高麗橋・里程元標跡
当時(江戸時代)高麗橋付近は、大商人たちが商いを行い、経済の中心になっており、道路の起点は高麗橋からとし、道のり計算のスタート地点は橋の東詰めである。
京街道・中国街道・紀州街道など、諸国をはかるときや、車馬賃を算定するときの起点となり、江戸日本橋まで百四十三里二十丁、京都三条大橋まで十三里十二丁、神戸元町迄九里三十五丁と刻まれている。
高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。
高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。
この高麗橋の西側に適塾(北浜)があり、開塾二十五年の間には、およそ三千人の入門生があったと伝えられている。
適塾では、教える者と学ぶ者が互いに切磋琢磨し合うという制度で学問の研究がなされており、明治以降の学校制度とは異なるものであった。
塾生にとっての勉強は、蔵書の解読であったが、「ヅーフ」(ヅーフ編オランダ日本語辞典)と呼ばれていた、塾に1冊しかない写本の蘭和辞典が置かれている「ヅーフ部屋」には、時を空けずに塾生が押しかけ、夜中に灯が消えたことがなかったという。
適塾では、月に6回ほど「会読」と呼ばれる翻訳の時間があり、程度に応じて「○」・「●」・「△」の採点制度を導入し、3カ月以上最上席を占めた者が上級に進む。
こういった成績制度は、適塾出身者が創設した慶應義塾のあり方に、さまざまな影響を与えたといわれている。
「緒方の書生は学問上のことについては、ちょいとも怠ったことはない」(『福翁自伝』)というほど、ひたすら勉学に打ち込んだといわれる。
現存する適塾は、1845(弘化2)年に緒方洪庵(1810-1863)が当時の過書町に町屋を購入し、瓦町の旧適塾から移転して拡張した建物です。
「適塾」の名称は、洪庵の号「適々斎」にもとづいて名付けられ、「適々斎塾」、略して「適々塾」「適塾」とよばれました。
近世後期の大坂では、麻田剛立(1734-1799:天文学者)、高橋至時(よしとき
1764-1804:天文学者)、間重富(はざましげとみ1756-1816:天文学者)、山片蟠桃(1748-1821:商人・学者)、中井履軒(1732-1817:儒学者)、小石元俊(1743-1809:蘭学者・蘭方医)、橋本宗吉(1764-1836:蘭方医・蘭学者)、そして洪庵の師中天游(1783-1835:蘭方医・蘭学者)らによって自然科学的な学問が発展し、天文学や医学等の広がりがみられましたが、その理由は、経済発展にともない実質を尊重し合理性を理解し受容する町人社会が成熟していたことにあるともいわれます。
適塾のすぐ西側には銅座があり、シーボルトやオランダ商館員も宿泊し、蘭書の取引なども行われ、東には長崎俵物会所もあり、江戸時代において海外の先進文化の入口であった長崎との文化的な距離も密接でした。
このような環境下で、洪庵は当代一流の学者・医師としての業績をあげただけでなく、すぐれた教育者としても福澤諭吉(1835-1901:啓蒙思想家・教育者)・橋本左内(1834-1859:志士・思想家)・大村益次郎(1825-1869:政治家・軍人・医師・学者)・佐野常民(1823-1902:政治家・日赤創始者)・大鳥圭介(1833-1913:幕臣・医師・蘭学者・軍事学者・工学者・思想家・発明家・教育者・政治家)・高松凌雲(1837-1916:幕臣・医師)・花房義質(1842-1917:外交官・日赤社長)・長与専斎(1838-1902:医師・医学者・官僚)・池田謙斎(1841-1918:医者・医学博士)・箕作秋坪(1826-1886:蘭学者・教育者・啓蒙思想家)ら多くの英才を育てたのです。
もちろん、維新の立役者となったような人物だけでなく、多くの塾生が適塾で学んだ後に郷里に帰って開業医となり、地域医療や種痘事業に貢献したという点においても、適塾の日本近代化における歴史的意義は大きいものです。
11月22日・11月23日には神農祭が行われるが、大阪の祭りは、今宮戎神社の「十日戎」で始まり、少彦名神社の「神農祭」で終わるため、神農祭は「止めまつり」あるいは「とめの祭り」と称されている。
道修町周辺の薬局・製薬会社などには、祭礼の提灯(ちょうちん)が掲げられている。
辺りには、切り出した1本の大きな竹に張子の虎と製薬会社の製品(薬剤が入っている外箱)、吹き流しなどが吊るされたものを多く見かけられる。
神農祭で授与される、五葉笹に吊るされた「張子の虎」(神虎)が有名であるが、安政5年(1822年)、大坂でコレラが流行したおり、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を調合し、少彦名神社の神前で祈祷して、罹患者(りかんしゃ)などに施した。
そのときに合わせて、「張子の虎」を配布し、その丸薬の効能が高かったため、「張子の虎」の御守がよく知られるようになった。
この神社の入り口に、谷崎潤一郎『春琴抄』の碑がある。
春琴、ほんとうの名は鵙屋琴(もずやこと)、大阪道修町(どしょうまち)の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。せんだって通りかかりにお墓参りをする気になり立ち寄って案内をこうと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へ連れて行った。見るとひと叢(むら)の椿の木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘にしかじかの人があったはずですがその人のはというとしばらく考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。
