淡海三船『唐大和上東征伝』

天平勝宝4年(752年)、遣唐使(大使藤原清河・副使大伴古麻呂・吉備真備、同行者藤原刷雄ら)は難波津から出航するが、出航を前にして清河が詠んだ和歌が『万葉集』に残っている。

 

ここに客死した清河の追悼をこめて、万葉歌を二首、記憶にとどめる意味でも記しておく。

19 4241 大使藤原朝臣清河歌一首

19 4241 春日野尓(かすがのに)伊都久三諸乃(いつくみもろの)梅花(うめのはな)榮而在待(さかえてありまて)還来麻泥(かへりくるまで)

19 4244 大使藤原朝臣清河歌一首

19 4244 荒玉之(あらたまの)年緒長(としのをながく)吾念有(あがもへる)兒等尓可戀(こらにこふべき)月近附奴(つきちかづきぬ)

 

因みに、光明皇后の歌もある、

9 4240 春日祭神之日藤原太后御作歌一首 即賜入唐大使藤原朝臣清河 參議従四位下遣唐使

 

19 4240 大船尓(おほぶねに)真梶繁貫(まかぢしじぬき)此吾子乎(このあごを)韓國邊遣(からくにへやる)伊波敝神多智(いはへかみたち)

 

なお帰還するにあたって、本船(清河・安倍仲麻呂)は叶わなかったが、鑑真(688-763)を乗せた第二船(古麻呂)等は無事日本へ帰国(753)している。

 

このことが後々の三船に、多大な影響を及ぼすことになり、と言うのも、若いときに唐人の薫陶を受けた僧であったこともあり、外典・漢詩にも優れ、『経国集』にも漢詩5首を載せ、現存最古の漢詩集『懐風藻』の撰者とする説も有力であり、その活躍に至る所は、宝亀10年(779年)の鑑真の伝記『唐大和上東征伝』を著わしたことでもわかるが、『続日本紀』前半の編集にも関与したとされている、その人だからこそ、万葉歌人額田王から漢詩人淡海三船に結実したのだ。 

五言。和(ニ)藤六郎出家之作㈠ 淡海三船

 

靫里辭(ニ)榮親㈠   玄門問(ニ)覺津㈠

法雲爰疊(レ)彩     惠日更重(レ)輪

樂(レ)道心逾逸    安(レ)空理轉眞

高風如可(レ)望    従(レ)子避(ニ)囂塵㈠

 

実はこの藤六郎とは、太師・藤原仲麻呂(恵美押勝)の六男のことであり、官位は正五位下・図書頭である。

天平勝宝4年(752年)遣唐使の留学生として大使・藤原清河に随行、渡航前に無位から従五位下に叙爵され、天平勝宝6年(754年)4月頃帰国したと推察される。 天平宝字8年(764年)に発生した恵美押勝の乱では、一族が悉く処刑された中で刷雄のみは若い時から禅行を修めていた(当時の社会で重んじられていた遣唐使留学生だった経歴が考慮されたものとも)として死罪を免れ、隠岐国への流罪に留められている。

 

せきり【戚里】:天子の外戚およびその親族。

榮親(えいしん):豊かさをもたらし、繁栄に導く

げん‐もん【玄門】:仏の教え

めい‐しん【迷津】:迷いの渡し場の意で、悟りの彼岸に対していう

え‐にち ヱ‥【慧日・恵日】:悟りの智慧(ちえ)が一切の煩悩や罪障を除く働き

どう‐しん ダウ‥【道心】:ことの善悪、正邪を判断し、正道を行なおうとする心。

【逾逸】ゆいつ:安逸にすごす。

くう‐り【空理】:世の中の万物はみな因縁によって起こる仮のもので、実体自性のないもの

クウ【空】《仏教》実体がないこと。

こう‐ふう カウ‥【高風】:けだかいようす。すぐれた風格。

従(レ)子:兄弟・姉妹の子である男子。甥(おい)。 し【子】:有徳の人、一家の学説をたてた人などの敬称。

ごう‐じん ガウヂン【囂塵】:わずらわしい俗世間。

 

