万代池公園

 

住吉の岸の姫松人ならば幾世かへしと問はましものを(古今和歌集906 読人知らず)

 

この岸の姫松が、住吉浜の入口だったのかもしれない。その熊野街道沿いにある駅が、姫松停留所(阪堺線)なのだ。ところが、その駅名の由来は、「我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いくよへぬらむ」(古今和歌集905 読人知らず)を挙げていた。しかも、伊勢物語117段に同じ歌が載っている。とは言え、「岸の姫松」の所在は不明なのだが、そんな姫松の状況を的確に示している狂歌を二首挙げておく。

 

我見ても久しくなりぬ住吉の あとずさりする岸の姫松  鯛屋貞柳(1654-1734)

住吉の新田増えてとしどしに あとずさりする岸の姫松  蜀山人(1749-1823)

 

名の由来になった姫松は、古くより開発のあおりを受け、その勢いは、年々小さくなっていったことがわかる。

 

南港通りを渡り、チンチン電車の東側に入れば、熊野街道の入り口のように、万代池(まんだいいけ・ばんだいいけ)公園に出くわす。 池にはふしぎな力がある。魔物が住んでいたり、大蛇とか龍とかが池の主であったりする。先祖たちは、畏敬の念を抱きながら、池を守ってきたのである。 そして、この万代池を"よろずよの池"と読むと、すべては此処から始まるのかと思ったりする。ところが半周もしないうちに、再び路面電車に出会うのだが、そのわずかな距離に身を置いただけで、この池が結界をつくり、住民たちの憩いの場になっていることがわかる。

昔、この地に不思議な魔物がすみ阿倍野街道(四天王寺南大門起点)を往来する人々を悩ましていた。そこで聖徳太子が人を遣わし、曼荼羅経をあげさせると、魔物が出なくなったと言う。その後この池を“まんだら池”といい、訛って万代池と呼ぶようになった。

       (熊野街道『住吉史跡めぐり』)

 

池の周囲は約700メートルほどあり、上町台地の浸食された谷を、せき止めて作られたと言う。

ここで、帝塚山音楽祭が毎年開かれている。と言うのも、かつては学生街として賑わっていた帝塚山でしたが、その大学や短大が郊外に移転して若者の姿がめっきり減ってしまい、「寂しくなってしまった」「このままでは帝塚山の街が衰退してしまう」「何か街に活気を取り戻すイベントが必要だ!!」ということで阿倍野区・住吉区にまたがるこの帝塚山地区の、いろいろなお店の経営者たちが立ち上がったってわけ。 

そもそも帝塚山住宅地は、今もその住民をさして、「帝塚山族」とか「別荘の人」と呼び、芦屋族と並び称される市内唯一の高級住宅地なのだ。

そしてこの池を出たところが、帝塚山三丁目停留場(阪堺電気軌道上町線)であり、路線の西側に帝塚山学院小学校・中学校・高等学校が存在する。この帝塚山学院初代学院長が、庄野貞一なのだが、その息子が『プールサイド小景』の芥川賞作家:庄野潤三なのだ。

 

青木氏の家族が南京ハゼの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
(あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて・・・)

・・・だが、そうではない。この夫婦には、別のものが待っている。それは、子供も、近所の人たち誰もが知らないものなのだ。
 それを何と呼べばいいのだろう。                             
(庄野潤三『プールサイド小景』)

 

この作品を読んだだけではわからないけれど、作者の履歴によって、その辺りであることがわかる。そして、その辺りを散策することによって、確かにコーチの先生の言葉が甦ってくる。
 つまり、ここが高級住宅地であり、憧れにも似た、そのセレブな、しかも穏やかな暮らしが伝わってくるのである。
 しかし、ここを散策するのに注意しなければならないことがある。道の旅人は、時々方位を失うのだが、ここがまさに“方位0”の地点ではないのかと、入口(この場合は出口)が探せないことがある。ところが、“迷う”ということの愉しいひとときが、この街にはあるのだ。

