綱敷天神社
東端は天満堀川跡の阪神高速12号守口線、南端は堂島川、西端は御堂筋、北端は曽根崎通および寺町通り。
北東角に堀川戎神社があり、南端の堂島川には上流から難波橋・鉾流橋・水晶橋・大江橋が架かっている。
堂島川沿いの南部に大阪高等裁判所などの官公庁やオフィスビルが立地する一方、西は北新地、北は兎我野町など北野の歓楽街に隣接している。
江戸時代には堂島川沿いに対馬府中藩・尼崎藩・佐伯藩・弘前藩・佐賀藩・小城藩の蔵屋敷が建ち並んでいたが、なかでも広大な佐賀藩の蔵屋敷跡地が現在の大阪高等裁判所にあたる。
現在の2丁目7番には堂島を隔てる曽根崎川が流れ、上流から難波小橋・蜆橋が架かっていたが、1909年(明治42年)に埋め立てられた。
嵯峨源氏の祖である嵯峨天皇第十二皇子源融ゆかりの寺が、太融寺であり、古くから当寺付近の地名にもなっている。
伝承によれば、弘仁12年(821年)、空海(弘法大師)がこの地にあった霊木から地蔵菩薩と毘沙門天を作製し、それを祀る草庵を結んだことが当寺の始まりとされる。
翌年には嵯峨天皇の勅願により空海が天皇の念持仏である千手観音を本尊として正式に寺院としたと伝える。 承和10年(843年)に嵯峨天皇の皇子である左大臣源融によって境内地が広げられ、八町四面の七堂伽藍が建立された。
その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めた上、鎮守社として神野太神宮(現:綱敷天神社)も創建されている。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の兵火で全焼するが、元禄年間(1688年 - 1704年)に本堂など25の諸堂が再建される。
1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により再び全焼してしまうが本尊は無事であった。戦後になって本堂、大師堂を始め20余りの堂宇が再興された。
1970年に起きた天六ガス爆発事故や1972年に起きた千日デパート火災では、犠牲者の遺体安置所となった。
元和元年5月、大阪城落城によって秀頼と共に自刃して果てた淀殿の遺骨は、大阪城外の、弁天島に一祠を作って埋められた。
これが淀姫神社であるが、明治10年11月、城東練兵場(現大阪城公園)造成に当り移祀されることとなり、豊臣に縁の深い当寺に埋め九輪の塔(現在戦災に依り六輪)を建て境内西北隅に祀った。
明治10年、太融寺に大阪の鴨野(しぎ)の弁天島(現在のビジネスパーク付近)にあった淀殿の墓が運ばれた。
陸軍の城東練兵場をその地に作るためだが、移転先に四天王寺が候補に挙がったが、家康の本陣だった茶臼山に近いことから淀殿は嫌がるだろうと、北の太融寺になったのである。
大阪駅から東へ行くとき、太融寺の北の大通はいつも通る。しかしこの寺に来たのははじめてである。芭蕉の句碑の句碑を見に来たのだ。 「大悲殿」という額の懸っている本堂の向って右に棕梠の木が立っていて、そのうしろに大きな句碑が立っている。
自然石に 【しら菊の目に立てて見る塵もなし】
「しら菊」の右に「目に立てて」、左に「見る」と書いて、字配りに心を使ってある。 芭蕉は大阪に来ていて、清水寺へ吟行したその翌くる日、園女の家の句会で「しら菊の目に立て見る塵もなし」という句を作った。 (中略)
句碑の建立は天保十四年。 園女の家はいずこにあったか、わからない。芭蕉のこの句碑は大阪の市内、どこにあっても構わないのである。(山口誓子『句碑を訪ねて』)
太融寺のお堂があったことに由来したのが、堂山(どうやま)町だが、この町の東端および北端に中国街道が通っているのだ。
即ち、阪急大阪梅田駅南東に位置し、阪急東通商店街の東半分、阪急東中通り商店街、パークアベニュー堂山が街の中心を成し、飲食店などが連なる、北の繁華街の一角を担っている。
堂山町は、北は万歳町と中崎西二丁目、東は神山町、南は太融寺町、西は小松原町と角田町に囲まれた地域であるが、 綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)は神山町にあり、角田町に境外社の歯神社(はじんじゃ)がある。
社伝によれば、平安時代の弘仁13年(822年)、摂津国菟餓野に嵯峨天皇(786-842)が行幸し現在当社がある神山町の地にあった神山の近くに頓宮を構えたことが縁となり、皇子の源融が天皇崩御の後に追悼のためこの地に七堂伽藍を興して太融寺を創建、次いで承和10年(843年)に嵯峨天皇を祀る社として「神野太神宮」を創建し、これが当社の始まりであるという。
