近松記念館
神崎橋は南北朝の戦乱の中、神崎の地をめぐる争いのため正平17年(1362)焼け落ちました。
そののち600余年を経た大正末期まで架橋されることはなく、神崎の渡しがそのかわりを担っていた。
大正13年西成郡のころ鋼材を使った神崎橋がかけられ、橋面は丸太を並べ砂利が敷かれたもので、市内の橋に比べてかなり貧弱なものであった。
昭和28年に架け替えられた神崎橋は、橋梁技術界では名の知れた日本初の合成桁橋であったが、高潮対策による嵩上げの必要性と道路整備の目的から昭和53年に、現在の神崎橋に架け替えられた。
平安時代後期には、神崎川沿いには貴族や寺社の荘園が開発され、河口部の神崎の港は海上・河川の物資積み替えや、京から西日本各地の荘園や住吉神社詣でに向かう貴族や庶民で賑わった。 また、神崎と江口はともに遊女の集う「天下第一の歓楽の地」としてライバルとなり全国に知られた。
平安時代末期には、さらに下流に広がった新しい海岸に大物と尼崎の港が形成され、鎌倉時代には、荒れ気味だった港を東大寺の再建造営を任されていた重源が再建し、奈良や京都にできる巨大な寺社の材木を集める港として、また瀬戸内海の物資を集める港として栄える。
戦国時代の尼崎の港は、大覚寺や本興寺を中心として、堺や平野などと同様な自治都市になった。
江戸時代には尼崎城が建設され、尼崎は尼崎藩の城下町になったが、神崎川の水運は、大坂や堺などの発達でかつての重要性は失い、神崎川・淀川を通って京と尼崎を結ぶ過書船などでにぎわった。
足利 高氏が、建武中興の恩賞に不平を抱き、反逆して鎌倉に走る。
建武2年12月11日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。
この頃より、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、新田義貞討伐の院宣を得ようと画策する。 これは叛乱の汚名を逃れて、自己の挙兵の正統性を得る行為であったことは、『太平記』・『梅松論』など諸書の一致した見方である。
新田 義貞、 後醍醐天皇より追討の命を受けるが、かえって高氏の反撃に遭い京都へ敗走する。
建武3年1月11日、尊氏は入京を果たしたが、後醍醐天皇はその前日に比叡山へ退いていたのである。
しかしほどなくして、奥州から尊氏を追いかけて上洛する形となった北畠顕家と、行軍の遅れと箱根の戦況を聞いて撤退途中であった東山道の尊氏討伐軍、そして比叡山を守る楠木正成・新田義貞が一体となり、たちまち足利尊氏は建武政権の攻勢に晒される。
園城寺にいた足利軍を駆逐した新田・北畠軍は。1月27日から30日にかけて京都とその周辺で攻勢をかけた。
1月30日の戦いで敗れた尊氏は丹波国篠村八幡宮に撤退、続いて2月2日に摂津国兵庫に移動して西国の援軍を得て京都奪還を図るが、楠正成軍 遅ればせながら参加し、神崎の辺りから神出鬼没、一心のこめた戦法で圧勝し、高氏軍は遂に九州へと逃げ延び、これを世に、『神崎一心の戦』というのだが、神崎川のほとりに地蔵尊が建立されたのは、兵士たちだけでなく、無名の人たちの鎮魂なのかもしれない。
ここ一心地蔵(尼崎市西川)から中国街道をしばしを離れて、神崎川に沿うように葭島公園(神崎の渡し)生き、さらに北東に向かって、遊女塚(尼崎市神崎)によって、北に進路をとり、広済寺・近松記念館(尼崎市久々知)へと向かうことにする。
神崎町の梅ヶ枝公園にある全高212cm・幅120cm・奥行100cmの墓碑で、1692年(元禄5年)に建立された。
正面の名号「南無阿弥陀佛」の両脇には「弥陀仏と遊女墳(ゆうじょのはか)も極楽の」「発心報士(土)の内の春けき」の歌が2行に分かれて刻銘され、両側面に「元禄五壬申年」「正月」の建立時期が刻まれている。 背面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)が刻まれていたとされるがその形跡はない。
