野崎観音
飯盛山(いいもりやま)は、大阪府生駒山地北西枝にある山。大東市と四条畷市にまたがっており、山頂は大東市になるのだが、そこに居たのは楠正行の銅像であった。
①吉野を出でて、うち向かう ②あな、物々し、8万騎 ➃めざすかたきの師直と
飯盛山のまつかぜに 大将師直いずくにか 思いて討ちしその首は
なびくは雲か白幡か かれの首をとらずんば 敵のはかれるいつわりか
ひびくは、敵の鬨の声 ふたたび生きて還るまじ 欺かれしぞくちおしき
「新編教育唱歌集♪四條畷♪」
大阪平野から淀川をはさんで北摂が一望されるのだ。その雄姿は京都にむけられている。明治維新尊王思想の模範とされ、その誠忠・純孝・正義によるとして明治9年(1876年)に従三位を追贈された。
明治22年(1889年)には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが容れられ別格官幣社として社号を与えらる。
翌明治23年(1890年)に社殿が竣功し正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。
さらに明治30年(1897年)には従二位が追贈された。
楠木正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれるのに対して、嫡男の楠木正行は小楠公(しょうなんこう)と呼ばれるが、地元四條畷市民や近接地に住む大東市民の間で単に「楠公さん」と言えば正行や当社を指す場合が多い。1975年(昭和50年)には「楠公」という町名まで誕生し、他にも周辺に楠公と付く地名が複数誕生している。
実は、 ここに本格的な城を築いて居城にしたのは、細川家(本流)の家臣であった三好長慶(1522-1564)であった。標高は314.3mの山城で、大東市による公式名称は「飯盛城(いいもりじょう)」である。
戦国期の日本において領主は、城主と呼ばれた。城主は、平時には麓で住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。 山城は、土木技術、特に土地造成技術が未熟な時代に発展し、大きな役割を果たした。ただし住むには不便であり、居住地からも離れている。したがって山城は、住む機能を持たず戦時の立て籠もり用として利用されることが多かった。
つまり、攻められないことを前提にしているのが山城なのだ。素通りしてくれれば高みの見物で済むのだが、兵糧攻めにされると、投降せざるを得なくなる。
足利将軍家と和睦した三好長慶が、自らの居城と定め入城した飯盛城は、この時から大規模な改修作業を実施し、現在の城郭になったと思われる。やがて畿内を統一するまでになった長慶は、キリシタンを奨励し、フロイスも訪れたのだ。
わたし達は午後3時にある川(旧大和川)に達しました。そこで堺から、6里離れた飯盛に行くために、乗船せねばなりません。かくて、川を遡って飯盛城の麓に至りました。陽はすでに沈みかけており、非常に険しく難義な道を、半里ほど城まで登っていかねばならないのです。ところが上陸しますと、すでに駕籠が待っていました。駕籠かきは、途中大いに急いだのですが、高い杉や松の繁みに一面蔽われた山中で、夜になりかけていました。すると、頂上から、燃え盛る松明が運ばれてきたのです。担いでいた六人の駕籠かきは、途次難渋することが少なくなりました。
(松田毅一・川崎桃太訳
『フロイス日本史3』)
1.野崎参りは屋形舟でまいろ 2.野崎参りは屋形舟でまいろ 3.野崎参りは屋形舟でまいろ
どこを向いても菜の花ざかり お染久松せつない恋に 音に聞えた観音ござる
粋な日がさにゃ蝶々もとまる 残る紅梅久作屋敷
お願かけよかうたりょうか滝に
呼んで見ようか土手の人 今もふらすか春の雨
滝は白絹法(のり)の水
(東海林太郎『野崎小唄』)
山から下りてきて、♪屋形船でまいろ♪もないものだが、大阪からの野崎参りは船路と陸路があった。船路は 大阪・天満の八軒屋浜から大川 寝屋川 谷田川を経て観音浜に着く屋形船で行く。野崎参りは江戸時代の元禄年間(1688~1704)から盛んになったが、宝永元年(1704年)、大きく北に流れこんでいた大和川の川替えが行われ、深野池は干拓され耕地となったが、幅4間(7メートル余)の観音井路を築いて船の水路とした。これにより、陸路は井路の堤を直行でき、かつて深野池を大きく迂回したより近くなったので、ついには近在遠郷の参詣者ひきもきらずとなった。
