中国街道(山陽道)

西國地方と大坂との交流は、物資輸送の面では、瀬戸内海を利用した船便による方法が多く取られていたのであるが、人の往来の面からは、四国は別として、九州・中国から京・大坂への旅は山陽道に拠るのがふつうであった。

この山陽道には、之というった難所もなく、特に大坂には西国諸藩の蔵屋敷が置かれそれぞれの藩士が詰めていたことなどのため、各本藩との財政面でのかかわりも深かったのである。

さらに江戸時代より以前には境興屋大坂各地における内外物質の交易、それに伴う商人の往来、それらの利権に関係を持つ武家などの活動も見られていたわけである。

しかし、徳川幕府の政権が確立し、江戸に政治の中心が移ってからの西国大名による参勤交代は、西国街道に拠っていたようで西宮から分かれて大坂北部を得て京に入るので、、大阪の中心部は通っていない。

つまり大阪は、上代が幕府直轄で居るのみで、経済面では重要地であるのに反し、政治面からはいささか影は薄くなったと言える。

山陽道は、大坂の中心であった大坂城大手口の東にあたる高麗橋が起点で、大坂より諸街道の出発点としての高麗橋については、江戸時代に幕府が管理した十二公儀橋でも、高麗橋は一番格式が高く、西詰には幕府の制札場があった重要な地点であり、大坂での街道の起点としてふさわしいところである。(武藤善一郎『大阪の街道と道標』)