戚里は榮親を辞す    玄門の覺津を問う

 法雲はここに彩を畳み  慧日はさらに輪を重ねる

 道を楽しみ心は逾逸なり 空を安んじ理は轉眞なり

 高風のごとく望むべし  子に従い囂塵を避ける

光仁朝に入ると宝亀3年(772年)に赦免されて、本位(従五位下)に復し官界に復帰、氏姓も藤原朝臣に戻される。

宝亀5年(774年)但馬介次いで但馬守に任ぜられると、刑部大判事・治部大輔・上総守と内外の諸官を歴任し、宝亀9年(778年)には従五位上に叙せられている。

桓武朝では、大学頭・右大舎人頭を経て、延暦10年(791年)に陰陽頭に任じらており、なお淡海三船撰の『唐大和上東征伝』に、天平宝字7年(763年)に没した鑑真を悼む五言詩が収録されている。

 

大和上を傷(いた)む    藤原刷雄

 

万里傳灯照   風雲遠国香

禅光糴㈡百億㈠ 戒月皎㈡千郷㈠  

哀哉帰㈡浄土㈠ 悲哉赴㈡泉場㈠  

寄レ語騰蘭跡   洪慈万代光

 

でん‐とう【伝灯】:教法の灯を伝えること。

『糴』の字には少なくとも、糴(ドウ)・ 糴(トウ)・ 糴(テキ)・ 糴(チャク)・ 糴(ジャク)・ 糴(かいよね)・ 糴う(かう)・ 糴(いりよね)の8種の読み方が存在する。

戒(かい)とは、仏教の信徒が守るべき行動規範。

『語』の字には少なくとも、語(ゴ)・ 語(ギョ)・ 語げる(つげる)・ 語(ことば)・ 語る(かたる)・ 語らう(かたらう)の6種の読み方が存在する。

慈(じ)とは、仏教の概念で人々(生きとし生けるもの)に深い友愛の心、慈(いつく)しみの心を持つこと。

 

「万里に傳灯が照り 風雲が遠国に香る

 禅光は百億を養い、戒月は千郷を清める

 哀しいかな浄土に帰り 悲しいかな泉場に赴く

  語を寄せる騰蘭の跡  洪慈は万代の光なり」

奈良時代の学問・文化を考える場合に最も重視すべきは、当文化の受容であり、そこにおける遣唐使の果たした役割が大きかったことは言うまでもなく、その中心は、儒教であり仏教である。

ここに私見をもって、あえて影響力のあった人物を二人あげるとすれば、吉備真備(695-775)と鑑真(688-763)であろう。(栄原永遠男編『平城京の落日』)

 

その真備は、神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。

 

吉備真備は、元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂(698-770)・玄昉(?-746)らと共に入唐する。

唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学んだ。

ただし、真備(22)の入唐当時の年齢と唐の学令(原則は14歳から19歳までとされていた)との兼ね合いから、太学や四門学などの正規の学校への入学が許されなかった可能性が高く、若い仲麻呂や僧侶である玄昉と異なって苦学を余儀なくされたと思われる。

 

唐では知識人として名を馳せ、遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと言われるほどであった。 

『唐大和上(とうだいわじょう)東征伝』は、唐の僧:鑑真の伝記で、『東征伝』とも略称するが、鑑真の弟子思託(したく)が入朝後、伝戒師としての鑑真に対する、僧たちの反感や誤解を解くために書いた『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝」(『広伝』ともいう)3巻本を、思託の要請で、当時文人の首と称された淡海三船(722-785)が麗筆をもって1巻本に整理したものである。(779年) 

