高野大橋
道の旅人は、長居公園通りを横切る前に、西池善法寺に立ち寄ったのは、「息長沙禰王」の慰霊碑があるからだ。
碑の背面には系図らしきものまで彫込まれている。
その伝承によると、喜連村一帯は、往時、大々杼(オオド)国大々杼郷と称した。 その由来は、この土地に鎮座する式内社楯原神社の祭神である建御雷男命の御孫建大々杼命に因むもので、その子建彦命が父の御名を国・郷につけたという。 その後、神武天皇の時に功あって、大々杼彦仁に大々杼の姓を賜い、大々杼の国造に任じ、かつ剱臣(つるぎおみ)の号を賜ったという。
応神天皇8年、息長杭俣(くまた)王には世継ぎとなる男子がいなかったため、若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王(応神第5皇子)が弟女(おとひめ)真若伊呂弁王に婿入して息長氏を継いだ。
二人の間には、大郎子(おおいらつこ)、別名「大々杼王」、忍阪大中女(おしさかのおおなかつひめ)命、田井中女命、田宮中女命、琴節郎女(ことふしのいらつめ)、別名「衣通女(そとおりひめ)命」、取売王(とりめのみこ)、沙禰王(さねのみこ)の三男四女が生まれた。
大々杼王は仁徳天皇の勅命により「淡海の息長君」となり、弟の沙禰王は息長家(大々杼国)を相続し、忍阪大中女命は雄浅津間若子宿禰(おあさづまわぐこのすくね)尊(第15代允恭天皇)の皇妃となった。
允恭天皇の時代、息長沙禰王の娘・真若郎女は淡海の息長大々杼王の子・彦主人王に嫁いだが、妊娠4ヶ月で百々石城に帰り、同天皇39年、沙禰王が新たに造営した産殿において大々杼命が生まれた。
以下がその内容である。
応神天皇8年、(妃)息長真若中女命 及 皇子若沼毛二俣王御幸あり、(中略)杭俣長日子王は息長真若中女命に宣給はく、吾に世継の彦なし、恐れ多きも此の若沼毛二俣王を下し賜ふまじくや、(中略)若沼毛二俣王は百々石城に下り、弟女(オトヒメ)真若伊呂弁王を配せられ息長氏を嗣ぎ給ひ、御子大郎子一名大々杼王・忍坂大中女命・田井中女命・田宮中命・琴節郎女一名衣通女命・取売王及び沙禰王の七子即ち三男四女を挙げられる、(中略)然るに若沼毛二俣王の長子大々杼王は、仁徳天皇の勅命を奉じて淡海の息長君となり、弟沙禰王は息長家を相続し、忍坂大中女命は男浅津間若子宿禰尊(允恭帝)の皇妃に立ち給へり。
(中略)允恭天皇の御宇、息長沙禰王の女真若郎女を淡海の息長大々杼王の子彦主人王に嫁せられしが、御妊娠あり四ヶ月を経て此の百々石城に還り、王子御産あり、御名を大々杼命と称す、
(中略)8年を経て雄略天皇元年、息長沙禰王は御女の真若郎女・御孫の大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り参らせられる。
然るに実母真若郎女は早世せられしかば、異母福井振女に随ひ、成長せられて越前三国の君と号す。王子は後に天下を治め給へり。(継体帝のこと) 以下略
雄略天皇元年、息長沙禰王は真若郎女(まわかのいらつめ)と大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り届けた。
しかし、真若郎女が早世したため、大々杼命は継母の「福井の振女」の許で成長し「越前三国の君」と号した。
つまり継体天皇は、近江の息長大々杼王の子彦主人王(ひこうしのおおきみ)が大々杼の息長沙彌王の娘真若郎女を娶って儲けた子であり、大々杼郷の百々石城宮で生まれたため「大々杼命」と称し、雄略天皇元年に母の真若郎女とともに息長彦主人王のもとに送られたが、ここで実母が亡くなったため義母の「福井の振女」に従って越前に赴いたというのだ。
道の旅人は、中高野街道に戻り、長居公園通りを渡って、瓜破(うりわり)に入り、瓜破天神社に向かった。
と言うのもその祭神が、素盞嗚尊・菅原道真はいつも通りなのだが、なんと平維盛も祀られていたのである。
瓜破の歴史を記録し、唯一現存する船戸録(天文元年、1736記)によれば、 孝徳天皇の大化年中(645~649)、当地に居住された高僧、船氏道昭が、 5月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。
