玉造稲荷神社
玉造稲荷神社は、豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されており、特に江戸時代には伊勢参りの出発点とされていた。と言うわけで、道の旅人もここを出発点として、暗峠(くらがりとうげ)まで駆けていくわけである。
ところでこの玉造は、大坂城の南から真田山にかけての地域を指している。つまり、『真田丸』の舞台に立つことになり、その地勢についても知りたいものである。
それはさておき、昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。因みに、古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)であったこの地は、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。
伊勢迄歩講(いせまであるこう)は、公益財団法人大阪ユースホステル協会が主催するウォーキングイベントである。12月28日に大阪の玉造稲荷神社を出発し、12月31日の深夜に伊勢神宮に到着するように歩くんだけど、その大阪・奈良間で、暗峠を越えることになるのだが、傾斜30度前後は難所なのだ。
とは言えその峠まで、距離15kmに満たない歴史街道だが、どんな宝物と巡り合えるのか期待に胸を膨らませながら、道の旅人も、先ずは大坂の玄関口だと言われる玉造稲荷神社を出発点とする。
伊勢に行きたい伊勢路が見たい せめて一生に一度でも (伊勢音頭)
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼(1593-1615)により社殿が再建された。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年(1619年)に徳川幕府の大坂城代や氏子寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していたため、少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫(しゅんせつ)で出た土砂を町人らが運び込む「砂持(すなもち)」が行われ、豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされた。
秀頼公が奉納した鳥居が、上部・脚部に分かれ保存されている。
と言うのも、あの阪神大震災(1995年)で一部損傷の影響をうけたからである。
ところが、2011年には大阪城を鎮守している神社の境内に、秀頼公がお出ましになり、大阪夏の陣の400年後の折には、豊臣方・徳川方の将兵をはじめ、町人・村人たち多くの戦没者の慰霊祭が斎行されたのだ。
ふと、『プリンセス・トヨトミ』(万城目学)を想起してしまった。まさに、ここでのキーワードは、普請による秀頼遺産である。
豊臣秀頼は豊臣秀吉と淀殿との間の第2子として文禄2年(1593)8月3日に大坂城で誕生した。一般には勝気な母・淀殿に対して、情けないマザコン男というイメージを持たれている。
けれども、実際の秀頼は「大兵にて御丈6尺5寸余り(約197cm)」(『明良洪範』)、「世に無き御太り」(『長澤聞書』)などと記されるように、超のつく巨体漢であったらしい。
さらに『明良洪範』には、「カシコキ人ナリ、中々人ノ下知ナト請ヘキ様子ニアラス」(たいへん賢い人なので、他人の臣下となってその命令に従うような人物ではない)と記している。
関ヶ原合戦後の慶長5年(1600)、摂津・河内・和泉3カ国を領する65万石余の1大名に転落した。
ところが、秀頼の領地が摂・河・泉をはるかに越えて、山城・大和・近江・伊勢・美濃・丹波・備中・讃岐・伊予にまで広がっていたことが確認される。
また、東は信濃の善光寺から西は出雲大社まで、秀頼は100ヶ所以上の寺社を復興したが、その際、現地の大名を奉行に任命している。 年始・歳末や端午・八朔・重陽などの節句には、全国各地の大名から秀頼に祝儀が届けられ、毎年年頭には、勅使以下、親王・門跡・公家が残らず大坂城に下向して秀頼に年賀の礼を述べた。これら全ての事象が、秀頼が決して1大名などではなかったことを証している。
実は、豊臣秀吉の代に武家の家格が公家のそれにならって定められていたのだ。
つまり、豊臣家は摂関家であり、徳川家や前田家・毛利家など5大老の家は一段低い清華家に位置付けられていた。この家格は徳川家康が将軍になって以降もいまだ有効で、秀頼は摂関家の当主であり、将来の関白の有力候補だったのである。
関が原の戦いでは、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、若干7歳の秀頼は、家康を忠義者として労わったと言う。その3年後、家康は征夷大将軍の官職を得、同年、10歳の秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚した。
12歳の秀頼が、右大臣に昇進した折、家康から上洛の話があったが、会見は実現しなかった。そして18歳になった秀頼は、自ら「千姫の祖父に挨拶する」という名目で、京都二条城で会見をした。 家康が二条城で秀頼と会見した際に、秀頼の巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したという逸話もあるほど、武将としての威厳はあったとされている。
江戸時代に作られた秀頼の伝記『豊内記』では「秀頼公は太閤の遺言に従い、天下の実権を征夷大将軍家康公に執らせて、大坂城に蟄居していた。礼を重んじて義を行い、聖賢の風を慕い凶邪の念を去り、私欲を哀れんで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じておられた。故にこの君が政を執っておられたなら、日本に二度延喜・天智の治が現れただろう。人々は大干ばつに雨をもたらす雲を望むが如く、秀頼の政治を待ち望んでいただろう」と描かれている。
この秋田實こそ、上方漫才の父である。しかも、この玉造で生まれた實少年の、遊び場がこの境内であった。今はその地に、辞世の歌碑が置かれている。
渡り来て うき世の橋を 眺むれば
さても危うく 過ぎしものかな
「漫才を誰にでも楽しめる娯楽として育てること」「どのようにして面白い笑いを客に届けるか」を純粋に考えていたからこそ、激動の時代であっても最期まで〝漫才〟と共に歩むことができたのだ。
そんな彼を讃えて、弟子関係者によって、笑魂碑も建てられた。そして、“笑いを大切に”の後には、次のように続いていた。
怒ってよくなるものは 猫の背中の曲線だけ
この境内には他にも、小野小町の碑がある。古代、上町台地の東側は海水の浸入する江湾地帯であった。生駒金剛連山を見渡す景勝の地であり、平安時代に至っては大和川が流れ、その玉造江を小町が通った際詠んだ歌である。
湊入りの玉つくり江にこぐ舟の 音こそたてね君を恋ふれど 「新勅撰集」より
さらには、『ひぢりめん卯月の紅葉』の「仰向く顔にあたる日を、袖でかざしの玉造」とか『曽根崎心中』の「あつき日に 貫く汗の玉造」などの碑(いしぶみ)があり、道の旅人には、恋もあれば笑いもあり、涙もあると言う新喜劇そのもののように思えた。