如来院の伝承『古縁起』では1207年(建永2年)3月、法然が讃岐への遠流の途中、神崎で行なった教化により5人の遊女が自らを懺悔し念仏を授かり、神崎川へ入水した。
住民はこれを憐んで遺骸を川岸に葬り遊女塚とし、法然は釈迦堂にて回向し讃岐へ旅立つ。
同年12月、法然は勅免による京都への帰途、再び釈迦堂において遊女達の菩提を弔ったとされている。
それを題材にしたのが、上田秋成の『春雨物語 (宮木の塚)』
本州川辺(かわのべ)こほり神ざきの津(遊女の里)は、むかしより古き物がたりのつたへある所也。難波戸に入る船の、又山崎(京都)のつくし津に荷をわかちて運ぶに、風あらければ、ここに船とめて日を過ぐす。その又昔は、猪名のみなとと呼びし所也。此の岸より北は川辺郡と呼ぶ。これは猪名の川辺といふべければ、猪名郡と名付くべかんめるを、「すべて国、郡、里の名、よき字二字をえらめ」と詔有りしによりて、言をつづめ又ことを述べては名付けたるに、大方はよしと思へる中に、かくおろそげなるもありけり。
貴種に生まれ、絶世の美女である宮木は、貧困ゆえに乳母に騙されて神崎の遊女屋に売られた。河守十太と婚約していたが、駅長の横恋慕にあい、十太が毒殺されてしまった。そうして宮木を我が者にしてしまう。やがて、真相を知った宮木は法然上人に念仏を授けられ、入水自殺を遂げた。
その最後には、「むかし、我この川の南の岸のかん島という里に、物学びのために、三とせ庵むすびて住みたりける。この塚あるを問まどひて、ややいたりぬ。しるしの石は、わずかに扇打ち開きたるばかりにて、塚というべき跡は、ありやなし。いとあわれにて、歌なんよみて、たむけたりける。
たち走り 貴(たか)き賎しき おのがどち はかれるものを ちちの身の 父に別れて ははそばの 母に手離(たばな)れ 世の業は 多かるものを 何しかも 心にあらぬ たをや女の 操(みさお)くだて しなが鳥 猪名の湊に 寄る船の 梶枕して 浪のむた かよりかくより 玉藻なす なびきて寝れば うれたくも 悲しくもある かくてのみ 在りはつべくば いける身の いけるともなし 朝よひに うらびなげかひ とし月を 息つぎくらし 玉きはる 命もつらく おもほえて 此の神嵜の 川くまの 夕しほまたで よる浪を 枕となせれ 黒髪は 玉藻となびき むなしくも 過ぎにし妹が おきつきを をさめてここに かたりつぎ 云ひ継ぎけらし この野辺の 浅地にまじり 露ふかき しるしの石は たが手向けぞも
中世当時、遊女や白拍子を母に持つ公卿や武将は多く、高雅であり、歌舞で慰めれば、憚ることもなかった時代だが、そんな宮木が、法然上人に念仏を授けられ、入水自殺を遂げたというのは、近松よりも憐れな物語かもしれない。
船問屋・尼崎屋吉右衛門の二男であった日晶は、出家の後偶然妙見菩薩のお告げを受け、満仲ゆかりの同地を精舎建立の地に決めたと謂われ、この時建立に尽力したのが近松門左衛門であった。
日蓮宗の信者であった近松は、日昌の生家「尼崎屋」の支援者だったこともあり、建立本願人として貢献し、近松作品の出版元であった大阪の正本屋九右衛門や歌舞伎役者・三代目嵐三右衛門ほか、役者や商人がこぞって寄進し、妙見宮本殿や本堂などが建立された。
近松は自ら寄進したこの寺をこよなく愛し、寺では本堂裏に彼の仕事部屋を造り、のちに近松屋敷と呼ばれたこの部屋に晩年の約10年、10里の道程を厭わず訪れ、『大経師昔暦』『女殺油地獄』などの名作を次々に生み出した。
近松亡き後も、この部屋では彼をしのび、大阪の役者たちの手で浄瑠璃が上演された。また、参詣に訪れる役者が絶え間なかったという。
辞世の歌は、
それ辞世 さる程さても その後に 残る桜の 花し匂はば
残れとは 思ふも愚か 埋(うず)み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして
