平野環濠都市
平野郷は、大阪市内ではもっとも古くに(平安初期)つくられた町で、戦国時代に環濠とその内側に土塁を巡らした環濠集落の形になった。
①馬場口地蔵ーこの地蔵堂は馬場口(ばばぐち)門の傍らにあったもので、大門の木戸口は泥堂 口(でいどうぐち)とともに奈良街道の大阪、天王寺方面に接続し ていて、大阪 方面から大念仏寺への参詣口でもあった。
(追伸)
馬場口地蔵から南東方向へ行くと、新羅の女神を祀る赤留比売命神社というお社 があります。
②泥堂口地蔵ーこの地蔵堂は泥堂口門の傍らにあったもので、奈良街道の大坂、天王寺方面に通 じる大門をもつ木戸口として、十三口の中でも重要な出入り口であった。
③鐘辻口ー杭全神社の社内入口なので、地蔵が置かれていたかどうかわからない。
平安の初期、征夷大将軍坂上田村麿の子、広野麿が杭全荘を領地として賜ってこの地 に居を構えました。
その子当道が貞観四年(862)に素盞嗚尊を祀る祇園社を創建したのが、現在の第 一本殿です。
(追伸)
我はこの郷地主の神也(中略)祇園牛頭天王 といふは我こと也。今より後この郷に
あがめ祭りなば国家安穏人民豊楽を守らん」と宣ひ、まのあたり影向し給ひしか、 有難覚侍りて、勧請し奉りしと也。 『平野郷社縁起』
❶第一本殿❷第二本殿❸第三本殿❹若一王子社❺八王子社❻天満宮❼皇大(こうたい)神宮❽稲荷社❾鎮守社❿十柱(とはしら)社⓫田村社⓬恵比須社⓭拝殿⓮絵馬堂⓯宝蔵⓰大門⓱社務所⓲連歌所⓳瑞鳳殿
④河骨池口地蔵ーこの地蔵堂は玉造、天満や守口方面に通じる河骨池口門の傍らにあ ったもの
で、道路の西側は江戸時代から明治時代にかけて、平野川 を運航していた柏原
船(かしわらぶ ね)の船入(ふないり)(発着場)であった河骨池跡であ る。
(追伸)
この周辺を俗に市の浜といい、問屋、宿場などが立ち並 び、船会所もあって大
層賑わった所であった。
⑤市ノ口地蔵ーこの地蔵堂は市ノ口門の傍らにあったもので、大門の市ノ口は久宝寺、八尾から
信貴山へ通じる出入り口であった。 地蔵堂の位置は国道二十五線の拡張に伴い少
し移動されている。
(追伸)
十三口中、最も大きな地蔵で、堂前の石灯籠に享保21年(1736)の銘があ
る。
⑥樋之尻口地蔵ー中世、堺とともに自治都市として栄えた平野郷は、戦国時代には自治と自衛の
ため、濠と土塁をめぐらした、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもってい
た。 杭全神社の東北部と、赤留比売命神社(あかるひめのみこと)の背後にそ
の面影を残している。
樋ノ尻口門は奈良街道や久宝寺、八尾につらなるもので、木戸としては大きい
方であった。
この地蔵堂も樋ノ尻口門の傍らにあったもので、郷から外に出るときは一身の
加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれで
あろう。
大坂夏の陣 慶長二十年(1615) 五月六日の道明寺合戦に敗れた豊臣方は、真田幸村隊を殿軍(しんがり)として、大坂城に退却することとなりました。
豊臣方を追撃する徳川家康が、恐らく通り、平野にて補給と休息をとると考えた幸村は、樋尻門の傍らにあった地蔵堂の下に地雷火を仕掛け、家康の到着を待ちました。
案の定、家康がやってきて、まさに爆発するであろう時に、小便がしたくなり、その場を離れたその時に、爆発し、九死に一生を得たのでした。
爆発音を確認した、幸村隊は一斉に攻め入りましたが、家康は樋尻橋の下に隠れた後、馬は竹淵(たこち)堤を走り、辰巳池の葦の中に逃げ込みました。
幸村隊は辰巳池も調べましたが、もし家康が潜んでいるのなら、葦の葉が池の内側に向いているはずなのに、みな外側を向いているため、兵たちは怪しまずに引き上げ、命拾いしたという伝説です。