つまり、大川を少し東へのぼり右手の寝屋川に入ってさらに700mほどでまた、右手の平野川に進むが、まっすぐ行くこともあった。直進の川は当時‟鯰江川”と呼ばれ、途中から放出(はなてん)まで大きく南下し、そこから徳庵に向けて北上していた。この徳庵からやや北東にさかのぼり、現在の住道から北上し、寝屋川とはすぐに分かれて東に入る水路の二本のうち北側の谷田(たんだ)川に入る。
これが観音井路で、まっすぐ東へおよそ1400mで観音浜に着く。八軒浜から観音浜まで、陸路も船路も12キロメートルの道のりであった。
とある武家の遺児久松を、乳母の兄である野崎村の農民久作が養育、成長した久松は、大坂の油屋という質屋に奉公するが、店の娘お染と恋仲になる。
お染にはほかに縁談があり、2人の仲は裂かれて、久松は久作のもとへ帰される。
お染は野崎参りにかこつけて久松をたずねるが、久松には久作の女房の連れ娘お光という許婚があり、思いあまった2人は心中を決意する。
それを知ったお光は、久松への思いを捨てて尼になる。
正月間近ののどかな田舎家で展開するが、若い男と二人の娘の恋模様は、痛ましいまでの哀しい幕切れへと向かう。
野崎観音の通称で知られる慈眼寺は、創建が天平勝宝年間(749-757)である。インドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる 平安時代、江口の君(江口の長者)が、難病治癒の報恩を感謝するため現在の場所に寺を移転し、再興に尽力したと言うのだ、
江口の君とは、平安時代から鎌倉時代にかけて江口にいた遊女の総称。また、謡曲『江口』で西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙をさす。
諸国一見の僧が淀川河口の昔遊女の里であった江口の里に着いた。旧跡など懐かしみ、昔西行法師が一夜の宿を主の遊女に断れて詠んだ歌を一人口ずさんでいると、どこからともなく現れた女に宿を惜しんだのではないと咎められた。女は遊女の返歌を詠み、江口の君の幽霊であると声ばかり残して消え失せた。
僧が江口の岸辺でその霊の弔いをなしていると、遊女達が船遊びをしている様が出現した。船に乗った遊女達が僧に言葉を交わし、遊女であったためのこの世での悲しみ、華やかさ、無常、迷いを語る。そして、遊女でありながら悟りを開き、江口の君は普賢菩薩の姿を現し、船は白象となり、白雲の打ち乗って西の空へと消えていった。
ところが、中世以後は戦乱により衰微し、特に永禄8年(1565年)には三好義興・松永久秀の戦禍(東大寺大仏殿の戦い)にかかり、本尊を除いて全焼した。元和2年(1616年)に青厳によって再興され、天和2年(1682年)に「野崎詣り」が始まる。元禄・宝永年間(1688年 - 1710年)までに、同行事が盛んになるにつれて、門前が繁栄するようになった。 実はここに、『野崎観音の謎』(神田宏̪大)がある。その副題が‟隠れキリシタンの寺か!?”なのだが、神田氏によると、1605年当時、日本のキリシタン人口は75万人とも言われており、この時代、河内はキリシタンの一大聖地で、大東市と四条畷市では、実に住民のほぼ100%がキリシタンだったという。やがて迫害が起こると、彼らの多くは隠れキリシタンとなり、ひっそりと信仰を守り続けた。その史跡が今もこの地に残っている。
戦乱の世になると、東高野街道をはじめとするこの地域は戦略上重要な場所となり、たびたび舞台として名が登場する事となった。
この頃、東に深野池、西南に新開池と2つの池に範囲が確定し、深野池に浮かぶ島には、飯盛城の支城である三箇城(現存せず/三箇菅原神社)があった。城主の三箇氏はキリシタンでこの地に教会を建設するなど、意欲的に活動を行い、それは宣教師ルイス・フロイスによって欧州にまで伝えられていた。
永禄八年(1565)には京の政変から逃れて三箇に来たビレラやフロイスが数ケ月滞在し、三箇のキリスト教は隆盛をきわめた。その間フロイスはローマに「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告している。
