仁徳天皇陵
遠里小野橋を渡った道の旅人は、堺市堺区遠里小野町に入り、南海高野線の浅香山駅(堺区高須町)に向う。
夕さらば潮(しほ)満ち来なむ住吉の浅香(あさか)の浦に玉藻(たまも)刈りてな
(万葉集121 弓削皇子)
この歌は、皇子が紀皇女を想って謳いあげている四首のひとつである。そのことを想えば、玉藻が裳裾のように響く。
万葉の時代には波打ち際であった浅香ではあるが、江戸時代に付け替えられた大和川(1704年)は、依網池の中央を通り抜け、その浅香を分断したのである。
つまり、“浅香の千両曲がり”と呼ばれる改修工事が行われたと云う。
昔、この辺り、住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島ができ、遠く推古天皇の御代(五九〇年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より此処に埋まる香木有り、と伝えて去る。
太子が不思議に思い、掘らせたところ、果たせるかな地中より、幾千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ、馥郁(ふくいく)優なる香りたなびき、その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を浅香の浦と呼び、その香木で老翁の像を刻みここに祀られた。
こうして浅香山稲荷神社(堺市北区)が創始されたわけだガ、これが、大和川付け替え工事が始まる、宝永年間の出来事につながっていく。
つまり、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手出しも出来ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変え、この狐塚を避けることによって大工事を完成させたという。
この浅香山稲荷神社は、熊野街道より東に外れており、JR浅香駅付近にある。
ただ、このあたりは丘陵地帯で、盤石であったがため改修されたという説もある。浅香の浦とか浅香山とか呼ばれるこの一帯は、断崖絶壁のイメージがわいてくる。
ここらで道の旅人は、熊野街道に戻ることにした。
王子ヶ飢(おうじがうえ)公園に、境王子(さかいおうじ)碑があった。
境王子は、熊野街道沿いに設けられた九十九王子の一つで、窪津王子(八軒家船着場辺りにあった、熊野第一王子)から数えて7番目にあたる。
この王子ヶ飢とは、まったく奇妙な名前であるが、ここが堺市内でもっとも古い墓地(元禄九年:1696)であり、敷地約二千平方m、墓石数431基も在った(昭和三十九年)という。
やがて道路予定地となり、区画整理で墓地移転(現在は南区鉢ヶ峯寺の堺公園墓地に移転・統合)となったのだが、熊野街道には、神社も然ることながら、墓地も相応しいものの一つかもしれない。
ところで、自治都市堺の町は、江戸時代に復興された環濠の一部土居川に、極楽橋(宿屋町東と神明町東との境界付近)が架かっていた。この橋が、堺の町から王子ケ飢墓地へと向う葬列が渡ったことから、死者の極楽往生を願ってつけられたと云われている。
つまり、“王子ヶ飢”とは、王子が飢え死にしたようなイメージでなく、王子の墓地へ上ると云う【うえ】のことじゃなかったかと思うんよ。
市(まち)は、人が賑ったり、道が行き交う場所にできるけれど、墓は人気のない、道の外れにあったりする。
しかしそこは、墓にとっても、見晴らしの良い場所だったに違いない。
この境王子を南へ向えば、方違(かたたがえ・ほうちがい)神社(堺市堺区北三国ヶ丘)にぶつかる。熊野街道沿いに、この“ほうちがいさん”があることは、この旅の無事を祈るのに、心強い味方になる。
と言うのも、社地は摂津・河内・和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国(律令国)のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。
と云う分けで、熊野詣での人々も必ず参詣し、旅の安全を祈ったのだ。藤原定家の『後鳥羽院熊野行幸記』にある、「次いで境王子に参る。次第また例のごとし。次いで境にて御禊あり」のふたつめの『境』は、方違神社のことである。
古きより方災除の神として御神徳を仰ぎ、その境内の御土と菰(こも)の葉にて作られた粽(ちまき)は、悪い方位を祓うという信仰を以て、参詣者が全国より訪れる。
つまり現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。
自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
平安時代に、盛んにおこなわれた方違えであるが、方違神社で拝んでもらうと、どんな方向へ行っても災難に遭わないんよ。
十代崇神天皇8年(西暦前90)12月29日、疾病により多くの民が死亡したことを憂い、勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。
これが創̪祀(そうし)の起源なのだが、時を経て神功皇后が新羅より凱旋の途次、皇子(後の十五代応神天皇)とは異腹の忍熊王の叛乱に遭う。
そこで、三筒男神の御神教により、神武天皇御斎祷の故事に倣い御自ら八十平瓮(やそひらか:平皿)を作り、須佐之男神を奉祀した神地に於いて方災除けを祈願し皇軍を勝利に導いた。
後に応神天皇はこの地に須佐之男神・三筒男神・母后神(神功皇后)を合せ祀り、方違大依羅神社(かたたがへおおよさみのかむつやしろ)と名づけた。
以後、方災除けの神として朝廷武家をはじめ崇敬篤く、関連文献には、仁徳天皇・孝徳天皇・弘法大師空海・平清盛・後鳥羽天皇・徳川家康などの名前が見える。因みに、奈良時代には人馬往来の要衝であり、長尾街道が賑わっていたのだ。
この神社の南側に、十八代反正天皇(仁徳天皇第三皇子)陵がある。
つまり、この古墳は築造するにあたって、神域を侵したことになるのではないだろうか?しかも神功皇后は、反正天皇にとっては曾祖母にあたるのだ。
ひょっとしたらこの天皇も、神に列せられたということであろうか?