なお、あの『マッサン』(NHK2014年後期朝ドラ)のヒロイン:リタは、この小学校で英語を教えていた。

帝塚山駅(南海高野線)の踏切を西へ渡ったところが、市内唯一の古墳:帝塚山古墳である。

江戸時代成立の『摂津名所図会』は、住吉に近いこの帝塚山古墳(前方後円墳)を大伴金村(5世紀末~6世紀中)の墓としているが、考古学的に年代(4世紀末~5世紀初)が合わない。

ただこの金村について云えば、天皇家が、継嗣のない武烈天皇で途切れかかった時、応神天皇の五世孫、男大迹王(おおどのみこ)を迎え、継体天皇として、今の皇室の系図につなげたのである。
 しかし欽明天皇1年(540年)、物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退いて、住吉の自宅に引きこもったのだが、万葉集』でも「大伴の御津の浜」(難波津)「大伴の高師の浜」(高石市)と詠われているように、古墳時代を生きた大伴氏の墓域であることに間違いないであろう。

 

そのまま路面電車に沿って、東側の道を神の木停留場(盛土駅)まで南下する。この大層な駅名は、かつて住吉一帯が海岸に面していた頃、中でも大きな古松があり、神木として崇められていたことから来た地名(現在は消失)による。また、このあたりに神様の宿った三本の木があったからと言う説もある。 この盛土駅の下を交差するように軌道しているのが、南海高野線であり、踏切を渡って熊野街道を進むと、“住乃江味噌の池田屋”が弥が上にも目につく。

手作り味噌のお店で、元禄年間(1688~1703年)に酒造業として創業しましたが、明治初期に味噌作りを始めました。明治、大正、昭和天皇にも献上された「住之江味噌」は住吉名物として有名です。

熊野街道と住吉街道(大社起点東行)の四つ角にあって、表の屋根には住吉大社の高灯籠が置かれています。1892(明治25年)の建築ですが、白壁の虫篭窓など昔ながらの風情を伝える商家で、国指定登録有形文化財になっています。

ところで、このまま通り過ぎないで、この池田屋の角をちょっと東に曲がってくれる? そしたらね、荘厳浄土寺に行きつくんよ。

創建は天慶年間(930年~946年)頃といわれ、1096年に白河天皇の命で津守國基が再建しました。工事の折に土中より『七宝荘厳極楽浄土云々』と書かれた金の宝鐸が見つかり、これに因んで「荘厳浄土寺」と名付けられたそうです。現在の堂は、1682年の再建。本尊不動明王(平安後期)、愛染明王坐像(鎌倉後期)と共に境内も大阪府文化財に指定されています。

 

しかも、南朝の後村上天皇(1328-1348)が住吉に行宮(あんぐう)しているとき、二度にわたって御父後醍醐天皇の法要を行ったところである。

 

(正平十八年八月十六日、月曇りて侍りければ)

秋をへて月やはさのみ曇るへき  泪かきくるる十六夜の空          (新葉和歌集 哀傷歌)

(正平廿一年二月十七日、雪いたうふりて侍りければ) 
思ひやるさか野の春の雪にもや  消えける罪の程は見ゆらむ (新葉和歌集 釈経歌)

北朝勅撰集(『風雅和歌集』・『新千載和歌集』・『新拾遺和歌集』)には、南朝の君臣による詠歌が一切撰入されなかった。

後村上天皇とは異母兄弟である宗良(むねなが)親王(1311-1385)が、このことを嘆き、南朝の和歌集を撰述せんと企図したのがこの『新葉和歌集』である。もともとは親王が自身の老いの心を慰めるための私撰集に過ぎなかったが、これを知った、第一皇子であった長慶天皇(1343-1394)から、勅撰に准ずる旨の綸旨(りんじ)が弘和元年(1381年)10月13日付で下された。

同時期に編まれた『神皇正統記』との対比から、「神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である」とも言われる。

