鏡姫王と鏡王女(額田王)
皇子らが成長すると、8年(679年)5月5日に天武天皇(69)と皇后(持統34)は天武の子4人(高市・草壁・大津・忍壁)と天智の子2人(河島・志貴)とともに吉野宮に赴き、6日にそこで誓いを立てた。 天皇・皇后は6人を父母を同じくする子のように遇し、子はともに協力するという、いわゆる吉野の盟約である。
しかし、6人は平等ではなく、草壁皇子(17)が最初、大津皇子(16)が次、最年長の高市皇子(25)が3番目に誓いを立て、この序列は天武の治世の間維持された。(額田42・十市26)
天智天皇の子は皇嗣から外されたものの、天武の子である草壁は天智の娘阿閉皇女(元明天皇)と結婚し、同じく大津は山辺皇女(天智の娘)を娶り、天智天皇の子川島皇子は天武の娘泊瀬部皇女と結婚した。
天武の皇后も天智の娘であるから、天智・天武の両系は近親婚によって幾重にも結びあわされたことになる。
天武十二年(683)秋七月四日、天皇は鏡姫王(かがみのおおきみ:藤原鎌足の嫡室)の家にお越しになり、病気を見舞われたが、五日、鏡姫王は薨じた。
『日本書紀』にある鏡姫王(かがみのおおきみ:?- 683年8月2日)は、飛鳥時代の歌人で、 藤原鎌足の正妻とあり、『万葉集』では鏡王女と記されている。
素性は謎に包まれており、額田王の姉という説もあり、それを『万葉集』から探ってみようと思う。
もはやお分かりだと思うが、【万91・92】の天智天皇との掛け合いで、鏡王女は額田王と推察してたのだけど・・・。
0093 内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首
02 0093 玉匣(たまくしげ)覆乎安美(おほふをやすみ)開而行者(あけていなば)君名者雖有(きみがなはあれど)吾名之惜裳(わがなしをしも)
『娉』の字には少なくとも、娉(ホウ)・ 娉(ヘイ)・ 娉(ヒョウ)・ 娉る(めとる)・ 娉う(とう)の5種の読み方が存在する。
つまり、大臣が鏡王女をめとるとき、王女から贈った歌なのだが、中臣 大島(なかとみ の おおしま)は、飛鳥時代の貴族・漢詩人であり、その氏姓は中臣連のち中臣朝臣だけでなく、藤原朝臣とも呼ばれていたのだ。
0094 内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首
02 0094 玉匣(たまくしげ)将見圓山乃(みむろのやまの)狭名葛(さなかづら)佐不寐者遂尓(さねずはつひに)有勝麻之自(ありかつましじ)或本歌曰玉匣(たまくしげ)三室戸山乃(みむろとやまの)
天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により連姓から朝臣姓に改姓し、その後時期は不明ながら藤原朝臣姓に改姓している。
たま-くしげ 【玉櫛笥・玉匣】は、(くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる)とあるけれど、ここは、(たま‐てばこ【玉手箱】)と訓み、美しい手箱で、秘密にして容易には人に見せないもののたとえにも使うのだが、要するに浦島伝説である。
『匣』の字には少なくとも、匣(ゴウ)・ 匣(コウ)・ 匣(はこ)の3種の読み方が存在する。
おほひ 【庇ひ・覆ひ】:上からかぶせるもの。
あん‐ぴ【安否】:(「あんび」とも)あれこれと考えること。
『開』の字には少なくとも、開(ケン)・ 開(カイ)・ 開ける(ひらける)・ 開く(ひらく)・ 開ける(はだける)・ 開かる(はだかる)・ 開ける(あける)・ 開く(あく)の8種の読み方が存在する。
『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに)・ 而も(しかも)・ 而して(しかして)の9種の読み方が存在する。
置き字『而』の漢詩的訓は、順接の接続詞となる場合は、『而』の直前の語に送り仮名の「テ・シテ」を付けます。
『行』の字には少なくとも、行(ゴウ)・ 行(コウ)・ 行(ギョウ)・ 行(ガン)・ 行(カン)・ 行(アン)・ 行く(ゆく)・ 行る(やる)・ 行(みち)・ 行う(おこなう)・ 行く(いく)の11首の読み方が存在する。
『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。
『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。
きみ‐な【公名・君名・卿名】:父の職名をつけて、大蔵卿、治部卿、右中将、大納言などと公卿の名で呼ぶこと。
あれ-ど:〔「…はあれど」の形で〕…はともかくとしても。…は別としても。
『惜』の字には少なくとも、惜(セキ)・ 惜(シャク)・ 惜しむ(おしむ)・ 惜しい(おしい)の4種の読み方が存在する。
をし/惜し:もったいない、名残惜しい、失いたくない、大切で手放しにくい。