道の旅人は、ふと河内王朝論が噴出する入口に経たされたような気がした。
つまり、反正天皇の都は丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや:大阪府松原市)であるが、その兄十七代履中天皇(仁徳天皇第一皇子)の都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや:奈良県桜井市)であり、その弟の十九代允恭天皇(仁徳天皇第四皇子)の都は遠飛鳥宮(とおつあすかのみや:奈良県高市郡明日香村)なのだ。
そして彼らの父十六代仁徳天皇の皇居はもちろん、難波高津宮(大阪市中央区)である。因みにその父十五代応神天皇の都は、軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや:奈良県橿原市)と大隅宮(おおすみのみや:大阪市東淀川区)である。
このように、皇居を以て河内王朝論は唱えることができないけれど、古市・百舌鳥古墳群を以てして云えることがある。
すなわち、河内・摂津は倭の玄関口として、もっとも重要な位置を占めていたってことなのだ。
即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて、3年間租税を免除した。
その間は倹約のために、宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。
これらの業績から仁徳天皇は聖帝(ひじりのみかど)と称され、聖の世と称えられた。
仁徳天皇陵は世界一のお墓であり、本来ならその功績を述べる必要があるかもしれないけれど、その御陵の西側にある、磐姫皇后の歌碑について述べたいと思う。
仁徳天皇陵は世界一のお墓であり、本来ならその功績を述べる必要があるかもしれないけれど、その御陵の西側に、磐姫皇后の歌碑があります。
君が行き日長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(万2-85)
かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根(いはね)し枕(ま)きて死なましものを(万2-86)
在りつつも 君をば待たむ うち靡く 吾が黒髪に 霜の置くまでに (万2-87)
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(万2-88)
以上が、万葉集に載っている、磐姫皇后の4首になる。
これだけの愛情を注いでるからこそ、古事記に「甚多く嫉妬(ねた)みたまひき」と記述されたのかもしれない。
仁徳天皇30年(342年)、彼女が熊野に遊びに出た隙に、夫が八田皇女(磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市に移り、同地で没した。
ところが、そのお墓として治定されているのは、ヒシアゲ古墳(奈良県奈良市佐紀町)である。
古事記などでは、仁徳天皇といろいろな女性のことが書かれてありますが、今は、仁徳天皇はお一人であそこにいらっしゃる。これは、吾が黒髪が灰色になって、霜が置くまでいつまでもお待ちしていようという意味の歌を書くことによって、仁徳天皇もはじめておひとりでおられるのですから、磐姫皇后が側にきてよかったと思うのではないでしようか。
(『フォーラム堺学 第1回』より 犬養孝)
記紀には、好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれているけれど、ここは豪族との姻戚関係(日向髪長媛・黒日売)で平和的に仁政が敷かれていたように思えるのだ。
もちろん、応神天皇の皇女(八田皇女・宇遅之若郎女)についても、2世豪族との良好関係を引き継いだのかもしれない。
ところで、『磐姫皇后思天皇御作歌四首』のあとの題詞に、‟或る本の歌に曰く”と書かれている歌があり、かの折口信夫は、皇后の歌として語らなかったけれど、犬養万葉歌碑には詠われている。
居明而(ゐあかして)君乎者将待(きみをばまたむ)奴婆珠能(ぬばたまの)
吾黒髪尓(あがくろかみに)霜者零騰文(しもはふるとも) 【万Ⅱー89】
それに対して仁徳天皇の歌は、古事記と日本書紀に恋歌があるのだが、ここは新古今集の有名な歌で讃えておきたい。
高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ 民のかまどはにぎはひにけり (新古707)