拡大してみると、『一曰葛城皇子(近江大津宮御宇天皇)、二曰間人皇女、三曰大海皇子(淨御原宮御宇天皇)』なのだが、ぎょ‐う【御宇】とは、《帝王が天下を治めている期間》のことである。
本来なら、天智天皇の和風諡号は天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと )、天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であり、御宇天皇は『万葉集』で見かけるのだが、ここにあえて付け足しているのだ。
葛城皇子が626年生誕だとすると、母の宝皇女は32歳、それから娘の間人を産めば34歳前後、三番目になると、36歳から38歳になり、現在なら高齢出産40歳以上もあるかもしれないが、この大海皇子は、ただ単に、斉明・天智・天武、そして持統へとどうしても続かなければならない万世一系の皇統を示すためでしかない。
父玄理とともに隋へ渡っていた学僧旻が、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)8月に日本に帰国したが、さっそく22歳の大海人も、父の話を聞きに尋ねに行ったかもしれない。
そんな父も、舒明天皇12年(640年)に30年にもわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使と共に新羅経由で帰国し、漢皇子(30)の父である高向玄理(48)は冠位1級を与えられた。
この時初めて、父と顔を合わすことになった漢皇子は、異国の地である隋や唐の話を聞き、さぞかし印象深かったに違いないが、この時はまだ宮中で会うことはできなかった。
そして翌641年に、舒明天皇は 百済宮で崩御し、継嗣となる皇子が定まらなかったので、大海人(漢皇子)の母である宝皇女が、皇極天皇として642年に即位した。
十三年(641)冬十月九日、天皇は百済宮(くだらのみや)で崩御された。 十八日、宮の北に殯宮(もがりのみや)を設けた。 これを百済の大殯おおもがりという。 この時、東宮(もうけのきみ)の開別皇子(ひらかすわけのみこ:天智天皇)は十六歳で誄(しのびごと)を読まれた。『日本書紀 舒明紀』
そして642年、ついに母である宝皇女は、皇極天皇として即位するのだが、この時はまだ、大海人(28歳)は、母からは忘れられたかのように、歴史に登場することはなかった。
同じように、額田王は5歳になっていたのだが、改めて『日本書紀 天武下』を見ると、「天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女」とあるのだ。
この鏡王については、額田鏡王とも記されるが、臣籍降下後の氏姓は威奈(いな)公としている。
というのも、『威奈真人大村骨蔵器』に刻まれた墓誌には、「威奈大村は天智天皇元年(662年)に威奈鏡公の第三子として生まれる」とある。
つまり、額田王は25歳であり、仕えていた斉明天皇(在位:655-661)も崩御しており、すでに9歳になっていた十市と一緒に暮らしているころだ。
しかし、追いかけるのはあくまで、成熟した額田ではなく、教養を身に着け、あるいは漢字文化のマイスターへと、励んでいる、あるいは励まされているであろう、若き日の王(おおきみ)である。
643年には、飛鳥板蓋宮に遷幸したのだが、その半年後に、蘇我入鹿が山背大兄王を攻めたのである。
これを機会に、大海人の後見役から降りたた河勝だったけれど、皇極天皇3年(644年)駿河国富士川周辺で、大生部多(おおうべのおお)を中心とした、常世神を崇める集団(宗教)を追討している。
そして645年の乙巳(いっし)の変後、皇極天皇(宝王女)は軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲り、日本史上初の天皇の譲位(退位)が行われた。
それと同時に宝王女の前夫玄理は、旻と共に新政府の国博士に任じられるのだが、すでに帰化人としての教育を受けていたであろう額田王は、8歳になっていたのだ。
これを機会に、宝王女(皇極)と同じ渡来人であった鏡王は、鏡作氏として一族を取り仕切っており、祭祀にも強くかかわってはいたが、娘額田王には、巫女よりも采女として宮中に仕えさせたかった。
もちろん、大海人皇子(35)は、孝徳天皇が即位した645年には、母上皇にも呼ばれ、中大兄にも認められ、宮中に参上することができ、額田王(8)も皇祖母尊(すめみおやのみこと:宝王女)に行儀見習いとして仕えることになった。
一方の玄理は、大化2年(646年)には、遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調(ちょう:物納租税)を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)には、新羅王子・金春秋を伴って帰国した。(この時の玄理の冠位は小徳)。
大化5年(649年)に、玄理は旻とともに八省百官の制を立案しており、この時ヘルプをしていたのが大海人皇子(39)であり、12歳になっていた額田王の学問の師でもあったが、彼女自身も手伝っていたのである。
まさに、玄理と大海人の父子にとっては、充実したひと時であったであろうし、母である宝王女も加われば、一家団欒のひと時を、額田王も一緒に感じていたと思う。
そしてまた、652年には「於是、天皇從於大郡遷居新宮、號曰難波長柄豐碕宮」(このとき天皇は大郡から遷って、新宮にお出でになったーこの宫を名づけて難波長柄豊琦宮という)『日本書紀 孝徳紀』と、飛鳥から難波に遷都することになり、この時には42歳の大海人と15歳の額田王も、宝王女(58)とともに難波宮殿に入るのである、
しかし、皇弟(大海人皇子)が史書に初めて登場するのは653年、「皇太子、乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等、往居于倭飛鳥河邊行宮」(皇太子は皇極上皇、間人皇后、大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮にお入りになった)(『日本書紀』孝徳紀)とある。
僧旻は阿曇寺(あずみでら)で病臥し、天皇が行幸され、親しく手を取っ て、「もし法師が今日亡くなれば、自分はお前を追って明日にでも死ぬだろう」と仰せられたとあるが、翌月にはその甲斐もなく亡くなったのだが、僚友であった旻を失ったことは玄理も気落ちしたであろう。
ところが白雉5年(654年)、高向玄理は遣唐使の押使(おうし・すべつかい)として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州(らいしゅう)に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死(64)してしまうのだ。
二月に出発して数カ月たったころなのだが、その知らせがいつ届けられたかはわからないけれど、大海人皇子(44)にとって、父:玄理が亡くなったことは、その父子の師弟愛をも知っていた17歳の額田王にしても、大きな悲しみに包まれたことであろう。
この時には既に、十市皇女は生まれていたかもしれないが、幾度も、父と海を渡ることを夢見てきた皇子であり、それを果たせなかったことがどれだけつらく、残念に思ったのかもわからなかったが、その哀しみも妻子の愛によって救われたかもしれない。
「皇太子、聞天皇病疾、乃奉皇祖母尊・間人皇后幷率皇弟公卿等赴難波宮」(皇太子は天皇が病気になられたと聞かれて、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿(くぎょう)らを率いて、難波宮(なにわのみや)に赴かれた。『日本書紀 孝徳紀』
そのあと、孝徳天皇が崩御し、斉明天皇(宝王女:60)が重祚するのであるが、この時までならまだ、大海皇子(44)と額田王(17)、十市皇女(1)ら三世代が顔を合わすことができていたかもしれない。