西宮神社

武庫川を渡ると、この旧中国街道南傍に鎮座している岡太(おかた)神社(西宮市小松南町)であるが、「おかしの宮」という異称があり、この由来としてはいくつかの説がある。

社伝に、宇多天皇寛平5年(893年)武庫郡広田の人岡司新五氏がこの地を開発して、この「岡司(おかし)」氏が開いたことによる。

武庫行宮にあたる「押照宮(おかしのみや)」から転じた(ただし、武庫行宮の比定地は別地点が有力である)。

女装して供物を奉納する祭りが行われており、それが「おかし」と評されたことによる。

西宮神社に御鎮座の恵美須大神は武庫の沖から御来臨になり最初、鳴尾でお祀りしていたとの口碑があります。

小松では、その大神が毎年正月九日の夕に押照営(岡太神社)で高潮や洪水等の災害を未然に静止(防止)して五穀豊穣をもたらす猪(静止)打神事をされると伝えられ、この神事の妨げにならぬよう斎籠(いごもり)をする風習がありました。

これは静止を猪にかけたもので、猪は大神の使わしめと云われており、狛猪として社の両脇に控えている。

「小松旧跡」があるのだが、、この小松とは、平清盛の長男の重盛のことで、西南の「伏松」という小高い丘が館趾と言い伝えられている。

重盛は京都六波羅の小松第に居を構えていたので、「小松殿」「小松内大臣」と呼ばれていたが、一方この地は小松庄と呼ばれ平家の所領だった。

小松庄は重盛と関係があるのかもしれないし、小松という地名から派生した伝承かもしれないが、ただこの地区には「一時上臈(いっときじょうろう)」と呼ばれる民俗行事があり、重盛が館を築いた時に手伝った百姓に樋口姓が与えられ、その家筋だけで構成する講組織があるという。

この秋まつりは、毎年10月11日には、南北の講である「頭屋(とうや)」が男女のヒトガタである御幣を作り、神饌とともに奉納される。

かつては頭屋から神社まで奉納行列が行われていたが、新住民の流入でコミュニティが希薄化し、さらには阪神・淡路大震災がとどめを刺した形となり、平成9年を最後に奉納行列は行われなくなった。

江戸時代には、その年に小松へ嫁いだ女性の衣装を男が着て供物を奉納する形で行われていたというが、これに付随して岩見重太郎が狒々を退治したとする伝説が残っている。

とはいえ、この地が琴が浦であり、兵庫県西宮市南東部にある鳴尾(なるお)は、武庫川とかつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川(さるがわ)の三角州上の地域であったが、古くから松の景勝地として知られ、謡曲『高砂』に〈遠く鳴尾の沖過ぎて〉とあるのは目印とされた一本松(現在五代目)に由来する。

古くは「成尾」とも見え、武庫川右岸に位置し、地名は緩やかな傾斜を示す「ナル」(「均(なら)す」と同根)と武庫川の河口端の「尾」の合わさったものとみられる(田岡香逸『西宮地名考』民俗文化研究会)。

鳴尾集落中央を横切る中国路は中世末の海岸線にできた新道で、沿道の岡太神社(おかしの宮)の前を女性が通る際に裾を高く上げなければならないという奇習には、付近が高潮で悩んでいた事を伝えるとの説がある。

句歌

常よりも秋になる尾の松風は分きて身にしむ物にぞありける―西行法師、『新拾遺』

やゝ寒きなるをの里の秋風に波かけ衣うたぬ日もなし―大江貞重、『續千載』

我身こそ鳴尾にたてる一つ松よくもあしくも又たぐひなし―慈鎮、『拾玉』

浦さびて哀れなるをの泊かな松風をえて千鳥鳴くなり―隆西法師、『夫木』

けふこそは都のかたの山のはもみえずなるをの沖に出でぬれ―權大納言実家、『千載』

生駒山よそになるをの沖に出でゝ目にもかゝらぬ嶺のあま雲―源家長、『續古』

逢ふことはよそになるをの沖津波うきてみるめのよるべだになし―真意法師、『新後撰』

鳴尾(なるお)は、兵庫県西宮市南東部、武庫川とかつての分流枝川(現在は浜甲子園甲子園口停車場線)・申川の三角州上の地域。古くから松の景勝地として知られ、謡曲『高砂』に〈遠く鳴尾の沖過ぎて〉とあるのは目印とされた一本松(現在五代目)に由来する。