このたび鑑真大和上は戒網(かいもう)を張ってわが国に来られ、法進阿闍梨は知恵の炬火を掲げて我が国に来られた。

仏教強化の人材は、今は多くなり盛んになり、仏教が地に堕ち滅びることはないであろうが、これは一重に大和上たちの来日によるものである。

わたしは塵埃の俗界をさまよい歩き、早くから真如の法境に凍頃を惹かれ、今や大和上にお目にかかれて三宝に帰依し、去迷開悟も遠からずと深く喜んでいる。

大和上の高徳を讃えんがために、拙筆を顧みず寸心を述べようと思う」とし、その漢詩二首を三船は記し、宅嗣の一首を載せる。

 

法進(ほうしん、709- 778)は、鑑真に師事して戒律・天台教学を学び、鑑真に従って754年(天平勝宝6年)苦難を乗り越えて日本へ渡ってきた。

淡海三船 漢詩Ⅰ

 摩騰遊㈡漢闕㈠ 僧会入㈡呉宮㈠

豈若㈡真和上㈠ 含レ章渡㈡海東㈠

禅林戒網密   慧苑覚華豊

欲レ識㈡玄津路㈠ 緇門得㈡妙工㈠ 

 

迦葉摩騰(かしょうまとう:生没年不詳)は、インド(中天竺)の仏教の僧侶、後漢時代に竺法蘭と共に中国に仏教をもたらした。

「闕」は宮城の門の意

康 僧会(こう そうえ、? - 280年)は、中国三国時代の呉の訳経僧である。

あに 【豈】:〔下に反語表現を伴って〕どうして。なんで。

『若』の字には少なくとも、若(ニャク)・ 若(ニャ)・ 若(ジャク)・ 若(ジャ)・ 若い(わかい)・ 若しくは(もしくは)・ 若し(もし)・ 若(なんじ)・ 若く(しく)・ 若し(ごとし)の10種の読み方が存在する。

がん‐しょう ‥シャウ【含章】:すぐれたものを内に含むこと。

禅林(ぜんりん)とは、禅宗寺院のことで、禅院(ぜんいん)とも呼ばれている。 【網密】もうみつ:細かな法網。

くろ‐かど【緇門】:「緇門(しもん)」の訓読み。「緇」は黒の意、古く僧は黒衣を着たところから) 仏門の意。

みょう‐こう メウ‥【妙工】:すぐれた細工。また、すぐれた職人。

えおん【慧苑】:(673?-743?)中国,唐の法蔵門下の最もすぐれた華厳学者。

覚[かく]:悟り。仏の智慧。菩提ぼだい。

 

 

「摩騰は漢闕に遊び     僧会は呉宮に入る  

 豈、鑑真和上の如し    章を含み海東を渡る      

 禅林の戒は網密なり    慧苑の覚は華豊なり

 

 玄津の路を識ると欲すれば 緇門は妙工を得る 

淡海三船 漢詩Ⅱ

 

我是無明客   長迷㈡有漏津㈠

今朝蒙㈡善誘㈠ 懐抱絶㈡埃塵㈠

道種将レ萠レ夏  空華更落レ春

自帰㈡三宝徳㈠ 誰畏㈡六魔瞋㈠ 

 

無明(むみょう、梵: avidyā)とは、仏教用語で、無知のこと。真理に暗いことをいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。

有漏(うろ、梵: sāsrava)とは、仏教において、煩悩に関わる法のこと。

『蒙』の字には少なくとも、蒙(モウ)・ 蒙(モ)・ 蒙(ム)・ 蒙(ボウ)・ 蒙る(こうむる)・ 蒙い(くらい)・ 蒙う(おおう)の7種の読み方が存在する。

ぜん‐ゆう ‥イウ【善誘】:よい方に教え導くこと。

かい‐ほう クヮイハウ【懐抱】:ある思いや計画などを心の中に持つこと。

【埃塵】あいじん(ぢん):ほこりにまみれた状態

くう‐げ【空花・空華】:本来存在しない実体や自我をあるかのように執着する

三宝(さんぼう)とは、仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物

瞋(しん): 衆生、苦を備えた心への怒りを本質とし、安穏ならざる〔状態〕に住し、悪しき行い〔を為すこと〕の依り所たることを作用とする。

 