道昭は、朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉った。
社の北部に牛頭天王を祀る社(祭神 素盞嗚尊、起源鎮座年月不詳)があって、北の宮(成本天神社)と言われていたが、慶長年代(1596~1614)に至り公命によって北の宮を西の宮(瓜破天神社)へ 合祀した。
寛永年間(1624~1643)に耕作の都合で集団移住し西川村(旧西瓜破) を形成し、そこに氏神として祀った天満宮(祭神 菅原道真、創立鎮座年月不詳)、さらに東北部に東の宮と称した小松大明神社(祭神 平維盛)があった。
この社は、寿永年間(1182~3) 平重盛に大恩を受けた源氏の武将湯浅七郎兵衛宗光が京都守護職として赴く際、当地にて重盛の嫡子、 維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び、追悼慰霊を営み、神領五十歩を寄進して宮居を建てたのが起原とされている。
その後天和年間(1681~1683)当地本郷地、 村民の熱意によって現今の地に勧請され氏神(小松神社)となる。
以上の各社、社領地は、特に永正より大永年間(1504~1527)に亘る足利と細川の 攝津河内の戦乱に被害をうけたが、村民は維持、興隆に努めてきた。
明治43年には公命により各社は、当天神社に合祀され、昭和時代を迎えて村民の希望によって、再び 各社に分霊鎮座された。
現在社殿は、東面し流造檜皮葺、江戸末期の修葺で、境内末社として稲荷社(祭神 倉稲魂命、創立鎮座年月不詳) がある。
瓜破遺跡は、南から北に向かって延びる、河内台地の中央部以西から、西方の沖積地に拡がっていた。
23,000~20,000年前の最終氷期に当る、後期旧石器時代の人々が使った、サヌカイト製の国府(こう)型ナイフ形石器をはじめ、石器を作る際に生まれた、サヌカイトの石核や、剥片が集中して出土する場所が、北に開く幾筋もの開析谷(かいせきこく)の尖端に近い、瓜破東2丁目・瓜破2丁目・瓜破西1丁目地区にあります。
瓜破西1丁目では、気温が温暖になった、狩猟と採集が生業(なりわい)の時代である、縄文時代は、弓矢と土器が登場する縄文時代草創期の槍先である有茎尖頭器が出土している。
今から5,500年前の縄文時代中期は、海面が現在より高く、生駒山の西側から上町台地にかけて河内湾が拡がり、瓜破遺跡の目前に海岸線がありました。
瓜破東2丁目・瓜破南1丁目では、近畿や瀬戸内地域とのつながりのある縄文時代中期~後期の土器やサヌカイト製の石鏃(せきぞく)・スクレイパーなどの打製石器が出土しています。
また、島根県の隠岐から運ばれた黒曜石も見つかっており、縄文人の交易圏の広さには驚かされます。
日本列島で米作りがはじまり、弥生土器や石庖丁・蛤刃形石斧(せきふ)・柱状片刃石斧などの、大陸系磨製石器や、各種の鉄器が使われた弥生時代になると、瓜破3丁目から大和川の河川敷まで及び、瓜破西1丁目では大小の集落が形成されます。
特に旧JR阪和貨物線の敷地内の調査では、幅約1.5m・深さ約1mの大きな溝が見つかっており、この溝は弥生時代前期の終わり頃(紀元前300年前後)の集落の周りを巡る、環濠ではないかと思われます。
瓜破遺跡の集落は、弥生時代中期の中葉には大和川の南側に移動しますが、弥生時代中期の終わり(紀元1年頃)には再び元の場所に戻ったようです。
瓜破遺跡の弥生時代前期末~中期初頭の集落では、河内・北摂・和泉・紀州・讃岐など、近隣はもとより、遠隔地の集団との交易や交流を行い、繁栄していたことを物語る石器素材や土器が見つかっています。
日本列島の各地に前方後円墳が築かれた古墳時代の瓜破遺跡では、河内台地のほぼ中央部の瓜破東2丁目の周辺で、5~6世紀の集落や古墳が見つかっています。
瓜破霊園内には、市内で墳丘を留める数少ない古墳時代中期(5世紀代)の、花塚山古墳およびゴマ堂山古墳があります。
