下高野街道

大阪から庶民が遠出をかける主要な参詣対象としては、四国八十八箇所参り・新西国参りなどもあるが、一般的には伊勢参宮・大峰山参り・熊野詣で、金毘羅参り・西国三十三箇所参りや高野山参りがあげられるが、これらの内で比較的にお参りしやすい高野参りは、多くの人々が足を運んでおり、東・西・中高野ときて、最後に下高野街道を辿ることにする。

 

各村の村誌には、村内の下高野街道の道筋についての記述があり、『東成郡誌上巻』p360の「天王寺村」の項や『天王寺村誌』p35の記述によると、「大阪市南区(1989年廃止)大道三丁目で奈良街道より分岐し、天王寺師範学校(天王寺区南河堀町)の東を迂回し、城東鉄道線(大阪環状線)と交差して本村大字天王寺字河堀口に入り、南行して田辺町に入る」と記されています。

 

まず下高野街道を、四天王寺西門(天王寺区四天王寺)を起点とし、南北に走る熊野街道の通過点である。

次に庚申堂の南側を通り、JR天王寺駅に向かい、そのホームをまたぐ橋を渡ればJR東口に出て、その前が近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅東口で、地下コンコースを通る形で南北を結んでいるのだ。

 

『田辺町誌』p17には「大阪関茶屋線(下高野街道)」と題し、その道筋は「本街道は北方北百済村(大阪市東住吉区)より大字北田辺に入り、南進して大字南田辺を通り、南方南百済村(大阪市東住吉区)に至る。」と記されています。 北百済村とは、現在の桑津・今林・杭全・今川にあたり、南百済村は、中野・針中野・湯里・鷹合、つまり、長居公園の東部におおむね該当する。

 

明治23(1890)年ごろに道幅を広げる改修工事があり、こののち下高野街道と呼ばれるようになったことが、両資料からわかるのだが、大和川にかかる橋の名も「下高野橋」なのである。

下高野街道こぼれ話

西除川(にしよけがわ)は、大阪府を流れる大和川水系の一級河川で、狭山池から堺市東区、美原区、松原市を通り、堺市北区で大和川と合流する。

かつては、大和川の付け替え前は、現在の松原市付近からそのまま北上し、天道川(今川・駒川)として流れ、平野川に合流し、大阪城の北側で大川(旧淀川)に注いでいたのだ。

現在の流路は、松原市の高木橋付近で西へ流路を変えて堺市に入り、大和川と平行しJR浅香駅の西で大和川に合流しているのだが、下高野街道は、この西除川と引っ付いたり離れたりしながら狭山池をめざすのだ。

四天王寺西門

石鳥居(重要文化財) - 中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。

永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を忍性が勅を奉じて石鳥居に改めたもので、神仏習合時代の名残である。

鳥居上部に掲げられた扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と浮彫風に鋳出してあり、釈迦如来が仏法を説いている場所で、ここが極楽の入口であるとの意である。ここと西大門は西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。

桃が池公園

池は古くから「ももがいけ」と呼ばれていたが、かつては「百ヶ池」「脛ヶ池」「股ヶ池」とも表記された。

名称については、池がいくつもあるため百ヶ池という説や、池の形が股引のような形になっていることに由来するという説や、聖徳太子の使いが大蛇退治をした際水深が腿程度だったためなどの説がある。

池周辺は古代より集落であったと考えられ、阪和線の高架工事の際に弥生時代の遺跡が発掘されており、 近辺は田辺古墳群と言われてもいるが、この周辺に難波大道が走っていた。

田辺不動尊法楽寺》-

法楽寺境内の一隅に、書道作家・故小坂奇石氏(1901-1991)の作品を展示するギャラリーがあり、「奇石体」「奇石流」と呼ばれる独自の書風を確立して、書家としては初めて「日本芸術院恩賜賞」を受賞した人物。