「われはこれ、無明の客なり 長く、有漏の津に迷う  

 今朝、善誘を蒙り     懐抱は埃塵を絶つ  

 道種はまさに夏に萌え   空華は、さらに春に落とす  

  自ずと、三宝の徳に帰る  誰ぞ、六魔の瞋を畏れる」

大和上を傷む    石上宅嗣

 

上徳従㈡遷化㈠ 餘灯浴レ断レ風

招提禅草剗   戒院覚華空

生死悲含レ恨  真如歓豈窮

惟視常修者  無㈢處不㈡遺蹤

 

遷化(せんげ)は、高僧の死亡を、婉曲的に、かつ、敬っていう語[1]。 じょう‐とく ジャウ‥【上徳】:すぐれた徳。最上の徳。

しょう‐だい セウ‥【招提】:「四方」と訳し、衆僧の住む客房の意

【剗】:[音]サン・ セン[訓]けずる・ たいらにする 悲(ひ)とは、仏教の概念で人々(生きとし生けるもの)に苦しみをともにする同感(同情・共感)の心を持つこと。

真如(しんにょ)は、「あるがままであること」という意味があり、真理のことを指す。

い‐しょう ヰ‥【遺蹤】:残されたあと。遺跡。

 

「上徳は戦禍に従い あまり灯は風を絶ちても浴びる  

 招提の禅草は平なり 戒院の覚華は空なり  

 生死の哀しみは恨みを含み 真如の歓びは豈窮まらむ  

  これ視るは常に修者なり  遺蹤ならざるとこなし」

次の漢詩は、『経国集』における三船の五首目の漢詩だが、この死に三船自身が託されていると思い最後に記す。

 

五言。贈(ニ)南山智上人㈠  淡海三船

 

独居窮(ニ)巷側㈠   知己在(ニ)幽山㈠

得(レ)意千年桂   同(レ)香四海蘭

野人披(ニ)薛衲㈠   朝隠忘(ニ)衣冠㈠

副(レ)思何處所    遠在(ニ)白雲端㈠

 

どっ‐きょ〔ドク‐〕【独居】:ひとりきりで暮らすこと。

きゅう‐こう ‥カウ【窮巷】: 行きどまりになっている路地。むさくるしいちまた。

ち‐き【知己】 : 自分のことをよく理解してくれている人。

深山幽谷(しんざんゆうこく):深く幽玄な趣を見せる山岳と渓谷の織り成す大自然のさま

幽山:奥深い自然の地

意(い)を◦得(え)る : (多く打消しの語を伴って用いる)物事の意味・理由などがわかる。

【薛衲】は、【衲衣】(のうえ): 人が捨てたぼろを縫って作った袈裟 (けさ) のこと。

『薛』の字には少なくとも、薛(セツ)・ 薛(セチ)・ 薛(はますげ)・ 薛(かわらよもぎ)の4種の読み方が存在する。

【朝隠】ちよう(てう)いん:高位にあって隠士の心を守る。

 

「独居は巷側に窮まり   知己は幽山にあり    

 意を得て千年の桂    香を同じく四海の蘭    

 野人は薛衲を披き    朝隠は衣冠を忘れる    

   思いを副えいずこの所ぞ 遠くに白雲の端あり」   

 

三船はまるで最期を迎えたかのように、穏やかな日々が見えるようなのだが、この漢詩の題には【南山の智上人】とあり、いったい誰のことだと思いきや、釈智蔵(ちぞう)のようである。 飛鳥時代に呉から父・福亮と共に来日し、元興寺で慧灌(えかん)に三論を学び、その後、唐に渡り、恵灌の師であり三論宗の大成者でもある吉蔵(きちぞう)に直接師事、帰国後、法隆寺で三論宗を広めたという。

天武天皇2年(673年)に僧正となり、詩作にも優れ、漢詩2首が『懐風藻』に撰録されており、その漢詩は三船の祖父葛野王の前に編集されており、「われも亦、経典の奥義を曝涼する」と言った智蔵の言葉に共感していたのかもしれない。