その後信長時代はますます栄えたが、次の秀吉が天正15(1587)年6月19日にキリスト教を禁止してからは急速に衰えた。
当時の遺物が全く残っていないのは秀吉の居城に近いためだろうか。
三箇頼照(15??~1595)のことを宣教師アルメイダは、「私が日本に於いて見た最も信仰厚きキリシタンに属す」と報告しています。 またフロイスは1567年の書簡に於いて、「他のキリシタン一同の頭で、その徳の高い事の模範を人々に示しているので大いに敬愛されて、各々の君主、また、お父さんのように尊ばれている人で、その名をサンチョと言い、年齢は50歳で、その家族及び家臣たちは、彼の示した素晴らしい模範と不断の奨励によって神の愛の中に留まろうと極力努めました。……彼は日本の宗旨、習慣に精通しています」と、頼照の信仰について語っています。
京都においてザビエルの時代から夢であった都の教会、『南蛮寺』が1577年に建てられました。同じ頃、三箇の教会も成長して手狭になり、三箇頼照は三箇の大聖堂を現在の大東市に建てました。大東市にある「住道」は昔、「角堂」と書いていました。『大東市史』には、「角堂」の名前の由来は、三箇キリシタンが隆盛を極めたころ、ここに第三の教会が建てられたのでこの名前が付いたとするのが有力のようである」と記されています。「角の堂」というのは、教会堂がゴシックの三角屋根か三角の塔があったのでこのように呼ばれるようになったと思われています。
三好長慶は、‟かたしろ”のようでいらっしゃった。御膝の横に少し横たえて扇を置かれ、たいへん暑いときは、いかにも静かに右の手で扇をとりあげて、左手をそっとそえて、三・四間開き、音がしないように身にそえてお使いになる。また左手をそえてたたみ、もとの所へ横たえ置きなさる。その置き所は畳のひと目も違わなかった。(松永貞徳『戴恩記』)
貞徳(1571-1654)の師である細川(傍流)幽斉(1534-1610)が、理想としたのが長慶(1522-1564)であり、その連歌会の1コマが記されている。そもそも連歌(れんが)は、鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、
歌連歌ぬるきものぞといふ人の あづさ弓をとりたるもなし (長慶)
歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ (幽斉)
さて飯盛には連歌の会ありて、長慶・冬康(弟)・宗養(連歌師)・紹巴(連歌師)など列座す。
三の折過ぐる時分に、実休(弟)討死の注進状を長慶に捧げる。長慶一見して懐中し、座を不動、色を不変。時に傍人「芦間にまじる薄一村」と云々。
座中つけわづらひしに、長慶「ふる沼の浅き方より野となりて」とありしかば、諸人皆興に入る。冬康は「古沼の」と吟じだされけるとともに、「珍重珍重」と云々。
連歌はてて後、実休討死(久米田の戦い)の由を座中へ披露し、「さだめて敵発向あるべし。はや入洛せよ」とて、宗養・紹巴以下の客を帰し遺さると云々。
陸生植物であるひとむらの薄が、勢力を盛り返して野を広げて行くのだ。飯盛城から出陣する長慶にとっても、実休の無念を晴らすばかりじゃなく、この一年前には、和泉岸和田城が持城であった、弟の十河一存を急死させていたのだ。
【連歌】は、五七五に七七を付けて完結するのみではなく、七七にさらに五七五、七七、五七五……と次の句を付けて展開し、おおよそ百句をもって一作品とすることが一般的となる。 ただし、一体感とともに連歌で重視されるのは、展開であり、変化である。すなわち前句aに対してbの句があまりに調和しすぎている場合には、作品全体が平板で変化のないものに陥ってしまう危険性が生ずる。連歌は多人数が製作に参加することで、句に盛られるポエジーが次々に変化し、移調してゆくことを狙いとする文芸であるから、過度に前句と調和しすぎた句を詠むことは、その本質から言って好ましくないのである。 そこで、作者Bは前句aに対して、適度に調和を保ちつつも、同時に新たな要素を詠み込んで展開をはかることが求められる。連歌作者における個性はこのような局面において発揮されるべきものなのである。
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