山田池の月
東高野街道の出発点を枚方市からはじめるにしても、洞ヶ峠(ほらがとうげ)については語らねばならないだろう。その洞ヶ峠は、京都府八幡(やわた)市八幡南山 と 大阪府枚方市高野道・長尾峠町の境にあるのだ。
かつては東高野街道の中継地であり、現在はその少し東を国道1号(枚方バイパス、京阪国道)が通っており、峠のすぐ北に八幡洞ヶ峠交差点(山手幹線の交点)がある。
峠ではあるが、その国道に曲がりくねった坂道はなく、線形の良い、勾配の緩やかな4車線道路である。(Wikipedia)
天正10年(1582年)、本能寺の変の直後に、明智光秀の軍と信長の重臣羽柴秀吉の軍が山城国山崎において激突した(山崎の戦い)。この時、明智・羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名筒井順慶は、一度は明智側に従って山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めながらも、最終的にはどちらに付くか日和見をしたとの伝説があったため、日和見する事を‟洞ヶ峠”、あるいは‟洞ヶ峠を決め込む”と表現したりした。
しかし、この伝説は史実に反しており、筒井順慶は最終的には洞ヶ峠に着くことなく大和へと撤兵して中立を保ったと言われている。 ところで峠の周囲は、ほぼ開発され、旧東高野街道の痕跡を辿ることが困難となっている。
国道1号のうち、京都 - 大阪間(京阪国道口 - 梅田新道)を京阪国道と呼ばれ、その地点案内標識を辿ると、八幡洞ヶ峠→長尾峠町→家具団地前(長尾家具町)→枚方企業団地前(招提田近)→招堤(しょうだい)→出屋敷北へと至り、その検証から始めようと思う。
長尾峠町・家具団地前は、国道の東側にあり、‟高野道(こうやみち)”の地名は西側にあたる。洞ヶ峠茶屋の裏に、八幡市・枚方市にまたがる3万坪の敷地を持つ、達磨堂圓福寺があり、ここが、道の旅人の出発点となる。
その圓福寺は、まず、白隠四天王のひとり斯経(しきょう)禅師(1722-1787)が、天明3年(1783)に臨済宗最初の専門道場、江湖道場として建立され、豪商でもあった、南山焼(なんざんやき)の祖:浅井周斎(1720~1800)らの寄進を得て伽藍が整えられました。さらに、日本最古と伝えられる木造(鎌倉時代)の達磨大師坐像があり、坐禅堂の聖僧(しょうそう)として安置されているので「達磨堂」とも呼ばれているのだが、それは文化4年(1807)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置したものであった。
しかしこのだるまさんは、このお寺に来るまでに幾度もの災厄をくぐってきたことから「七転八起」「厄災消除」のシンボルとして信仰を集めているのである。
ところが、普段は寺の中に立ち入ることはできませんが、中風のまじないで知られる「万人講(まんにんこう)」が年に2回(4月20日・10月20日)行われ、この時は円福寺の内部が見られるばかりではなく、達磨大師坐像も開帳されるのだ。
そして、この円福寺の竹藪を抜けていけば高野道町に入る。ここに、フォレオ枚方(枚方市高野道1-20-10)があり、スクリーンのシネマコンプレックスと20の専門点がテナントとして入店している。ついでながらこのフォレオ(FOLEO)とは、大和ハウス工業が日本国内に展開するショッピングモールである。
そしてこの旧道を道なりに駆けると、国道沿いを進むことになり、枚方企業団地前から国道に入り、招堤に向かうことになる。大雑把な説明になるけれど、招提村は天文12年(1543)河内国牧郷内の荒地に浄土真宗(蓮如上人の6男:蓮淳上人)の道場(敬応寺)が建てられ、寺内村として成立したものであるが、招堤とはこの道場を意味しているのである。
寺内村の領域は東西30町・南北20町に及ぶ広大なもので土塁を築いたり堤を作って水を貯めたり木戸を設けて通行の監視などを行っている。 石山本願寺合戦の時には表面上織田信長に服従したように装い、実際は本願寺に通じていた。しかし、天正10年(1582)本能寺の変後、明智光秀に味方したため、寺内不入りの特権を剥奪され一般農村になってしまった。
出屋敷北を過ぎたあたりで、旧道に入り、山田池公園を目指す。そここそ、枚方八景の一つ、‟山田池の月”と呼ばれる、観月の場所である。
水面の広さが約10ヘクタールと、府下でも有数の大きな池です。その歴史は古く、田口・甲斐田・片鉾の灌漑(かんがい)用のため池として平安時代につくられました。
この三村落を、山田郷と言ったのがその由来である。平安のころから京都の貴族たちの狩場であった交野原の、ほぼ中央にあるこの池は、秋から冬にかけて、無数の鴨が飛来した最良の猟場であった。
(富田寅一『北河内いまむかし』)
田口村の集落は今の田口辺りにあり、江戸時代後期に集落東方の山田池との間を、南北に東高野街道が通り、その街道沿いに街村が形成されたのが出屋敷である。
穂谷川をわたり、この出屋敷高野街道を駆け抜けると、大阪府道18号線枚方交野寝屋川線に合流することになる。
ここまで来ると、どうしても立ち寄りたい場所がある。百済から日本に渡来してきた、王仁(わに、生没年不詳)に挨拶をしておきたいのだ。
と言うのも、記紀等に千字文と論語を日本に伝えたとされる、伝承上の人物なのである。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されており、百済に渡来した中国人である。伝王仁の墓は、山田池公園の東にあり 、片町線の藤阪駅辺りに王仁公園があるが、園内にはなくまだ北東方向に探索しなければならないのだ。つまり、功績のあった人物であるにもかかわらず、何故ここなのかと思うと、皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子の師であった王仁は、互いに皇位を譲り合った仁徳天皇との事件に巻き込まれたのであろうか?
十五年秋八月六日、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎子(第16代仁徳天皇の異母弟)は、阿直岐を師とされた。ここに〔第15代応神〕天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別 (かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。
十六年春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。
【『日本書紀』 巻第十(応神紀)】
さらに古事記では、この典籍のことが説明されており、論語十巻・千字文一巻がもたらされたと言う。
ところが千字文が編集されたのは、第26代継体天皇の時代であり、古事記にあって、この誤った記事の挿入はどうしてだろう?
と言うのも、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないのだが、序文で天武天皇の詔が記載されているのだ。
削僞定實 欲流後葉 【偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ】
そして太安万侶が編纂し、和銅5年(712)、元明天皇に献上されたのである。
そもそも千字文とは、子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩なのである。それも、1000の異なった文字が使われているのだ。
しかし、漢字はもうすでに渡来人によって伝えられており、万葉仮名が7世紀には成立しており、その錯覚、あるいは思い込みだったかもしれない。
ここに、王仁作の難波津の歌を記す。
奈迩波ツ尓 佐久夜己能波奈 布由己母理 伊麻波波流倍等 佐久夜己乃波奈
なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな
ところでこの歌は、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌なのだが、「今を春べと」に変えて歌われている。