昌泰4年(901年)1月、右大臣菅原道真が無実の罪で大宰府に左遷させられる際にこの地に着いたところ、一本の紅梅が今を盛りと咲き匂っていた。
しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせて即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来であるという。
この時、地元の者より「ゆりわ」なる器に団子を盛りて道真に勧めたところ、道真は大いに喜び、今も大事な神事の折にはこの「ゆりわ」に団子を盛って供えている。
大坂と尼崎・西宮を結ぶ中国街道が地内を縦断している茶屋町は、北隣の同郡下三番村(現:中津1丁目)で亀岡・池田方面から能勢街道が中国街道へ合流するため、往来の多い区間であった。
ところでこの地に、1889年(明治22年)には、現在の梅田東コミュニティ会館付近に高さ39m、9階建ての「凌雲閣」が建設された。
1、2階は五角形、3階より上は八角錘台形で、一番上は丸屋根の付いた展望台となっていた楼閣で、「キタの九階」と呼ばれたことがあった。
1980年代後半から茶屋町の再開発が始まり、梅田ロフトが開業(1990年4月)し、1990年9月には毎日放送 (MBS) が吹田市の千里丘陵(千里丘放送センターおよび堂島毎日会館)から移転した。
1992年にはちゃやまちアプローズが完成、2005年10月20日にはNU茶屋町が、2006年3月31日にはアーバンテラス茶屋町が、2010年4月23日にはチャスカ茶屋町が、2011年4月29日にはNU茶屋町プラスが、それぞれオープンしている。
この付近は明治中期、大阪市民の行楽の地で、鶴、萩、車という茶屋が並んで賑わっていたのだ。
現在も通りの裏に、それらしい名残りをみせており、その茶屋の通りが中国街道(高麗橋から淀川区を通過し下関へ)にあたるってわけ。
ところが今や、若者向けの飲食・アミューズメント・雑貨・ファッションなどの店舗が多く立ち並ぶ。
また阪急電鉄が開発したアプローズタワー(ちゃやまちアプローズ)や、NU茶屋町・NU茶屋町プラスなどの商業施設が所在している。
阪急茶屋町ビルディング内にはミュージカル劇場の梅田芸術劇場があるんだもんね。
茶屋町を含む梅田一帯は周辺に阪急の各種施設が多数集積していることから俗に「阪急村」 と呼ばれることがある。
多くのビルが総合設計制度を採用して公開空地を設けており、それが美しい景観をつくり出している。
信じがたいことだけど、茶屋町・鶴野町周辺は、その昔、一面の菜の花畑の広がる土地だったと言い、何のために植えられたかというと、菜の花の実である菜種から採れる菜種油を採取するためで、近世以降、灯明用の油の需要が高まり、その頃から多く植えられるようになったと云うんよ。
「今でこそ菜の花畑は姿を消しましたが、菜の花で結ばれた人の輪・人の縁は、今もなおこの街で生き続けています」と言い、梅田芸術劇場の前にモニュメントがあった。
与謝蕪村が「菜の花や月は東に日は西に」と詠んだ当時の風景にちなんで、菜の花で街を彩るプロジェクト 『菜の花の散歩道』 が、毎年実施されています。
鶴乃茶屋倶楽部・北梅田まちづくり協議会が中心となって、菜の花は前年から準備され、地域住民のみなさんで肥料まきや、間引きなど、丁寧に育てていきます。
鶴乃茶屋倶楽部とは、茶屋町・鶴野町を良くしたいと願い活動する地元住民・店舗経営者・店長などによる有志グループです。
詳細はこちらの鶴野茶屋倶楽部facebookページをご覧ください。 参加店舗や施設の前に菜の花を飾るほか、ミニコンサートや落語会などのイベントも開催し、期間中はたくさんの人で賑わいます。
説明板に、「蕪村は当地近くの摂津国東成郡毛馬(けま)村(現在の大阪市都島区毛馬町)に生まれ育った。
当時は淀川下流のこの一帯は綿と菜種の産地で、《春日和の日には川堤にのぼってよく遊んだものだ》と彼は後年回想しているが、この一句はその時に焼きついた一面色鮮やかなこのあたりの菜種畑が、明らかに現像となっている。(後略)」(瀬木慎一)とあるけれど、もちろん、このあたりが、茶屋町を指しているわけではないけれど、街づくりに蕪村も応援してるってことかな。
ところでこの中国街道、能勢街道と交わっている地点である、「元萩の橋碑」を探していたら、十三大橋を渡らなければならないのに、旧道では大きく迂回することになるんだよなぁ。