地蔵堂のお地蔵様は、家康の身代わりとなり、首が全興寺(せんこうじ)まで飛んでいったと伝えられ、現在でも、「首地蔵」として大切に祀られています。
⑦出屋敷口地蔵ーこの地蔵堂は出屋敷口の傍らにあったもので、その名は野堂町(のどう)の出
屋敷地区であったのに由来する。
(追伸)
田畑口とともに、藤井寺や道明寺に通じ、また町民の辰巳墓地(たつみ)墓地
への参道でもあった。
⑧田畑口地蔵ーこの地蔵堂は田畑口門の傍らにあって、藤井寺、道明寺から南河内、大和へ通じ
る木戸口であった。
(追伸)
役行者(えんのぎょうじゃ)像が祀られているのは、この出入り口が大峯山へ
の参詣道であることを示している。
⑨流口地蔵ーこの地蔵堂は流口門の傍らにあったもので、大門であった木戸口から南下する道は
中高野道と称し、喜連(きれ)、瓜破(うりわり)を経て、かって平 野川の水源で
あった狭山池で堺から来る西高野道と合流する信仰の道であった。
⑩堺口地蔵ーこの地蔵堂は堺口門の傍らにあったもので、西脇口とともに、中野から鷹合を経て
住吉や堺に通じる出入り口であった。
地蔵堂の西側の道路は環濠跡である。
(追伸)
向かいの観音寺は昔から銀杏観音と呼ばれ、その大木は有名である。
⑪西脇口地蔵ーこの地蔵堂は南口地蔵(みなみぐちじぞう)とも呼ばれ、西脇口(南口)門の傍
らに会ったもので、この木戸口より南下すると、堺口の住吉、堺に行く道と合流
する。
(追伸)
地蔵堂前の東西の道は環濠跡である。
⑫田辺道西脇口地蔵ーこの地蔵堂は田辺道西脇口門の傍らにあったもので、田辺方面へ通じる木
戸口であった。
(追伸)
環濠があった頃、地蔵堂は濠を背に東向きに建っていたが、昭和初期、濠
を埋め道路を西へ伸長する際、南の道へ移され北向きとなった。
その‟いちょう観音”の由緒には、銀杏山大慈院と称し、816年に広野麻呂の妹慈心大姉が開山とあるらしい。
ところが、この観音寺の北側の長寶寺もまた創建しているのだ。
その寺伝によれば、開山は坂上田村麻呂の娘で、平野庄領主の坂上広野(坂上廣野麻呂)の妹の坂上春子(慈心大姉)とされる。
春子は桓武天皇妃であったが、延暦25年(806年)に桓武天皇が崩御すると、空海(弘法大師)に帰依して剃髪し、慈心尼と称した。
南北朝時代には、後醍醐天皇が大和国・吉野(奈良県)に向かう途中に、当寺を仮の皇居とし、その際に「王舎山」の山号が下賜された。
元亨年間(1321年-1324年)には、笠置城(京都府)が落城のとき、61人が戦死したが、その妻女たちは当寺で出家したと伝えられている。
⑬小馬場口地蔵ーこの地蔵堂は小馬場口門の傍らにあったもので、小馬場口は田辺や、か つて平野郷の散郷であった今在家(今川)、新在家(杭全)などとの出 入口であり、大念佛寺への参詣道でもあった。
大念仏寺は、大治2年(1127年)に鳥羽上皇(1103-1156)の勅願により、融通念仏宗の開祖良忍(1073-1152)が開創した。
ところが、 第6世・良鎮(りょうちん)が寿永元年(1182年)に亡くなると、大念仏寺の流派では良い後継者に恵まれず寺勢は振るわなくなった。
元亨元年(1321年)、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、大和国當麻寺で行われていた練(ねり)供養をもとにした万部おねりを行ない始めた。
聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具体的に表現した儀式であり、貞和五年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい」
はる風や 順禮ともか ねり供養 一茶
毎年5月1日~5日の期間に、融通念佛宗総本山大念佛寺にて、「万部おねり」が開催されてる。