『裳』の字には少なくとも、裳(ジョウ)・ 裳(ショウ)・ 裳(もすそ)・ 裳(も)の4種の読み方が存在する。
たまてばこ おほひをあんび あけてみし きみなもあれど わがなのをしも
「玉手箱の中をあれこれ考えた末見てみたら、あなたの名前もあって、わたしの名があるのが恐れ多いことよ」
『将』の字には少なくとも、将(ソウ)・ 将(ショウ)・ 将に…す(まさに…す)・ 将いる(ひきいる)・ 将(はた)の5種の読み方が存在する。
『圓』の字には少なくとも、圓(オン)・ 圓(エン)・ 圓(ウン)・ 圓やか(まろやか)・ 圓い(まるい)・ 圓か(まどか)・ 圓か(つぶらか)の7種の読み方が存在する。
【将見圓山乃】:まみえんやまの
さな-かづら 【真葛】:つるが長くのびて末でからみ合うところから「後(のち)も逢(あ)ふ」にかかる。
ね・ず ねづ【捩・捻・拗】:ね・づ 〘自ダ上二〙 くねり曲がる。ねじくれる。
かつ-ましじ:…えないだろう。…できそうにない。
たまてばこ まみえんやまの さなかづら さねずはつひに ありかつましじ
「玉手箱の中でまみえることがなくても、後には会えるという蔓だが、ついにも会えないということかなぁ」
談山神社所蔵の「栗原寺三重塔伏鉢」(国宝)銘文からは大嶋の夫人である「比売朝臣額田」(ひめのあそみぬかだ)が80歳近くまで生きたことがわかる。
このことだけで、額田王と断定することは無理かもしれないが、まだまだ鏡王女の歌はあるのである。
『日本書紀』の鏡姫王は、素性は謎に包まれているが、額田王の父・鏡王との血縁関係はなかったとしても、同じ「鏡」という名が付いている事から、鏡を作る氏族に養育された可能性はある。
また、鏡王女には舒明天皇の皇女ないし皇孫だという説があるのも、鏡姫王の墓が舒明天皇陵の域内にあることから、舒明の皇女で天智の異姉妹とする説が有力である。
舒明天皇の埋葬について、『日本書紀』では天皇崩御翌年の皇極天皇元年12月13日(643年1月8日)に喪を起こし、皇極天皇元年12月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られたうえで、皇極天皇2年9月6日(643年10月23日)に「押坂内陵(おさかのうちのみさぎ)」に改葬されたとする。
加えて、陵内には糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ:舒明の母)押坂墓、陵域内には大伴皇女(おおとものひめみこ:欽明の皇女)押坂内墓、陵域内東南には鏡女王(鏡姫王)押坂墓が所在するとする。
その墓は舒明天皇陵からさらに奥の谷合にあり、万葉学者の犬養孝は、この場所に立って著書「万葉とともに」に記している。
「・・・やや高みのところに欽明天皇の皇女、大伴皇女の墓がある。ここから南を振り返れば、中央すぐ下にこんもりとした鏡女王墓をおいて、遠く左手に音羽山のおおきな山塊を、右手には多武峰の山容をのぞみ、こんにちの大和では珍しく、ただ一軒の家もなしに、晩秋もみじの頃など、四周は黄に褐色して紅に染められ、満山椒として声なしといってよい。静寂の山ぶところとなるのである。将来はわからないにしても、せめてこのやまぶところの静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていってほしいものである。そこには千三百年の声々が、心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生きづいているのだから」
藤原鎌足を祀る談山神社境内にも恋神社という縁結びの名所があり、その神社にも藤原鎌足の妻である鏡女王(かがみのおおきみ)が祀られています。
談山神社本殿前の石段を下って左手に、東殿へと続く恋の道(恋神社参道)が続いており、注連縄(しめなわ)に紙垂(しで)をぶら下げた「むすびの岩座(いわくら)」があり、東殿の正面に鏡女王像が祀られている。
王女でなく、女王の万葉歌さえ残っていたらその素性もわかるかもしれないが、女王の正体を推理することもできない。
吉川敏子は、鏡王女は天智・天武両天皇の異母兄にあたる古人大兄皇子の子であるとする説を提唱した。
古人大兄皇子は舒明天皇と蘇我氏の女性との間の子で、中大兄皇子とは皇位継承をめぐって競合関係にあり、大化元年(645年)に謀反の疑いにより中大兄によって誅殺された。
中大兄皇子は同じく古人大兄の子である倭姫王も后妃としており、古人大兄皇子の女子が中大兄皇子への恨みを抱いたまま他の王族と結婚するのを避けるため、中大兄とこの姉妹の婚姻が成立したと考察している。
確かに鎌足には、万葉集に【内大臣藤原卿娶采女安見兒時作歌一首】があるが、とても女王の話とは思えないので関係ないと思う。
02 0095 吾者毛也(あはもや)安見兒得有(やすみこえたり)皆人乃(みなひとの)得難尓為云(えかてにすとふ)安見兒衣多利(やすみこえたり)
かて-に:…できなくて。…しかねて。
われはもや やすみこえたり みなひとの えかてにすとふ やすみこえたり