竹内街道

 

推古朝21年(613)聖徳太子の命により、官道として堺より大和飛鳥への大道として設けられた最初の道である。

しかしこの大道は、5世紀のころすでにあった、丹比道(たじひみち)と呼ばれた古道(難波から飛鳥)を整備したものなのだ。


 しかも、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路でもあるんよ。

さらに云えば、古代において羽曳野市を横断する竹内街道沿いには、野中寺や善正寺など多くの古代寺院が創建されるなど、その重要性がうかがわれるんだ。

 

飛鳥時代にはこの道を通って、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらしたことになるんだ。

また、近世にはお伊勢(いせ)参りなどで往来が復活し、商都堺(さかい)へ通じる道として、再び重要性が増して来るんよ。

 

竹内街道こぼれ話

この日本最古の「官道」を、道の旅人が駆けていく。それは、世界文化遺産に登録を目指している、百舌鳥古墳群・古市古墳群を辿る道であり、それはまた、磯長谷(しながたに)古墳群へと続くのである。特に磯長谷は天皇陵4基と聖徳太子廟の5つの古墳は、梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」(うめばちごりょう)と総称される。

 

三国ケ丘

摂津・河内・和泉の三国を意味したもので、それを象徴するかのように方違神社があるんよ。ただこの神社、長尾街道沿いにあり、しかもその南側に、反正天皇陵があり、さらに仁徳・履中へと続く、百舌鳥古墳群の一基である。さらに言えば、堺は「五街道」の交錯する所であり、云わば諸国の玄関口なのだ。

金岡神社

この地で、巨勢金岡を知ることになるとは思わなかった。確かに、古代豪族としての巨勢氏については知っていたが、それが主役になることはなかった。しかし、この金岡は『神』になったのだ。ところで、金岡の墓ではないが、巨勢家のお墓が、本能寺にあり、古くからの檀家であったことを示している。

柴籬神社

ここで、反正天皇の丹比柴籬宮に、しばし寄り道することになる。しかも、井原西鶴が立ち寄って、句を詠んでいる。またこの天皇は、丈夫な美しい歯の持ち主で、その由来からか、“歯磨き面”があり、歯の神様として祭られているのである。歯に自信のない道の旅人にとっても、お参りしておきたいところなのだ。

野中寺

この街道を挟んで、北に中之太子、南に来目皇子(太子の同母弟)の墓がある。皇子を将軍に、新羅征討の軍を起こしたが、渡海準備中に死去したのだ(602年)。後任には当麻皇子(太子の異母弟)が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この時、28歳の太子は?翌年には、冠位十二階が制定されたのだが・・・。

旧石器人のアトリエ

およそ2万年前の、石器作りの跡が発見された翠鳥園遺跡が、遺跡公園として公開されているんよ。旧石器人が、一所(ひとところ)に居て、そのまま縄文人になり、弥生人になったとは考えられないよね。しかし、この河内という国を考える時、職人達や技術集団が、古代から現代に至るまで息づいているように感じさせてくれるんよ。

白鳥陵

羽曳野市の由来となった、ヤマトタケルの陵である。ヤマトタケルは、伊勢国能褒野で薨じ、『古事記』においては白鳥となって飛び、河内国志幾に留まり、『日本書紀』では、まず大和国琴弾原(奈良県御所市冨田)にとどまり、さらに白鳥となって河内国旧市邑にいきとどまったと云うのだが、この三国に記紀の象徴を読み取ろうと思うのだが・・・。

臥竜橋

羽曳野市の南東部から流れる石川は、付け替え(1704年)によって、北方向から西方向へ向きを替えた大和川と合流している。飛鳥時代の地勢が、どのようなものであったか分からないが、この川を挟んで、蘇我と物部がにらみ合っていたように思えるのだ。つまり、近つ飛鳥と河内王国を意味するのだが、古墳時代の河内王朝とはいかなくても・・・。

隼人石

墓地の守り神であろう隼人石に惹きつけられるけれど、実はこの杜本神社にこそ、クローズアップすべき歴史を孕んでいるのだ。と云うのが、反正天皇が祀られている若宮があり、平安初期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀(まつ)る神社でもあったのだ。この永継は、藤原冬嗣の母であり、後には桓武天皇の寵愛も受けた。

源氏三代の墓

以前から、“源氏三代”については知っていたのだが、竹内街道とは結び付かなかった。ところが役行者の道を見つけることができ、つながったのである。そしてこの三代の系譜は、まさか幕府が置かれるとは思いもよらなかったであろうが、“いざ鎌倉の地”は、すでに視野に入れていたのである。 

王陵の谷

百舌鳥・古市古墳群に導かれた奥に、古墳時代に終わりを告げる、磯長谷古墳群がある。ここを、聖徳太子は生前、墓所と定めていた(620年)。そして翌年、母の穴穂部間人皇女が没したことを考えると、母子合葬を急いでいたのかもしれない。しかし思いもよらず、次の年に、妃の膳部菩岐々美郎女、そして太子自身が追葬されることになるとは・・・。

孝徳天皇陵

乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)は、中大兄皇子中臣鎌子らが宮中で、蘇我入鹿を暗殺して蘇我本宗家(蝦夷は自害)を滅ぼした。とは言え、蘇我傍流は蔓延っており、その中で大化の改新を押し進めたのが、孝徳天皇である。この政治的バランスをかろうじて保っていたのが、僧旻ではなかろうか?