契沖生誕の地

一心地蔵から西に向かって、園田橋線を南に向かい、JR東西線(京橋-尼崎)を渡って、ヤンマーフィールド尼崎(常光寺1-2)を過ぎ、皇大神社(常光寺1-18)の手前の道を西に向かい、最初の四つ角で南に折れて、波洲(なみす)通りを渡って、道なりに西に折れ、長洲線の信号機を西(再び波洲通り)に向かい、最初の角を南に折れ、小田高(長洲中通2)のあたりで西南西に進路をとる。

その先に尼崎道標(長洲本通3)があり、それに沿って南に向かうと、大物線に出て、稲川公園に沿って稲川橋の交差点を渡り大物公園沿いを行く。

尼崎城(尼崎市北城内)は大物川(現在は埋立)と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれた城で、尼崎城に直接船が横付けできたことから、海に浮かんだような城であったと言われている。

東三之丸・南浜・西三之丸を取り囲むように東本町・築地・西本町といった城下町が形成され、大坂と西宮を結ぶ中国街道(現・国道43号)を取り込んだ。

家電量販店・旧ミドリ電化(現エディオン傘下)創業者の安保詮(あぼ あきら)は、創業の地に恩返しがしたいと考え、10億円以上の私財を投じて天守を再建した上で尼崎市に寄贈したいとして、2015年(平成27年)11月25日付で、市有地の利用などについて市と「尼崎城の建築及び寄附に関する協定」を締結した。

ところが天守跡地には周辺施設が既に様々にあって、北西約300メートルずれた地点に築かれた。

実はこの道は、本来の中国街道ではなく、大物線に沿って大物主神社を過ぎ、43号線を北に進路をとると、明城小学校(尼崎市南城内)の西側を行く。

本来の西道(中国街道)が城内二之丸南浜を通る筋を変えるため、1635年(寛永12)から1665年(寛文5)にかけて城外南側の葭島に築地町を建設した時にできたと考えられる。

西道(中国街道)が城の北と南の二筋に分かれたのだが、築地町の南部にえびす宮が鎮座し、その関係から築地本町筋において東側端に大黒橋(旧中国街道)、これに対する西側端に戎橋があり、両橋の名称のいわれが察せられる。

摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた第三子の契沖は、幼くして11歳で摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。

 

徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』は、文献資料に根拠を求めて実証することを尊重した『万葉集』の注釈書である。

 

その結果、語法に規則性があることを見出すなど、現在の日本語学の基礎となる現象を多く指摘した。

そうした『万葉集』の正しい解釈を求める内に、契沖は当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いの例を『万葉集』のみならず、『日本書紀』『古事記』『源氏物語』などの古典から採集して分類した。

こうして成立したのが『和字正濫鈔』だが、これに準拠した表記法は「契沖仮名遣」と呼ばれ、後世の歴史的仮名遣の成立に大きな影響を与えている。 

 

声はして 空行雁の つらつらに みれどもみえず かすむ夕ぐれ 

1617年、膳所藩から尼崎藩へ移封された戸田氏鉄が尼崎城築城の際、城域にあたる大物周辺(現・尼崎市大物~東本町)に多くあった寺院を別所村へ集め、一画を寺町(現在11寺)とした。 国の重要文化財7件をはじめ、県・市の文化財が多数あり、尼崎市都市美形成条例によって景観の保全・整備が進められ、「寺町地域散策道」で、平成元年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み部門)受賞している。

なお、法園寺(ほうおんじ)は、兵庫県尼崎市寺町にある浄土宗鎮西派の寺院。山号は恵光山、院号は謝徳院、本尊は阿弥陀如来。佐々成政終焉の地である。 肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政が、天正16年(1588年)閏5月14日(7月7日)に当寺で切腹させられ、本堂内には墓石の五輪塔(高さ88.7cm)がある。

天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、その後の九州国分では肥後一国を与えられた。秀吉は早急な改革を慎むように指示したとも言われるが、病を得ていた成政は、早速に検地を行おうとし、それに反発する隈部親永を中心とする国人の一斉蜂起を招くこととなり、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。

天正16年(1588年)2月、成政は謝罪のため大坂に出向いた。

 

秀吉に面会を拒否され尼崎に幽閉され、安国寺恵瓊による助命嘆願にも秀吉は耳をかすこともなく、加藤清正を検使として、成政の切腹を命じたのである。

切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれ、その辞世の歌は、

 