知っての通り下寺町の東側のうしろには生国魂神社のある高台が聳えているので今いう急な坂路は寺の境内からその高台へつづく斜面なのであるが、そこは大阪にはちょっと珍しい樹木の繁った場所であって琴女の墓はその斜面の中腹を平らにしたささやかな空地に建っていた。光誉春琴恵照禅定尼、と、墓石の表面に法名を記し裏面に俗名鵙屋琴、号春琴、明治十九年十月十四日歿、行年五拾八歳とあって、側面に、門人温井(ぬくい)佐助建之と刻してある。
1996年12月20日に主屋、衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録された。
また2001年6月15日には、主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財に指定された。 長らくコニシないしその関連会社が社屋や事務所として使用してきたこともあり内部は非公開であったが、予てから一般公開を望む声があがっていたこと、2020年にコニシが創業150年を迎えることもあり、周年記念事業の目玉として1年の期間と1億円以上の費用をかけて史料館に改修、2020年より一般公開されるようになった。
1903年、小西屋(後の小西儀助商店、現コニシ)の屋敷兼社屋として約3年間の工期を経て完成した。
敷地面積は約1060平方メートルにも及び、南は道修町通、西は堺筋、北は伏見町通にそれぞれ面した約315坪の敷地に建設され、道修町通沿いに建つ主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、更に主屋の裏には湯殿が設けられた。
主屋は、表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住まいを中庭で結んだ表屋造と呼ばれるものである。
完成当初は主屋の一部が三階建となっており、近代大阪の町屋の特徴である土蔵造、三階建、表屋造を備えていたという。
建築当初は堺筋沿いの歩道の辺りまであったが、8月、堺筋の拡張工事に伴い堺筋に面した約四間分が道路用地として収用された。
「軒切り」と呼ばれたこの道路拡張により、その大部分が道路用地となった貸家はそれを機会に撤去され、主屋も西側約3間分が削り取られた。
これに伴い伏見町通との角地となった場所に新しく衣装蔵が建てられ、 また1923年に起こった関東大震災を期に、地震への備えとして三階部分が撤去されたことにより、ほぼ現在の外観となったが、この時に撤去された三階部分への階段は現在も残されているという。
ここは瀬戸内と京の間の水運の拠点で、海上・河川の船の積替え場であり、淀川を南北に渡る渡し場でもあった。
また、交通や経済のみならず、宗教的にも重要な場所であり、京から四天王寺・住吉大社・熊野へ詣でる際は淀川からの船をここで降りていたため、熊野古道もこの渡辺津が起点だった。
後日港の近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、浄土真宗の本拠となり、 軍事的にも重要な港であった。
平安時代後期には嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こし、渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団に発展、港に立地することから水軍として日本全国に散らばり、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。
その代表的な支族は北九州の松浦氏であり、松浦氏を惣領とする松浦党であり、豊臣氏家臣の渡辺氏や徳川氏譜代の渡辺氏もまた子孫と伝える。
この地にあった有名な神社が坐摩神社(社号は「いかすり」と読むが、通常は「ざま」)である。かつての本殿は、渡辺津のあった場所(天神橋東南の渡辺町、現在の石町)にあったが、16世紀末に豊臣秀吉が大坂城を築城する際に土着の渡辺党の存在を嫌い、坐摩神社および渡辺党に退去を命じ、渡辺津の歴史は終わった。
坐摩神社は現在地の船場(本町駅の南)に移転し、渡辺党も船場など大阪各地へ移転することになる。
淀川南岸の坐摩神社および周囲の神官・武士・住民は船場の渡辺町に移転したが、淀川北岸の武具をつくる皮革職人や下級神官らは一旦は南岸の人々と同じ場所に移転したものの、被差別民として遠ざけられ、大坂周辺を転々とした後、木津村領内に渡辺村と浪速神社(坐摩神社の境外末社)を構え、皮革製造や大阪市内の刑罰・火消などに携わることとなる。
「小楠公義戦之跡」
南北朝時代の武将 楠木正成の嫡男 楠木正行(小楠公)は1347年(正平2年)11月26日、渡辺橋で山名時氏、細川顕氏軍と合戦し快勝。橋から大川に落ちた敵兵五百数十人を救出、寒天に凍りつくのを温め、衣食と薬を与えた。恩に感謝した敵兵は帰順し、翌年正月5日、正行が四条畷で戦死するとき全員共に討死する。正行は真に忠孝、友愛、仁義の人だ。まさに日本精神の化身である。明治の初めわが国が赤十字に加盟するおり欧米人はこの話を聞いて感動し、容易に加盟が認められた。
渡の辺や大江の岸にやどりして雲井にみゆる生駒山かな 能因法師
平安時代には<渡辺ノ津>と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であり、豊臣時代には天神橋・天満橋がかけられ、江戸時代には<八軒家>と呼ばれ、淀川を上り下りの三十石船の発着場で賑わった場所であるが、この大江の岸とは、渡辺から生玉・天王寺へとつづく高台の、西側に広がる断崖の総称である。
道の旅人は、幕末の志士たちが目指したように京都へ向かうわけだけれど、十辺舎一九の「膝栗毛」で知られる弥次さん・喜多さんや、森ノ石松の「すし食いねえ」の道中が、陸路で楽しめるかどうかワクワクしているのである。