桃ヶ池公園
ここから阿倍野区と言うことになるけれど、まだ天王寺区から抜け出せないでいるのは、和気清麻呂の治水について説明しておきたいからだ。
延暦4年(785年)、和気清麻呂の手により、神崎川と淀川を直結させる工事が行われ、大阪湾から長岡京方面への物流路を確保した(治水対策としては、淀からの堆砂が災いし安威川に逆流をみるなど問題も多かった)。
そして延暦7年(788年)の清麻呂の治水工事は、天王寺の茶臼山の南側にある河底池(こそこいけ)が、その痕跡ではないかと指摘されていたんよ。
つまり、ここから東のJR寺田町駅付近にかけて不自然な窪地が続き、河堀町(かわほりちょう)や河堀口(こぼれぐち)という地名も残っており、これこそが清麻呂の付け替え工事の痕跡だというわけ。
一方で、茶臼山は古墳であり、河底池はその堀であるという考えもあったけれど、近年の調査によって、近世に大規模な盛土が行われていることが確認され、古墳の可能性が低くなったものの、否定されるものでもないのだ。
ここはブラタモリに登場してもらう必要があるってもんだ。
右の画像が、大坂の陣史跡である茶臼山古墳は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳であり、大阪府指定史跡に指定されている。
古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備されている。
公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われているのだ。
左の画像が、河底池に架かっている和気橋で、その由来も、清麻呂からなのだが、平城京末期から平安京初期に主に、土木事業の責任者として活躍していた。
宝亀5(774)年に国造(くにのみやつこ)となり、土木事業の長官を勤め、延暦2(783)年に摂津職(せっつのかみ)となり、現在の大阪一帯を整備し、大和川放水路の開削(途中で中断)などをおこなった。
清麻呂の計画はなかなか優れた着眼であったと評価できるが、そのルート最高点は現在の谷町筋と交差するあたりで、標高14.2m。
これは源ケ橋(生野区)の4.9mnに比べて10m近くも高い(標高はいずれも地理院地図で現況値を測定したもの)。
当時の技術ではこれだけの掘削ができなかったということなのだろうが、河底池の縁に立って西を見ると、10mほどの崖の下に動物園や新世界の歓楽街が広がる。
河底池を含む上町台地を掘り下げることができたら、河内川の水は問題なく大阪湾に流れたはずで、清麻呂の無念が伝わってくる。
清麻呂公は「人と為り高直にして、匪躬(ひきゅう)の節有り」(「日本後記」)、また「故郷を顧念して窮民を憐れみ、忘るることあたわず」(同)、などと史書にあるように、清廉剛直にして、誠実な人柄でした。
河内と摂津の国境に水利を通じたのをはじめ、京阪神地帯繁栄の基礎を築き、先進技術を駆使して、数多くの治山治水事業を手掛けました。
これによって民生の安定を図り、「庶務に練にして、もつとも古事に明るく・・・」と評され、学問に造詣の深い文化人であった。
道の旅人は、和気橋から大阪市立美術館の前を通り、『てんしば』エリアを抜けて、阿倍野橋を行くと、右の画像阿倍野歩道を渡れば、ハルカスへたどり着くのだ。
つまり、この【a】が天王寺と阿倍野の分岐点になり、北側は谷町筋、南側は阿倍野筋となり、全く違った文化圏を構成している。
天王寺は、四天王寺の略称として平安時代から使用されていたが、当地で合戦が繰り広げられた南北朝時代から地名に転訛した。
駅北西に位置する一心寺から生國魂神社にかけては「夕陽丘」と呼ばれ、上町台地はこの辺りが急崖になっており、落陽の眺めが良い。
阿倍野は、四天王寺 -住吉大社間の上町台地上および西斜面を指す地名で、摂津国から和泉国に至る交通の要衝地だったが、高燥地であるために荒涼とした原野が広がっていた。
中近世には「阿部野」と表記されることが多く、現在でも大阪阿部野橋駅や阿部野神社にその名残をとどめている。
地名の由来として最も有力な説は「阿倍寺」やその建立者である「阿倍氏」とされ、これに基いた表記である「阿倍野」が近現代においては主流となっている。
道の旅人は、阿倍野歩道橋から東に下っていくと、高松西の交差点出る。
そこが下高野街道で、天王寺南に入り、阪和線の高架をまたいでる河堀口(こぼれぐち)駅(近鉄無浪大阪線)の前を通り、そしてJR阪和線沿いに南に向かうと、美章園駅にでる。
さらに南に向かうのだが、もはやそこは東住吉区域に入り、松虫通迄出たら、東側の一つ目の信号を渡り、北田辺5丁目で庚申街道と交差する。
この庚申街道が、桃ヶ池の北端で東に折れてきたのだ。
つまり、下高野街道の西側に桃が池があり、古くから「ももがいけ」と呼ばれていたが、聖徳太子の使いが大蛇退治をした際、水深が腿(もも)程度だったためと言う説がある。
それはともかく、道の旅人がわざわざこの桃が池を入れたのは、もう一つ、古代の大道がこのあたりの池を縫って走っていたように思えるからだ。