全20巻で、春(上・下)・夏・秋(上・下)・冬・離別・羇旅・神祇・釈教・恋(一〜五)・雑(上・中・下)・哀傷・賀の部立から成り、約1420首である。 時代は元弘元年(1331年)から弘和元年(1381年)に至る南朝3代50年に亘り、皇族・廷臣・后妃・女官・僧侶など150余名の詠歌を収める。最多は先代後村上院の御製100首なのだ。

南朝を正統とする水戸史学の影響を受けた幕末志士にとって、『神皇正統記』とともに座右の書の一つとされ、坂本龍馬が故郷の姉乙女宛に書いた手紙によれば、京都で新葉集を探し求めたが手に入らないので、国許土佐にいる吉村三太という男から新葉集を借りて筆写して送って欲しいと頼んでいる。

 足利幕府の京都とは、眼と鼻の距離でしかない摂津住吉である。どう見ても要塞に適した場所ではない。
 しかし、幕府が排撃しなかったのは何故であろうか?武士の世界においても、ここ住吉大社の神々に対し、刃を向けることは畏れ多いことだったに違いない。
 住吉行宮は津守家代々(大社の宮司)の邸(正印殿)であり、秀吉が住吉に参拝の折には、この津守邸に宿泊していた。また、住吉と離れたところに津守という地があり、何となく大阪の玄関口を守ってきた豪族の感がある。

 

その南北朝時代(1336-1392)は、長慶天皇(後村上の第一皇子)を経て、後亀山天皇(第二皇子)で終結したのだ。

一気に荘厳浄土寺から住吉行宮まで来てしまったが、ここで、道の旅人はハタっと気がついたのだ。こともあろうに物語を追って、危うく住吉の忘れ病(三忘れ伝説)に陥るところであった。

 

住吉と海人(あま)は告ぐともながゐすな 人忘草おふといふなり(古今集917 壬生忠岑)

 

というのも、住吉大社の南東、細江川北岸・浅沢神社周辺は古代、浅沢沼と呼ばれ、平安の昔からかきつばたの名所として知られていました。

 

住吉の浅沢小野のかきつはた 衣に摺り付け着む日知らずも  (万七ー1361)

 

また、衣を染めつけるほどの杜若の群生とはどのようなものか、はるか万葉の時代を想いうかべてほしいものであるが、これが住吉区の花に選ばれているのだ。

この浅沢社を東に上ったところに、藤沢邸・西華山房顕彰碑がある。

 昭和において大阪文壇のサロンのような藤沢の山荘には、今宮中→大阪高校→東大→「辻馬車」同人として終生の友だった秋田実、長沖一を初め、織田作之助、吉田留三郎、庄野英二・潤三、坂田寛夫、石浜恒夫、小野十三郎、杉山平一、安西冬衛、伊東静雄、岸本水府、今東光、司馬遼太郎、藤本義一、難波利三、田辺聖子など大阪の著名な作家が訪れている。

文才を買った織田作之助が47年に東京で客死した時は葬儀委員長を務め、法善寺横丁に句碑を建てるのにも尽力した。

その人柄も、「藤沢さん自身が菊池寛らに世話されて世に出ただけに、自然と若手の面倒をみる気持ちになったのでしょう」

アマチュア五段(没後七段を追贈された)の段位を持つ程の、文士きっての将棋好きとしても知られた。

河川整備が進み、平野処理場の浄化水を送水した「人工のせせらぎ」となっている細江川ゆかりの歌碑の中に、宗良親王の歌があった。

 

住吉の細江漕ぎ出づる海士船の葦間あらそう夜半の月影 宗良親王

 

この”あらそう”も南北朝時代を思わせるが、もう一首を載せておく。

その【補記】には、正平七年(1352)閏二月頃、武蔵国小手指原に陣を布き、軍団の配置などを指揮した際、武士達の気を奮い立たせるよう励ました。その後、思いに耽って詠んだ歌。

 

君がため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば  (新葉1235)