元禄6年(1693年)以降、近松は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いた。
10年ほどして浄瑠璃に戻ったが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになる。
元禄16年(1703年)、『曽根崎心中』を上演し、宝永2年(1705年)に義太夫こと竹本筑後掾は座本の地位を初代竹田出雲に譲り、出雲は顔見世興行に『用明天王職人鑑』を出す。
このとき近松は竹本座の座付作者となり、住居も大坂に移して浄瑠璃の執筆に専念し、正徳4年(1714年)に筑後掾は没するが、その後も近松は竹本座で浄瑠璃を書き続け、正徳5年の『国性爺合戦』は初日から17ヶ月の続演となる大当りをとる。
尼崎市久々知の廣濟寺に、世界に誇る劇作家「近松門左衛門」(1653年~1724年)が眠る国指定史跡の墓所があります。
近松翁は晩年、廣濟寺をたびたび訪れ、明治の末まで近松部屋と呼ばれる仕事部屋があり、ここで執筆活動をしていたと伝えられています。
これらのことから、地域の方を中心に近松記念館が作られ、廣濟寺に残る近松翁の遺品約100点を展示しています。
また、尼崎市では市制70周年を契機に「近松」を文化振興のシンボルと位置づけ、様々な取り組みを行っています。
廣濟寺、近松の墓、近松記念館、近松公園を中心とした「近松の里」を、市民の手で近松に親しむ取り組みを行う「近松かたりべ会」が、会の活動の一環としてボランティアでガイドを行っています。
現在、近松(1653-1724)の作とされている浄瑠璃は時代物が約90作、世話物が24作あり、歌舞伎の作では約40作が認められている。
世話物とは町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
同時期に紀海音も近松と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎず、ちなみに享保8年(1723年)には、江戸幕府は心中物の上演を一切禁止している。
『曽根崎心中』 - 元禄16年(1703年)
『堀川波鼓』 - 宝永4年(1707年)
『冥途の飛脚』 - 正徳元年(1711年)
『心中天網島』 - 享保5年(1720年)
『女殺油地獄』 - 享保6年(1721年)
『心中宵庚申』 - 享保7年(1722年)
不思議なのは、【梅川の像】が、JR尼崎駅の北出口高架上にあるんだけれど、もちろん近松門左衛門の代表作の一つ「冥途の飛脚」のヒロイン梅川なのだが、恋しい忠兵衛を待っている姿を表しているという。
JR尼崎駅北再開発の完成記念として、尼崎市内10のライオンズクラブが尼崎市に寄贈してくれたらしい。
忠兵衛と梅川は、いったんはその場を逃れるが、ついに役人に捕まってしまう。
村の者たちもこの騒ぎに出てきて見る中、忠兵衛と梅川は縛りあげられ、この様子を見た孫右衛門はあまりのことに気を失った。
忠兵衛も「身に罪あれば、覚悟の上殺さるるは是非もなし。御回向頼み奉る親の歎きが目にかかり、未来の障りこれ一つ、面を包んで下されお情なり」と泣きわめきながら訴え、梅川ともども大坂へと引かれてゆくのであった。(近松門左衛門『冥途の飛脚』)
藤堂藩城代家老の日記『永保記事略』には次のように記されている。
藤堂藩の領分である大和国新口村(現在の奈良県橿原市新口町)に小百姓の四兵衛という者がおり、そのせがれの清八は六年以前に大坂へ養子に出され、「亀屋忠兵衛」と名乗って養家を継いでいた。
ところが忠兵衛は金銀を盗んでその金で遊女を身請けし、ともに大和郡山の上里村に親類を頼って逃げ隠れていたが、両名は見つかり捕縛、大坂に送られて入牢となった。
実の親の四兵衛には大坂町奉行所より処罰せぬとの知らせがあったが、忠兵衛が盗んだ金については四兵衛が弁償することになったという。