万部おねりの二十五菩薩は、阿弥陀仏の本願である衆生を一切の苦悩から解き放ち、真実にめざめさせるという活動を手助けする 。
観世音(かんぜおん)菩薩 | 大慈悲心をもって衆生をあらゆる災難苦難から救う。 |
勢至(せいし)菩薩 | 知恵をつかさどり衆生に菩提心を起こさせる。 |
薬王(やくおう)菩薩 | 衆生を病苦から救い安楽の地に住まわせしめる。 |
薬上(やくじょう)菩薩 | 衆生に良薬を与え心身の病苦を除く。 |
普賢(ふげん)菩薩 | 理知と慈悲心の徳により衆生を救ってくれる。 |
金蔵(こんぞう)菩薩 | 事の成就の為に堅固不変の精進が必要で金剛の様に強健不退の徳を施す。 |
獅子吼(ししく)菩薩 | 法を説き衆生はこの声に従うよう自ら仏道を説く。 |
華厳王(けごんおう)菩薩 | 色とりどりの華によって荘厳せられる蓮華蔵世界の王。 |
虚空蔵(こくぞう)菩薩 | 無限の慈悲により福と智の二蔵を以って衆生の求めに応じ利益を与える。 |
徳蔵(とくぞう)菩薩 | 善根功徳の大徳所蔵するといわれ衆生の願いに応じて施す。 |
寶蔵(ほうぞう)菩薩 | 南無阿弥陀仏の名号その功徳法を施す。 |
法自在(ほうじざい)菩薩 | 仏の法を自在に求め衆生のために施す。 |
金剛蔵(こんごうぞう)菩薩 | 堅固な菩堤心を蔵しあらゆる煩悩を断ち一切の困難に耐えさせる。 |
山海慧(さんかいえ)菩薩 | 山海の仏日の様に輝き智慧も山海の様に無限広大な神秘を具える。 |
光明王(こうみょうおう)菩薩 | 知恵を象徴し輝きを持ち心と身から出る具体的象徴の光を備える。 |
陀羅尼(だらに)菩薩 | 神秘的な力があり衆生に仏の教えを説きつづける。 |
衆宝王(しゅほうおう)菩薩 | 煩悩を断ち衆生の軟弱な菩提心を堅強にする。 |
日照王(にっしょうおう)菩薩 | 暗夜を照らす日天のように煩悩の闇を照らしそのわざわいを救う。 |
月光王(がっこうおう)菩薩 | 月光を純真無垢に宝珠として観じ熱毒に病む衆生に清涼を得させる。 |
定自在王(じょうじざいおう)菩薩 | 自由自在に仏と共に絶対の安らぎを与えてくれる。 |
三昧王(さんまいおう)菩薩 | 衆生の乱れる心を統一し心安らかに安定の境に導いてくれる。 |
大自在王(だいじざいおう)菩薩 | 神変無碍自在の徳をもって一切衆生を救いとる。 |
白象王(びゃくぞうおう)菩薩 | 菩薩の王でありその力量は智慧の働きにおいて功徳も秀でている。 |
大威徳王(だいいとくおう)菩薩 | 悪を制する大威の勢いと善を守る大徳の功を衆生に施す。 |
無辺身(むへんしん)菩薩 | 永久無辺いつでもどこでも果てしなくいます。 |
こうして、道の旅人は杭全神社の境内に戻り、長寶寺の墓がある春子姫の墓参に向かった。
というのも彼女は、坂上氏の尼寺の長寶寺(長宝寺)を開き、同寺は坂上氏累代の尼寺となっている。
なお長寶寺について付け加えると、後醍醐天皇(南北朝時代)が大和国・吉野(奈良県)に向かう途中に、当寺を仮の皇居としたとあり、その際に「王舎山」の山号が下賜された。
元亨年間(1321年-1324年)に笠置城(京都府)が落城のときには、61人が戦死したが、その妻女たちが当寺で出家したと伝えられている。
さらに、寺に所蔵される『よみがえり草紙』によれば、本堂に安置される閻魔王は、永享11年(1439年)6月6日、慶心坊尼を頓死させた。
頓死させた理由は、存命中に仏道の修行を怠(なま)けると地獄に堕ちるということを知らせるために、地獄の恐ろしさを見聞させ、逆修を勧めさせるためであったと言う。
閻魔王は「閻魔大王の証判を持つ物は地獄に落ちない」といい、閻魔王の証判をもっていた慶心坊尼は地獄に堕ちた3日後に蘇生したのである。
ところで春子の墓は、杭全神社に隣接した共同墓所の、長寶寺の墓地に坂上氏一族の墓と共にあり、道の旅人は、そこから坂上公園に立ち寄り、広野の墳墓にも敬意を表した。