このごろの 厄妄想を 入れ置きし 鉄鉢袋 今やぶるなり 

菅原道真が九州の大宰府に向けて航海する途中尼崎に立ち寄り、立ち並ぶ老松や砂浜の景観に感銘を受けた「琴の浦」に関する逸話にちなみ、学問の神様(天神様)として祀られている。

すなわち、「ここは殊のほかのよき浦なり」「松は琴中の並びたるが如し」と述べたことにちなみ、当神社により「琴の浦」という地名が付けられた伝承が残る。

当神社の社地は南北朝以来数々の戦火に巻き込まれ、また災害を被る毎に社勢が衰え、分断や縮小を余儀なくされていったことから、「ちぢみさん」の別称が付いたと言われている。

 

現在の社地は東に向かって狭くなる細長の三角形をしており、拝殿等の建築物は西側に寄せられている。

社地のほぼ中央に大鳥居が建てられており、1959年(昭和34年)に竣工した、高さ17m・笠木22m・柱直径1.6mある鉄筋コンクリート造・朱塗りの鳥居である。

 

 

なおここには月像石(つきいし)があり、アポロ11号が月面着陸を果たした1969年(昭和44年)7月20日に和歌山県で発見されたという奇石で、翌年に当神社に納められ、以来参拝者が御利益を祈願して、石を撫でて行く風習が広まった。

ここから西に向かって、琴浦通り(尼崎市道第133号線;旧国道・中国街道)にはいるのだが、まもなく琴浦神社に出合うことになる。 その祭神が、源融は光源氏のモデルともいわれ、寛平年間(889年 – 898年)に京都六条の河原院(現在の渉成園)という邸宅を造営し、陸奥国塩釜の風景を模して庭園をつくり、この地より、毎日20石の汐水を汲んで運び、塩を焼かせたという伝承に基づいている。

 

陸奥出羽按察使を任官した融が京都の六条河原院(現在の渉成園)に塩竈[注釈 1]の風景を模した庭園を造らせたという故事は、伊勢物語などの文学にも登場し、世阿弥作の能「融」の元にもなった。

能「融」では、陸奥の塩竈のことを耳にした融が難波津の浦(大阪湾)から毎日海水を汲んで京まで運ばせ、塩を焼かせたとされる。古くから塩竈では塩づくり(藻塩焼き)が行われており、ここでは融がそれを再現しようとした様子が描かれている。

 

『古今和歌集』に収録されている紀貫之の「きみまさで煙たえにし塩がまのうらさびしくもみえわたるかな」は、融の死後、塩を焼く煙が絶えてしまったことを歌ったものである。

 

河原左大臣(小倉百人一首14番) 『古今集』恋四・724

 

陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに                  乱れそめにし われならなくに  (源 融)

蓬川(よもがわ)の河口付近の浜辺は琴浦と呼ばれ、神崎川河口の初島と並ぶ鎌倉時代以来の名所で数々の詩歌にも詠まれたといいます。

琴浦の浜は尼崎から西のかなり広い範囲を指したらしく、近世尼崎城もその名にちなんで琴浦城と呼ばれていました。

中國街道(旧国道)は、西街道とも尼崎道とも呼ばれていたが、1927年(昭和2年)に阪神国道が開通するまでは、尼崎の幹線道路であった。

もともと尼崎と西宮を結ぶ道であるが、西宮で西国街道(山崎道)とつながり、尼崎からは、海路あるいは陸路で大阪とも結ばれているんだよね。

天正10年(1582)羽柴秀吉は、本能寺の変で主君の織田信長が明智光秀によって殺害されたことを知り、備中国(岡山県)高松城の毛利勢と和睦し、急ぎ引き返しました。

一方、光秀勢は尼崎の武庫川ちかくで秀吉を討ち取ろうと、待ち討ちの陣を構えていました(旧松内町の地名由来)。

秀吉勢は西宮、鳴尾と中国街道筋を東へ進み、小松の岡太神社(おかしの宮)付近に到着すると武庫川ちかくの一農夫の注進がありました。

武庫川を見ると、まだ夜明けに間があるのに対岸の竹籔からあわただしく雉が飛び立つのが見え、異常を悟った一行は、西国街道(今の西昆陽方面)に向かって進路を変え、背後から攻め勝ち主君の無念を晴らすことができたということです。

時うつり太閤となった秀吉は、その時の農夫の功績をたたえるために捜しましたが、再会できなかったので、この付近の雉の捕獲を禁じ、土地の人々には田と池を与えたといわれています。

 

中国街道が武庫川にさしかかるところを地元では雉が坂、かつての坂下の池を礼田池(イヤデン)と今も呼んでいます。