俊徳丸鏡塚

 

市の東部は高安山をはじめとする急峻な生駒山系が控えており、奈良県との府県境を形成している。市の南端を大和川が流れる他、旧大和川水系である長瀬川、玉串川などの小河川も見られる。 古代においては河内湖がこの付近まで広がっていたと考えられている。旧大和川流域の肥沃なデルタ地帯として、弥生時代から耕作が行われていた。

古墳時代には多くの豪族がこの地一帯に勢力を維持し、生駒山地の麓に数多くの陵墓を造築した。その多くが現在でも古墳として残っており、その数の多さから千塚(ちづか)という地名として残っている。

中河内地区(東大阪市・八尾市・柏原市)最大の合寺山(しおんじやま)古墳がある。全長約160メートルの規模を有する。後円部の直径が約92メートル・高さ約13メートル、前方部の幅が約90メートル・高さ約12メートルの前方後円墳である。前方部が南方、後円部が北方にあり、墳丘は三段築成となっている。 また、生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりとなっている。

鎌倉時代ごろまで、古墳近くにあった秦興寺(しんごうじ)が名称の由来とされている。そのお寺が、この地を治めていた秦氏の氏寺と考えられているのだ。時代を過ぎるとともに「秦興寺」は「心合寺」と表記されるようになり、「しんごうじ」の読みは「しおんじ」に訛ったとされている。この古墳が秦氏と関係しているのなら、その主は先祖である、弓月君(ゆづき)とも考えられる。

応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて、弓月君の民の渡来を実現させていたのだ。しかもこの年の2月には、王仁も渡来してきており、この渡来人たちによって、河内王朝時代があったかもしれない。

河内の名が確定したのは、おそらく大宝4年(704年)の国印の鋳造された時である。 河内国の範囲は生駒山地・金剛山地の西側に沿った南北に細長い地域で、現在の大阪府東部に該当するが、奈良時代の初めまでは海側の和泉国の領域も含んでいた。 西の平野部は、縄文海進によってできた河内湾に淀川・大和川から流入する土砂が堆積して広がっていったものである。

「ここまで来たら、八尾の浅吉さん(勝新太郎主演映画『悪名』今東光原作)に挨拶しなくちゃなんめい」とばかり、平野部に下りていく。

そしてこの内陸部一帯、飛鳥時代には物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている。しかも奈良時代以降、この地一帯は難波と大和国を結ぶ中継地として栄えていたのだ。ただ、平安京遷都により、都から遠いこの地域の文化が衰退していったのは確かである。ところが、戦国時代から江戸時代初期にかけて、この一帯は、たびたび合戦が繰り広げられる場所であった。初期に久宝寺や萱振で寺院を中心に寺内町・環濠集落が形成され、時の権力に対抗する勢力の拠点となった。また、大坂夏の陣においては北の若江(東大阪市)、南の道明寺(柏原・藤井寺市)と並んで序盤の激戦地となっており、ここに河内街道を北に走り、ひとまず、木村重成公の墓(八尾市幸町)に参ろうと思う。

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると、豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣した。

八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。

藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。

その後、敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との戦闘の末に戦死した。

首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。その後、首は討ち取った安藤重勝が密かに彦根まで持ち帰り、一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある。 大阪方諸将の墓碑の建立は認められていなかったため、重成の遺体は同じく若江の戦いで戦死した、山口重信(徳川方)の墓の隣に葬られ、目印として2本の松の木が植えられた。 享保15年(1730年)に重信の墓を訪れた儒家の並河五一は、墓碑もない重成の扱われ方を憐れみ、訴願して墓を建立したという。 五一の建立した墓碑は現存していないが、その後150忌にあたる宝暦14年(1764年)に、安藤家の子孫によって幕府公認の墓が建てられた。

重成の死から200年以上経った文政11年(1828年)に、重成の墓に参拝するブームが突如として発生し大坂町奉行が沈静化に乗り出す騒ぎとなった。大阪の市井の人々は重成の墓を「残念墳」、重成を「残念様」と呼び、願をかけると願いが叶う神として親しんだ。

墓石を削って飲むと、勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸くなっている。また墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮気に効があると伝える。

昭和26年(1951年)、今東光(法名:春聴)が本山から住職として派遣されたところが天台院である。今東光が派遣された頃の寺は、木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。

和尚は24年間ほど住職として滞在したが、その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めたものである。境内の東光碑には、『東光太平記』の書き出しが・・・。

なお、1973年瀬戸内晴美の、中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聽」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。

それにしても、数ある作品の中で、境内の碑が選ばれた理由には興味があるところだが、東光の作品にはまた、『弓削道鏡』の作品がある。

誤解があってはいけないので断っておくが、作品の内容とは関係なく、歴史としての道鏡(700?-772)と由義の宮について遺しておきたかったからにすぎない。

というわけで、弓削氏については、弓を製作する弓削部を統率した氏族であり、道鏡の属する系統(弓削連)は物部氏の一族とされ、物部守屋が母姓を仮冒して弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したという。

孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、「道鏡が先祖の‟大臣”の地位を継ごうとしているから退けよ」との藤原仲麻呂からの奏上があったと語られている。

文武天皇4年(700年)に 、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で道鏡は生まれた。若年の頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。禅に通じていたことが知られており、これにより内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。

天平宝字7年(763年)、慈訓に代わって少僧都に任じられ、翌天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で、太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。

翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。 道鏡が関与した政策は仏教関係の政策が中心であったとされている。