このギャラリーでは、小坂奇石氏の作品160点を所蔵・展示しており、また、館内では、法楽寺800年余の歴史の中で伝えられてきた数々の仏教美術の展示のほか、現代に活躍する仏教関係の芸術家作品の発表もなされている。

布忍八景

布忍神社にある本扁額は、約50センチメートル×2メートルのケヤキ板に布忍周辺の情景を彩色で描き、そこに漢詩や狂歌、俳句などが書き添えられたものです。

1枚の板に2つの景色が描かれており、「宮裏白櫻 狐村夕照」・「野塘春日 平田秋月」、「南山残雪 西海晩望」・「竹林黄雀 篭池白鴎」の4面が1組揃えとなります。

これら4面の扁額は数十年前に向井村庄屋の寺田家より寄進されたもので、布忍神社に奉納されていた「宮裏白櫻 狐村夕照」・「野塘春日 平田秋月」の2面の扁額とあわせて合計6面が現在残っているんよ。

法雲寺

下高野街道は、西除川に沿っていくのだが、まさか、西除川を挟んで、こんなに近くを通るとは思っていなかった。

寛文12年(1672年)に、宗月は宇治・黄檗山万福寺の開祖の隠元隆琦の弟子である慧極道明(えごくどうみょう、1632年~1721年)に寺地と寺を譲り、延宝5年(1677年)に禅堂を、延宝8年(1680年)に鐘楼を建立し、その後、30年をかけて大門、大方丈、開山堂、斎堂、天王殿、長生閣などの二十数棟を整備したーその境内の大きさにびっくりする。

狭山池博物館

狭山池は、飛鳥時代(7世紀前半)につくられた、1400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池で、現在もなお280万立方メートルの貯水量を誇る大阪府下最大のダムとして利用されている。

過去の改修には、奈良時代の行基をはじめ、鎌倉時代の重源、江戸時代の片桐且元など、多くの歴史上の重要人物が携わってきたといわれる。

平成13年(2001)、大阪狭山市にオープンした狭山池博物館では、そんな狭山池の改修工法や堤の実物などを時代ごとに7つの展示ゾーンへ分けて保存・展示しながら、日本の土木と治水の歴史の紹介を行っており、斬新な建物のデザインは、日本の代表的建築家・安藤忠雄氏の設計によるもの。

《中高野街道合流》

報恩寺(大阪狭山市狭山4)付近で中高野街道と合流とあるが、実際はそれより西側での合流となる。

 

此処を江戸時代には、画家が【狭山八景】を掛け軸 (蓮光寺所蔵)にしており、景観の年代は元禄5年(1692) 以前と推定され、八景としては次のものが描かれている。

 

池之原暮雪・極楽寺晩鐘・西徐橋往還 ・北堤之夕照 ・明神森夜雨 ・並松之晴嵐 ・半田之落雁 ・葛城之秋月

 

「池之原」は狭山池西岸に地名として残り,「極楽寺」は狭山池北方の池尻中1丁目に存在す る。

「西徐橋」は狭山池の北西側の西除川に架かる橋 の ことだ ろうか。

「北堤」は狭山池 の北岸の堤のことで,「明神森」は今の狭山遊園(現:さやか公園)の場所に位置 していた。

「並松」は現在の狭山2丁目から3丁目あたりで,「半田」という地名は狭山池の南東側に残 っている。

「葛城」は大阪府と奈良県の境にある山で,狭山市の南東に眺め られ る。

この「狭山八景」では葛城山を除くと,狭 山池の周辺1kmほど の範囲の事物が選定されている。

広大 な狭山池は江戸時代には景勝地として魅力があったので,「瀟湘八 景」あるいは 「近江八景」にな らって八景を創作 した とい うことなのだろう。 

 

「狭 山八景」も画家が景勝地を描 いて気ままに名称を付 けたもののようで,一 般には広まって いない。

このように画家が八景 を創作するということは,意外と多かったのではないだろうか。

                       (飛田範夫『大阪府下の八景の特性』)

 

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