時代を遡ると、人工島である甲子園浜はなかったし、甲子園と呼ばれる地域も川であり、鳴尾村と合併して字となった小松・小曽根・上田新田もかつては別扱いで、それぞれが別の領主を戴いていた。

鳴尾地域を西宮から切り離していた支川は武庫川が大きく流路を変える荒れ川だった名残で、現況にほぼ固定したのは豊臣時代に完成した連続堤による。

枝川は中世後期に本流から枝分かれした川で、申川は元文5年(1740年)庚申の年に枝川から分流した。

これらは武庫川の堤防改修と阪神国道(現・国道2号)建設費捻出のために埋立てられ甲子園となった。

1924年8月1日、大阪朝日新聞(現・朝日新聞社)主催の全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の開催を主目的として、兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)に開場した、日本初の大規模多目的野球場である。

完成するまでの仮名称は「枝川運動場」であったが、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)だったこともあり、「甲子園大運動場」と命名。

 

起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月1日に竣工式が行われ、今年(2024年)100年を迎えたのである。

旧国道を走ると、今津駅を通るのだが、阪神の本線と阪急の今津線(通称・今津南線)が接続し、このうち今津線は当駅を始発駅としている。

阪急と阪神の駅はペデストリアンデッキで結ばれており、この連絡通路にはエレベーターも2か所設置されており、バリアフリーにも配慮されている。

今津線の西宮北口駅 - 今津駅間延伸に伴い、阪神と阪急の接続駅として双方ほぼ同時に開設された駅である。

本来なら、阪神電車を押すべきなのだが、この今津においては、ちょっとフェイントだけど、阪急電車が推し活になっっちゃう。

というのも、『阪急電車』(有川浩)をもとに、2011年には『阪急電車 片道15分の奇跡』というタイトルで映画化もされたんよ。

沿線および各駅や当線を走行する車内などでロケーション撮影が行われたというので、てっきりこの今津だと思っておたら、阪急今津北線(宝塚ー西宮北口)のことであり、南線に乗り換えてこの今津駅に来るわけではなかった。

謂わずと知れた西宮神社は、全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)であり、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。

 

「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。

①えびす神を最初に祀ったと伝わる鳴尾や古代の先進地域である津門から見て「西の方の宮」という説

②京都から見て貴族の崇敬篤き廣田神社を含む神社群を指して「西宮」と称していたが、戎信仰の隆盛と共に戎社を「西宮」と限定して呼ぶに至ったという説

③「西宮」とは上述の延喜式内社の大国主西神社の事を指すとの説

西宮神社周辺では室町時代から江戸時代にかけて、1月9日夜は家から外出しない「忌籠」(いごもり、居籠)という習慣があった。

その間に"えべっさん"が市中を廻られる。忌籠り明けの翌朝、身を清めて神社に詣でたことが始まりと考えられる。

 

1905年(明治38年)、神社近くに阪神電気鉄道の西宮駅が開業すると、地元以外に大阪市や神戸市などからの参拝者が増え、開門を待ちわびるようになった。

1913年(大正2年)の新聞には「先登第一の魁けをして」「先登者に対して夫々優遇を為し神符を与へたれば」といった記述があり、一番乗りを特別視する風潮が参拝者、神社双方に根付いたと考えられる。

昭和初期に「福男競争」「福男レース」といった言葉が使われるようになったが、このように参拝客が勝手に始めた経緯があるため、この時点では神事としては扱われていなかった。

ところが1989年(平成元年)、昭和天皇が崩御したことから、自粛ムードに配慮して「神事」と位置付けられたという。

当日は未明から多数の人が表大門の前に集合し、午前6時の開門と共に230メートル先の本殿を目指して駆け出す。

そして3着までにゴールした人間(待ち構えている神主に抱きつくことが条件になる)が、その年の福男となる。

なお、福男といいながらこの祭事は男女混合であり、老若男女を問わず走ることが出来る。

しかし、女性の一番福は未だに出現していない。

コースには3箇所のカーブ(天秤・楠両コーナー等)と本殿に駆け上がる木の坂(スリップ坂)が大きな障害としてあり、毎年のテレビ取材ではこの4箇所を中心に大小のカメラを設置している。

 

開門時の押し合い・スタートダッシュの出来、猛スピードで駆け抜けるため、カーブや最後の坂で転倒する者もおり、上手くスピードを制御出来た者が栄誉を獲得出来るといえる。