花塚山古墳の北にある市営住宅の調査では、保存状態の良い鉄鏃(てつやじり)や刀子(とうす)が、霊園の西側では、遠く愛媛県の市場南組窯で焼かれた、須恵器を含む各種の土器類や、渡来人の居住を示す韓式系土器が出土しています。
飛鳥時代以降の遺跡は、瓜破東2丁目の瓜破霊園の南方に、飛鳥時代の役所の可能性の高い掘立柱建物群が、奈良時代になると霊園の中央部で古瓦や、白鳳時代の塼仏(せんぶつ)が出土したという瓜破廃寺が、霊園の北には飛雲文軒瓦を伴う、成本(なしもと)廃寺が存在したものとみられています。
平安~室町時代の集落遺構は、台地の西部を南北に走る、中高野街道沿いで、井戸や掘立柱建物が見つかっています。
瓜破4丁目から出土した宝徳3年(1451年)銘の卒塔婆は、表に胎蔵大日真言・光明真言を、裏に金剛界五仏が梵字で書かれており、往時の瓜破地域の人々の信仰を知るうえで、重要な資料になっています。 (協力 大阪文化財研究所 田中清美)
『玉葉』の2月19日条によると、「伝聞、平氏帰住讃岐八島(中略)又維盛卿三十艘許相卒指南海去了云々」とあり30艘ばかりを率いて南海に向かったという。
この時異母弟の忠房も同行していたという説もある。のちに高野山に入って出家し、熊野三山を参詣して3月末、船で那智の沖の山成島に渡り、松の木に清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして補陀落渡海(入水自殺)したとされる(『平家物語』)。
維盛入水の噂は都にも届き、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼む歌を詠んでいる。
1704年(宝永元年)に行われた大和川の付け替えに際して、新河道となる分断箇所への架橋は紀州街道の大和橋(公儀橋)のみであった。
川幅が100間ほどある大和川新河道への架橋および橋の保全は容易なことではなく、大和橋は5 - 10年に一度のペースで大改修が必要となる有様であった。
大阪から高野山方面に通じる中高野街道が大和川を越える地点に橋が架けられたのは、明治の初めのことである。
地元の人々がお金を出し合って架けた私設の橋であったが、お金を集めるためにかなり広い範囲に寄付を募る文書が配られたと想像される。
この橋には、定まった名前がなかったようだが、大正の頃には高野大橋と呼ばれるようになっていた。
その高野大橋が近代橋になったのは、昭和29年のことであり、府道守口平野線の整備にともなって、従来よりおよそ200m下流に移して架けられた。
橋は大阪府に管理されてきたが、その後大阪市に移管され、道路も府道住吉八尾線となり、南大阪の重要路線の一つになっている。
道の旅人は、何かしらのもどかしさを感じていたら、『中九兵衛のブログ』に出会って、下記に
瓜破の地図を無断拝借してしまった。
これで胸のつかえがおりたのも、瓜破村の全容が見れるからだが、平野の喜連・瓜破、さらに長吉長原は複合遺跡であるが、古代文化は、東方から押し寄せてきたのだ。
紀元1年頃に起こった倭国大乱が静まり、3世紀の初めの邪馬台国の時代になると、瓜破西1丁目に拡がる瓜破北遺跡に大きな集落が営まれています。
大阪府営住宅の建て替えに伴う調査で見つかった、井戸の幾つかから、口を打ち欠き、底を穿孔(せんこう)した多くの土器が出土しました。
これらの土器は、集落で行われた葬儀に伴う、歌舞飲食で使われたあと、まとめて捨てられたものと思われ、魏志倭人伝に書かれた歌舞飲食を今に伝える貴重な資料といえます。
また、府営住宅の東側を通る阪神高速道路の近くでは、「永而思」と読める前漢鏡片や、破砕した後漢の鏡片に孔を穿(うが)ちペンダントにしたもの、鈕(とって)の周りを打ち欠く鏡片などが出土しています。
これは、瓜破北遺跡の集団は中国鏡を入手できた、河内湖周辺に展開する、政治勢力の首長とも関係が深かったことを示しています。
瓜破北遺跡に近接する喜連西遺跡では、邪馬台国時代の大型の墳丘墓を含む墓域が見つかっており、河内湖南岸の屈指の集落であった、瓜破北遺跡の墓域の可能性があります。
道の旅人としては、これ以上の深入りはできないので、大和川を渡り、中高野街道を急いだ。