道鏡の後ろ盾を受け、弟の浄人が8年間で従二位大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。

八尾市八尾木北にある由義神社の境内に「由義宮旧址」の石碑が建っているが、『続日本紀』などの史書には具体的な所在地は記されていない。

奈良時代の神護景雲3年(769年)から宝亀元年(770年)頃まで存続した。2017年時点までの発掘調査では、由義神社から南へやや離れた場所にある東弓削遺跡が、弓削寺(由義寺)及びその近くに造営された由義宮の所在地であった可能性が有力視されている。

天平神護元年秋十月の末つ方、女帝は紀伊路を御立ちなされた。行幸の鹵簿(ろぼ)は、紀ノ国から和泉の海沿いに粛々と進んだ。秋晴れの海道はこの行幸を楽しいものにした。摂津に入ると早や河内の山山が眺められた。津の国から河内国に入ると弓削氏の一族が国境までお出迎え申し上げた。                                                                                (今東光『弓削道鏡』)

 

道鏡を信頼する称徳天皇は、765年に初めて、弓削行宮(ゆげのあんぐう)(道鏡の故郷である弓削の地に設けられた仮御所)に5日間滞在して、その間に道鏡を太政大臣禅師に任命し、また、2度にわたり弓削寺に行って仏像を拝み、その庭で唐・高麗楽(とう・こまがく)(唐・高句麗由来の音楽)の演奏なども行わせています。

また、769年に称徳天皇は「由義宮」として整備が進められていた当地に赴き23日間滞在しました。このとき、「由義宮」は平城京の副都として「西京」と位置づけられました。

この滞在中には、龍華寺(りゅうげじ)の近くにある川のほとりに市(いち)を設けて、つき従ってきた役人たちが好みのものを売り買いしている様子を、称徳天皇は見物しています。なお、龍華寺については、その所在地ははっきりとはわかっていませんが、安中小学校の南西角に「龍華寺跡」の石碑があります。

 

ここから、道の旅人は東高野街道に戻り、舞楽の修行のため、高安から四天王寺へ通っていた、俊徳丸の伝説(高安長者伝説)へ向かうことにした。

河内国高安の山畑(現在の八尾市山畑地区あたり)にいたとされる信吉長者には、長年子供がいなかったが、清水観音に願をかけることで、ようやく子供をもうける。

俊徳丸と名付けられた子は容姿が良く、頭も良い若者で、そのため四天王寺稚児舞楽を演じることとなった。

この舞楽を見た隣村の蔭山長者の娘・乙姫は俊徳丸に魅かれた。

二人は恋に落ち、将来、一緒になることを願うようになった。

 

しかし継母は自分の産んだ子を世継ぎにしたいと願ったため、俊徳丸は継母から憎まれ、ついには継母によって失明させられてしまった。

さらに癩病にも侵され、家から追い出されてしまい、行きついたのは四天王寺であった。

そこで俊徳丸は物乞いしながら何とか食いつなぐというような状態にまでなり果てた。

この話を村人から伝え聞いた蔭山長者の娘は四天王寺に出かけ、ついに俊徳丸を見つけ出して再会することとなった。

二人が涙ながらに観音菩薩に祈願したところ、俊徳丸の病気は治り、二人は昔の約束どおり夫婦となって蔭山長者の家を相続して幸福な人生を送ったとされる。

ところがここに、高安古墳群に属する古墳のひとつ、八尾市山畑地区にある6世紀ごろの横穴式の石室墳墓があり俊徳丸鏡塚(しゅんとくまるかがみづか)として祀られている。

いつからか、俊徳丸の伝説と結びついたものだが、古くから語り継がれてきたという証拠だと言う。石室入口前には石碑と実川延若が寄進した焼香台がある。

これを題材にした謡曲が『弱法師』であり、室町時代の作品であるが、「癩病」が使われるようになったのは鎌倉時代だと言う。

平安時代に始まる物語文学も、御伽草子などのように、民間説話が取り入れられるようになったのは、鎌倉・室町時代ってことになろうか?

長者になった俊徳丸なのだが、その苦難の道を、お布施の心持と共に、古墳にあしらったものかもしれない。

ところがここに、世に言う、「堀江六人斬り事件」で両手を切断された、大石順教(1888-1968)の語ってたことを挿入しておく。

 

俊徳丸というのが謡曲や芝居にあるやろ。私の居た高安の所に、いわく因縁があるので、何か目じるしになるものをと思っていたら、大阪に芝居が掛かって、役者(二代目實川延若・七代目松本幸四郎、六代目尾上菊五郎など)が来た時に頼んで碑を作った

なお付け足しだが、在原業平とされる人物が、自邸のある大和国(現在の天理市)から河内国(現在の八尾市)へ通っていた記述が、『伊勢物語』やそれを基にした能・謡曲『井筒』、『大和物語』・『河内名所図会』・『河内鑑名所記』などに記され、所謂「業平の高安通い」伝説の根拠とされている。

伊勢物語において業平は、高安郡にある玉祖神社参拝の折、神立村の福屋という茶店の娘・梅野に恋をして、八百夜も通いつめた。

君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば 頼まぬものの恋ひつつぞ経(ふ)る(『伊勢物語』23段)

 

ところが、この‟筒井筒”のお話は、高安に通わなくなった男を、いつまでも待つ歌で終わっている。道の旅人としても、十三峠を越えるわけにもいかず、玉祖神社から東高野街道に戻ることにした。